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ショコラ・ノワール  作者: ZAKI
第4章
12/35

 義弟の旭が店を訪れたのは、それからまもなく、1月下旬に差しかかる頃合いのことだった。


「鳴海さん、あの、お客様が……」


 例によって厨房にいた鳴海は、葵から遠慮がちに声をかけられ、小さく嘆息した。


「あ、いま、お忙しかったですか?」


 鳴海の様子を見て、葵が恐縮したように首を縮める。鳴海は途端に眉間の皺を解いて、表情を取り繕った。


「ああ、いや、大丈夫。いま行く」


 開店直後の平日の午前中。客の出入りはまだない。鳴海が旭からの電話を受けたのは前夜のこと。昨日の今日で早速、しかもあえて営業時間内を狙って訪ねてくるということは、鳴海自身が乗り気でないことを承知のうえで、旭も引く気がないということなのだろう。

 しかたなく作業を中断して店に出ると、旭はショウケースのまえで愛想よく鳴海に片手を挙げて見せた。


「悪いね、りょうちゃん。忙しいのに」


 口では悪いと言いつつ、満面の笑みを浮かべるその顔は少しも悪びれていない。鳴海はわずかに渋い表情を見せながら、ショウケースわきの木戸を抜けた。


「旭くん、昨日も言ったけど、なにもうちじゃなくてもいいんじゃないか?」

「そう言わないで。そこをなんとか、ぜひ」

「しかし、昨夜ゆうべも言ったとおり、俺はまだ独立したばかりだし、職人としても経験が浅い。本格的にショコラティエとしての腕を磨きたいなら、もっと老舗しにせの――」

「わたし、鳴海さんのファンなんです」


 唐突に会話に割って入られ、鳴海はセリフの途中で言葉を呑んだ。


「あ、ごめんなさい。不躾ぶしつけに」


 旭越しに鳴海の視線を受けて、背後にいた人物が非礼を詫びた。長い髪を後方できちっとまとめ上げた、パンツスーツ姿の女だった。

 旭が得たりとばかりに女を自分の横に並ばせる。そして、あらためて鳴海に向きなおった。


「彼女が昨日電話で話した俺の後輩。塚本加奈子さん」


 紹介されて、加奈子が一歩まえに進み出て丁寧に頭を下げる。


「塚本と申します。どうぞよろしくお願いいたします」

「ああ、いや……」


 鳴海は返答に詰まって言葉を濁した。


 バレンタイン前後の忙しい期間だけでいいから、ぜひ手伝わせてほしいという後輩がいる。昨夜唐突に入った電話で、旭は渋る鳴海を強引に説き伏せた。自分はまだ独立したばかりで、本格的にプロを目指す人間を指導できる立場にはない。鳴海がそう言って固辞したにもかかわらず、旭はそれでもかまわないのだと言って引き下がらなかった。

 とにかく一度連れていくから、会うだけでも会ってみてくれないか。旭には珍しく、ゴリ押しするようなかたちで押しきられ、不承不承会うだけならばと応じたのだが、その後輩が女性であることまでは聞いていなかった。

 むろん、旭が嘘をついたわけではない。だが、話の雰囲気から、なんとなく男の後輩であると鳴海は思いこんでいた。


「――旭くん」

「彼女、フランスの有名なショコラトリーで修行してきたとこなんだ」


 その場で断ろうとした空気を読んだのだろう。皆まで言わせず、旭は口早に言った。


「ちょうど帰国したばっかでさ。大学時代のメンツで集まったときに、たまたまりょうちゃんの話になってね。そしたら彼女、やたら興味持っちゃって」

「先輩からお話を伺って、早速こちらにお邪魔させていただいたんです。何度か通って、商品もひととおり買わせていただきました」


 加奈子の言葉を聞いた途端、鳴海の背後で葵が「あ」と声をあげた。客として来店した加奈子に、おぼえがあったのだろう。

 鳴海は小さくかぶりを振って嘆息した。


「ならばなおのこと、うちに来てもらうのは申し訳ないな。本場で学ばれたなら、もっといいところで腕をふるえるだろう。悪いが、別を当たってもらいたい」

「えっ、そんな、りょうちゃん!」


 旭はいささかあわてたように声を上擦らせた。先輩としての面子めんつ云々以前に、旭なりの意図があったことはこれで明白となった。4つ下の旭の後輩となると、年齢は30前後といったところか。彼の実姉と婚姻関係にあったとはいえ、その妻を亡くしてすでに5年。まったく女っ気がない鳴海を心配して、旭がお節介を焼いたのだろう。昨夜電話を受けてから感じていた違和感はこれだったかと、鳴海は内心で嘆息した。


