お題【運命】
「私達って、運命だったのかもね」
曇りガラスを伝う雨粒を目で追いながら、彼女はポツリとそう零した。
窓際の据え置きのテーブルに肘をつき、脚の長い椅子に腰掛け、さもつまらなさそうな顔をしているが、言っていることは随分と可愛らしい。
「女って好きだよね、そういうの」
「あら、決め付けはよくないわ。あなただって感じてるでしょう?」
賛同を求めるような視線から逃れるように、僕は肩を竦めて膝に広げた小説に目を落とした。
「なんでまた、急に運命だなんて言いだしたの?」
「何となくよ」
文面を辿りながら聞けば、素っ気ない言葉が返って来た。生返事を返しながら、また読み進める。
同じ部屋の中に居るのに離れた位置にいるからといって、僕達は別に喧嘩している訳ではない。
お互いに、この距離感が居心地がいいのだ。
彼女はさっきまで隣に座って手元を覗き込んでいたけれど、すぐに「好みじゃないわ」と呟いて、お気に入りの窓際に行ってしまった。
これも、よくあること。 僕と彼女の本の趣味は全く合わないから、仕方がない。
それはさておき、彼女が僕達の関係を運命だとか、そんな風に思っていたとは意外だった。
普段はそんな、いかにも女性といったロマンチックなことは全くと言っていいほど口にしない人だから、余計に。
そう思いつつ、窓を流れる雨粒を飽きもせずに見続ける横顔を、そっと窺う。
何度見ても、僕には勿体無い人だと思う。
外見だけじゃなく、その中身も、人間性も。
僕なんかで本当に良いのか、という思いは何度も抱いたし、それと同時にその質問を彼女にすることの馬鹿馬鹿しさに気づきもした。
僕と君が運命だなんて、僕には到底思えないよ。
そんな自嘲めいた言葉を飲み込んで、わざと明るい調子で彼女に話しかける。
「ねえ、運命ってのはさ、多分こういうことを言うんだよ」
「こういうことって?」
膝の上の本を取り上げて、彼女に見える位置で振ってみせる。
「運命っていうのは僕がこの本を見つけた時みたいにさ、背表紙がパッと目に入っただけで、こう、何か、頭と心にビビッと来るようなもんなんだよ。事実、そうやって見つけた本は間違いなく面白いし、宝物を見つけたような、幸せな気分になる」
「あら、あなた、私に一目惚れだったって言ったじゃない。それってビビッときたんじゃないの?」
視線だけを僕に寄越して微笑む綺麗な表情に、暫し見惚れた。
彼女が言っているのは事実だ。
だから否定はしない。寧ろできない。
弱ったな。語彙が乏しいなりに良いこと言ったと思ったのに、たちまち返事に窮してしまった。
「…否定はしないさ。でも僕は、まだ君を読みきれてないよ。まだまだ序の口、プロローグだけで全部を読んだ気になるのはナンセンスだ」
「当然でしょう。わたしは易しい女じゃないもの」
得意げに笑うその笑顔も、綺麗だ。
ああ、僕にもっと語彙力や文章力があれば、彼女の魅力を大いに語ることもできそうなものを。
昔から本はジャンルを問わず沢山読んできた筈なのに、僕は全然ものに出来ていないようだ。
「……読み応えがあるのは良いことだ。ま、時間はかかっちゃうけどね」
そう、僕は速読はおろか、斜め読みすら苦手な奴なのだ。何か大事な内容を読み落としてしまうことを恐れて、中々挑戦できない臆病な奴。
そんな情け無い奴、なんだけど…。
紙面の下方に目を落とし、まだ100にも満たないページ数を確認してから栞を挟む。この栞の押し花は、いつだったか、彼女と出掛けた公園か何処かで咲いていた花だっけな。
白い台紙とフィルムの間にある花弁は少しくすんではいるものの、記憶にあるものと変わらない色を保っている。
晴れ渡った空の色。
あの日、彼女が来ていたワンピースと同じ色だったような気がする。
そんなことを考えながら目の前の卓上に本を置けば、その音で彼女が振り返った。
僕は普段、一度読み始めれば3時間は止めないから、珍しいとでも思っているんだろう。
今日はまだ30分も経っていないもんな。
そりゃ変だろう。
まあ、今日は別のことに気をとられっぱなしで全く集中できなかったから、仕方ないさ。
重い腰を上げて、不思議そうに首を傾げている彼女の隣に立つ。
窓の外では、朝から降り続いていた雨が上がりかけているところだった。
小降りになってきた雨。
曇天の空から、晴れ間が覗いている。
「ねえ、」
「ん?」
何でもないように話しかけたつもりの声は、情けないほど掠れていた。
乾いた唇を湿し、素直に僕を見上げている彼女に向き直る。
「僕に、運命を感じさせてくれないか。何十年か後、最後に君の姿を見たときに、面白かったって…幸せな人生だったって思えるようにさ」
切れ長の目が、驚いたように見開かれた。
あまりにも真っ直ぐな視線に耐えきれず、思わず目を逸らしてしまう。
顔に熱が集まっているのはわかっていたけれど、どうしようもない。
沈黙の中には、緩い雨がさわさわと窓に打ち付ける音だけが響いている。
まずい、失敗したか。
彼女がいつか言ってくれた、僕らしくっていうのを参考にしたつもりだったんだけど。
やっぱり世の女性方が望んでいるように、綺麗な夜景の見えるホテルの最上階のレストランでフルコースを堪能し、シャンパンでほろ酔いになり、気分の良くなったタイミングで、スマートに指輪を差し出した方が良かったのか。給料三ヶ月分の奴を。
みるみるうちに晴れ間が差す窓の外の空とは対照的に、悶々と暗雲が立ち込め始めた胸中で、深く長いため息を何度も吐いた。心中で、呪詛の呻きさえ漏れた。
「…期待して良いわよ」
そんな状態だったから、そんな自信ありげな返事が返ってきたことを、俄かには信じられなかった。
「え、」
回らない思考では、その意味を理解するのに時間がかかった。
「あなたが読んできたどんな本よりも、私との生活は面白いって断言できるわ。それに、私とあなたが一緒にいるのよ?幸せじゃない訳がないでしょう?…だから、期待してて良いわ」
存外幼く見えるビックリ顔から一転、挑発的な余裕に満ちた笑みは、今まで何度も見てきたような、それでいて、初めて目にしたような魅力があった。
「……あぁ。期待しとくよ…!」
湧き上がる喜びでだらしないほど破顔してしまうのは、この際仕方がない。
「もう…もっと良い口説き文句はなかったの?これじゃあ、私がプロポーズしたみたいじゃない」
しょうがない人ね、と苦笑する彼女の目許には、雫が光っていた。
恐る恐る手を伸ばしてそれを拭うと、くすぐったそうに首を竦めてはにかむ。
そんな彼女を柄にもなく力いっぱい抱きしめてしまったことも、この状況なら誰も咎め立てしないだろう。
「うん、ごめん。今度、指輪を渡すときは、精一杯カッコつけるから」
明るい笑い声を上げながら、ぎゅっと背に回された手が、嬉しくて仕方がなかった。
これは、早速前言を撤回しなくてはならないかもしれない。
これから何十年もかけて、彼女の全てを読みきった時に感じるものだと思っていたのに。
僕はもう、今この瞬間に、愛しい彼女に心から運命を感じてしまったようなのだ。