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クリスマスも年末年始も、そこそこの慌ただしさはあったものの、比較的平穏に過ぎていった。だが、1月も半ばを過ぎてくると、バレンタイン商戦に向け、チョコレート専門店ならではの緊張感が次第に増してくる。店のほうはすでに葵に任せておいても支障はなくなってきているため、鳴海はここ最近、厨房に籠もって作業に集中していることが多くなった。
勉強熱心で日々の仕事を真摯にこなす葵の姿勢も変わらない。最近では、開店前や店を閉めたあとに、タルトの生地作りやメレンゲ、生クリームの準備なども率先して手伝ってくれる。おかげで鳴海の負担も、ぐっと軽くなった。
ひとりで切り盛りすることがあたりまえになっていた開店当初からの数ヶ月に比べ、女性ならではのこまやかな気配りが行き届いた最近の店の雰囲気は、以前よりだいぶ華やいで、明るくなったように感じられた。
そんな葵が、先程から目の前で眉間に皺を寄せ、難しい顔をしている。自分でテンパリングをかけたチョコを、試食しているところだった。
「教えてもらったとおりにやったつもりなのに、どうしてうまくいかないんだろう……」
鳴海の手ほどきを受けて、言われたとおりに攪拌したはずが、納得のいく仕上がりならない。最初は大切な材料を素人の自分が触るわけにはいかないと固辞していた葵だったが、毎回、あまりにも興味深そうに鳴海の仕事ぶりを眺めているため、少量のチョコレートでやってみるよう鳴海のほうからうながしたのである。
型枠から取り出したチョコを試食する鳴海を、葵は不安そうに窺っている。鳴海はそれに対し、言うほど悪くはないと合格点を出した。
「なかなかうまくできてるんじゃないか? はじめてにしては、いい仕上がりだと思うが」
「そんなことないです。食感も風味も全然違いますもん。それに、鳴海さんのと比べるとツヤも悪いし。きっと時間が経ったら、もっとはっきり質の悪さが出ちゃう。鳴海さん見てるとすごく簡単そうにやってるように見えるのに、こんなに難しいなんて」
言ったあとで、深々と息をついた。
「やっぱり鳴海さん、すごいです」
「そりゃあ、まがりなりにもプロだから」
鳴海は小さく笑った。
「けど、初心者ならだれでも通る道だ。君は筋がいいよ」
「そうなんでしょうか。鳴海さんにもうまくできなかったときって、あったんですか?」
「それは当然あったさ。コツと勘を掴むまでに、どれだけ失敗したかわからない。いまだって、試行錯誤の連続だよ」
商品ごとにカカオの品種や生産地、配合を変える。新商品を手がける都度、ベストの組み合わせや口溶け、舌触り、風味など、相応の試作を重ねて吟味するのがつねだった。
「全然想像できません。鳴海さんて、いつでも完璧にささっと仕上げちゃうように見えますもん」
「それは君の買いかぶりだよ。なんでもスマートにこなせるほど、器用なタチじゃない」
むしろ、不器用で融通が利かないがゆえに、余裕のない生きかたをしているという自覚ならあった。そんな必死さを、おもてに素直に出せる年齢ではなくなったというだけのことだろう。
「ここでお店を開くまえは、別の場所にお店があったんですか?」
「いや、ここがはじめてだ」
「それじゃあ、どこかで修行されたり、お勤めされてから独立されたんですね」
「まあ、そういうことだな」
「自分のお店を持てるって、すごいですよね。開業資金貯めるの、大変だったんじゃないですか?」
「それはまあ、それなりにまとまった金が要るし」
「どのくらい修行されたんですか? 専門学校に通われたりもしたんでしょうか? プロとして認められるまでに、結構時間はかかりました?」
訊かれたことにポツポツと答えていた鳴海は、そこで思わず葵の顔をまじまじと見つめた。
「――どうした、急に? 君も自分の店を持ちたいのか?」
「あ、いいえ。まさかそんな」
葵はすぐさま否定したが、鳴海には、たんなる興味本位の質問とは思えなかった。
「本格的に専門職を目指すつもりなら、俺も協力するが?」
鳴海の申し出に、葵はあわてて両手とかぶりを振った。
「いえ、違うんです。そうじゃなくて、その、これだけの結果を出すまでに、どれだけ努力してこられたのかなって思って。鳴海さん、いつも淡々としてるから」
言われて、鳴海は首をかしげた。
「淡々としてる?」
「はい。さっきも言いましたけど、鳴海さん、全然大変そうな様子とか見せることもないですし、いつも落ち着いてるっていうか、感情面での起伏が少ないっていうか」
「……ひょっとして、愛想が悪すぎるか?」
「ち、違うんです! うまく言えないんですけど、なんていうかその、おもてに出さない苦労とか、そういうのをまるごと呑みこめる強さみたいなものがあるっていうか。そういうのって、どのくらいの経験を積んだら身につくのかなって思って。あたし、なんでもすぐ顔に出ちゃうし、ちょっとしたことで気持ちが揺れたりくよくよしたりして、すぐグダグダになっちゃうから」
必死に言葉を探す様子が、葵の負った心の傷の深さを物語っていた。
あれからまだ、2ヶ月しか経っていない。彼女はいまも、懸命に足掻きつづけているのだろう。
思ったところで、鳴海はふと、己を省みる。
自分はどうだろう。いまもなお、底なしの泥沼に嵌まりこんだまま溺れそうになっているのだろうか。あれからもう5年。麻痺した感覚では、己の心と向き合うことさえ難しい。
強いのではないと、鳴海は心の裡で葵の言葉を否定した。
強いのではない。むしろ弱すぎるからこそ目を逸らし、感情に蓋をして、眼前の現実に背を向けつづけてきたのだ。
正面から向き合い、立ち向かう勇気を捨て去った。
――おまえはなぜ、いまものうのうと生きている。
果てのない深淵から覗きこんでくる『過去』が、激しく鳴海を責め立てる。鳴海はその声に耳を塞ぎ、湧き上がるひとつの感情を記憶の底へと押しやった。
「なにをもって『強さ』と言うのかはわからないが、君は充分強いよ。少なくとも俺なんかより、ずっと」
鳴海の言葉に、葵は物問いたげな様子を見せた。だが、鳴海はそれ以上は語らず、作業のつづきに戻った。