「すまないが、俺ではお役に立てそうにない。自分のことで手一杯なものでね」


 鳴海はきっぱりと告げた。偽りのない本心である。

 だれかに支えてほしいなどとは思わない。だれかと苦労を分かち合いたいとも思わない。ぽっかりと空いた穴、空虚に抜け落ちた部分を埋めてくれるだれかにかりそめの慰めを求めるくらいなら、己の裡にできた、決して埋まることのない大穴を抱えて、底の見えない深淵を眺めているほうがずっといい。それ以上の余裕を持つことなど、いまの自分には到底できそうになかった。


「実績は関係ありません」


 明確に拒絶の意思を示して、この話はこれで打ち切ろうとしたそのとき、思いがけず強い声があがった。

 思わず顧みた先で、旭の横に佇む加奈子が昂然と顎を反らし、鳴海を見据えていた。口調同様に強い眼差し。そこに、揺らぐことのない意志が窺えた。


「ご迷惑であることは重々承知しています。でもわたし、この機会を逃したくないんです」

「カナ」


 旭の呼びかけを受け流して、加奈子は鳴海と向き合った。


「わたしに本場での修行経験があるとかないとか、そんなことは関係がありません。もっと名のある場所で修行の実績を活かすかどうかも関係ありません。大事なのは、わたしがだれの下で働きたいと望むかだけです」


 その希望が、まさしく鳴海なのだと告げた。


「しかし――」

「突然押しかけた挙げ句に生意気を言って申し訳ありません。でも、これがまぎれもない本心です。鳴海さん、わたしは鳴海さんから学ばせていただきたいと思っています」


 加奈子の断固とした決意が、どこからくるのか鳴海にはわからなかった。


「どうしてそこまで……」

「旭先輩から鳴海さんのことを伺ったとき、何度かお店に足を運ばせてもらったと申し上げました。同様に、他の著名なショコラティエのお店にも行って参りました」


 修行を終えて帰国したばかりだからこそ、海外では学ぶことのできなかった日本人ならではの繊細さにこだわりたかったのだという。


「その中で、わたしがもっとも心惹かれたのは、鳴海さんが手がけられたチョコレートでした」


 加奈子は断言した。


「もちろん、ひととおりまわった有名店、名の通ったショコラティエ、ショコラティエールの作品もそれぞれ素晴らしかったです。でも、わたしが師事したいと心から思ったのは鳴海さんでした。たぶん、鳴海さんの持ってらっしゃる感性が、いまのわたしにしっくり馴染んで、同時に欠落した部分に対しては、とても強い刺激を受けたからなんだと思います」


 ほかは考えられないし、一緒に仕事をさせてもらえるなら、しばらくのあいだであれば無給でもかまわない。固い決意で鎧った真剣な面持ちで頭を下げられ、鳴海は返答に窮して黙りこんだ。


「りょうちゃん、俺からも頼むよ」


 そんな鳴海を見て、旭もふたたび口添えをした。


「こんなふうに俺が出しゃばったら、りょうちゃん、余計断りづらいってわかってるけど、でも、ここまで必死になってるカナって、俺、見たことないんだよ。なんていうか、もともと頭がよくて、なんでも器用にさらっとこなしちゃうタイプだからさ。なりふりかまわず、みたいな感じでなにかに打ちこんでる姿、一度も見たことなくて」


 それが今回にかぎっては、まるで様子が違った。鳴海のことを話題にしていくらもしないうちに、どうにかして橋渡しをしてもらえないかと、加奈子のほうから旭に懇願してきたのだという。


「こういうコネに頼るようなこと、いつもなら絶対嫌がる奴なのに、今回だけは姑息でも卑怯でもかまわないからって。俺もそこまで頼みこまれちゃったら、無碍むげにできないじゃん?」


 旭の言葉に、加奈子は隣で恥じ入るように身を硬くし、目線を落としている。


「ね、りょうちゃん、人物は俺が保証するから、なんとか受け入れてもらえないかな」


 重ねて懇願され、鳴海は撥ねつけることができなくなった。

 本人が納得できるまでのあいだでいいなら。

 ひとまずそのような条件をつけ、加奈子を雇い入れることにした。

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