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「俺も同意見だったからこその決定だ。最初に君が試食したほうは、抹茶と柚子のバランスとしては申し分ないはずなんだが、客層を考えると、もう少し若い女性向けに軽めで口当たりのいいものにしたほうがいいかとも思ってね。それでもう一種類用意して、購買層とちょうど世代が重なる君の意見も聞いてみようと思ったわけなんだ。だけど君も、抹茶の風味を効かせた渋めのテイストのほうを選んでくれた。だから当初の路線そのままでいけると俺も踏んだ。つまりそういうことだ」
説明されて、葵はホッとしたように躰から力を抜いた。
「な、なんだ……。だったらいいですけど……」
呟いたあとで、それでもどこか、納得しがたい眼差しを鳴海に向けた。
「なんだ? まだなにか、ひっかかるか?」
「ひっかかる、っていうわけじゃないですけど」
否定しながらも、その口がわずかに尖った。
「今回は鳴海さんと意見が一致したからよかったですけど、もしあたしが二番目のほう選んじゃってたら、どうするつもりだったんですか?」
「ああ、なるほど。そうだなあ」
思案するように独りごちてから、鳴海はフッと口許をゆるめた。
「そこまでは考えてなかった」
「はいっ?」
「いや、なんとなく君は、俺と意見が一致するような気がしてた」
「あのっ、それって試食する意味、なくないですか?」
声の調子がワントーンが上がる葵に、鳴海はそんなことはないとすまして応じた。
「おかげで自信を持って店に出せる」
「はあ……」
そんなものだろうかと一応頷きつつ、葵は腑に落ちない顔をしている。それからふたたび、不満そうに口を尖らせた。
「鳴海さんて、結構いじめっ子タイプですよね」
「そうか?」
「そうですよ。無口で真面目で、冗談ひとつ言わなそうなのに、気がつくとあたし、結構イジられてますもん」
拗ねたような口調と態度が、小動物を思わせる。出会った当初の頼りなげで打ちひしがれた様子は、すっかりなりをひそめていた。かわりに快活な、彼女本来の真摯で素直な性質があらわれはじめている。鳴海はそれを、好ましく思っていた。
「仕事は、少しは慣れたか?」
唐突に話題を転じると、葵は一瞬、面食らったように瞬きをする。しかしすぐに、「はい」と頷いた。
「正直、まだいろいろ緊張しますけど、お仕事自体はとても楽しいです」
「そうか、ならよかった。あまり気負いすぎなくていい。気楽にやってくれてかまわないから」
「ありがとうございます」
葵ははにかんだように笑った。
実際、その場の勢いと流れで採用を決めたにしては、いいスタッフが見つかったと思う。当初は自分が厨房に引っこんでいるあいだの簡単な接客要因程度に考えていたのだが、いざ仕事を任せてみると、葵は思いのほか熱心に学ぶ姿勢を見せた。
客から訊かれたことに対し、できるかぎりわかりやすく答えられるようにと、それぞれの商品の特徴や性質、素材の違いなどについて丁寧にメモを取り、わからないことがあれば鳴海に教えを請おうとする。鳴海の手を極力煩わせず、客の要望に応じた助言ができるようになりたいとも言っていた。接客そのものについても、相応の社会人経験があることと、学生時代に飲食店でのアルバイト経験があるとかで、愛想がいいとはいいかねる鳴海より、よほど手慣れた対応で感じがいいくらいだった。それでもなお、専門店ならではの知識が不足していることに不安をおぼえると吐露する。葵は日々、商品に関するこまかな情報収集に余念がなかった。
葵の真摯な姿勢に満足をおぼえる一方で、鳴海の側では別の懸念がよぎらなかったわけではない。近隣には、葵がもっとも鉢合わせしたくないだろう者たちが住んでいる。彼らがいつ、ひょっこり現れないともかぎらない状況の中で、店先に葵を置いておくことが果たしていいことなのか、鳴海自身も迷うところだった。だが、その心配はないと、とうの葵が請け合った。
葵が辞職したその週末に、くだんのふたりはもっと都心に近い場所に新居を構え、引っ越すことが決まっていたのだという。だからこそ余計惨めで、そのやりきれなさが葵を追いつめた。そこから逃れるために、葵はあの雨の夜、鳴海のもとへやってきたのだ。
あれから3週間。葵の言葉どおり、彼らが店を訪れる気配はない。葵自身も、月が変わって以降は、入店する客や道行く人々に警戒の色を滲ませる様子はなくなっていた。行き場を失ってできた溝を埋めるように、葵は差し伸べた鳴海の手に縋りついた。だが、店で働くことへの危うさを、もっとも承知していたのは葵自身だっただろう。
「クリスマスって、やっぱり来客数も増えるんでしょうか?」
簡単なツリーや装飾などのディスプレイでそれらしい雰囲気を出している店のほうを見やりながら、葵は疑問を口にした。
「どうだろう。オープンしてはじめてのクリスマスだからなんとも言えないが、普段よりは、多少なりと賑わうかもしれないな。ハロウィンのときも、それなりだったし」
「あの、あたし、手伝えることがあったら残業でもなんでもしますから、いくらでも言ってください」
「ありがとう。いざというときは頼むよ。たぶん、いちばん大変なのは、年明けのバレンタイン・シーズンだと思うけど」
「バレンタイン……」
葵はたしかに大変だと、緊張の面持ちで頷いた。
「あたし、それまでにもっともっと、いっぱい勉強しておきます! 頑張りますから!」
「ああ、頼りにしてる」
気合いの入った様子で宣言する葵に、鳴海はゆったりとした笑みで応えた。