6.深い海の底に在る者
深い深い海の中。そこが海中であると分かるのは上を見上げると陽の光が差し込んでいて、水面の揺れに合わせて光も揺れているからで、足元を見ると底の見えない暗闇が続いており、見つめ続けていると吸い込まれそうであるからだ。
「……海中……? のようだが、ここは――――」
先程まで得体の知れない者、巨漢の剣士と対峙していた海人。その者に襲われていた少女を守る為に立ち回っていた彼は、気が付くとこの場に、何処とも知れない海の中に居たのであった。
海中といってもそこは本当の海の中ではないのかも知れない。
水の中にしては衣服が水を吸収して重く纏わりつく感覚が無く、そしてなによりも息が苦しくないのである。
「まさか……夢だとか……、気を失って、それで……」
直前の出来事を思い起こせばそういった結論に至ってしまうのは当然であった。
大口を叩いたにもかかわらず、少女の忠告を無視して無茶をした挙句こうなってしまい、結局守り抜くことが出来なかった事に悔しさを滲ませ拳を握りしめる海人。
もう諦めるしかないのだと、死を受け入れるべき状況なのだが、腕に抱いた感触が忘れられなくて、握った拳を緩める事は出来ずにいた。
「――――ほう、久しいのう」
「……!?」
響く声。それは足元、海の底から聞こえてくるもので、低くて威厳を感じられるような声であって、自然と背筋が伸びるような、緊張感を抱いた。
声の主は誰だろうと足元に目を凝らす海人。すると永遠に闇が続く奈落かとも思われていた海の底に蠢くものが見えた。
「あれは――――」
闇に蠢くものは胴体が蛇のような長さであって、けれども蛇とは比較にならない程の大きさで、薄っすらと見える頭部は竜のように見え、双眸が光を放っていた。
「――――再びお主に会い見えようとはな……」
「俺の事を知っているのか……?」
「何だと?お主は我の事をもう忘れてしまったのか……」
やはり人とは薄情な生き物だと納得する竜。失望とも取れるが、目は細められており、悲しんでいるようにも見える。
ガッカリさせたことは申し訳ないと、けれども自分には竜の知り合いなど居る筈もないと海人は生真面目に返す。すると竜は身を捩って顔を海人の傍へと寄せ、鼻をヒクつかせた後に唸った。
「――――……この匂い、我の記憶が正しければ間違いようもないのだが――――んん、匂いが混じっておるな……。……そうか、成程成程」
「……もしかして、お前、目が見えないのか?」
「……ああ、今はな」
僅かに開かれた口から覗く牙はあらゆるものを砕くように鋭く、その口の大きさは人など簡単に丸のみにできる程である。それでも恐怖感を抱くことは無いのは細められた瞳のお蔭であったのだが、それが景色を捉える事が出来ないとは信じられなかった。
「なぁに、お主が気に病む事など無い」
「……?」
気の毒に思っていた海人の心を見透かした竜。彼は目が見えずとも匂いや気配で相手の事が分かるようで、困ることは無いという。
「それよりもお主はこんな所で油を売っていても良いのか?」
「……!? どうしてその事を……」
「我とお主が今ここに居る。それが理由だ」
不思議な竜との邂逅。それは決して夢などでもなく、死に際に見る走馬灯とも違う。
ここには至るべくして至ったのだと、必然の出会いであって、夢や幻でなく現実だと竜は言った。
「今が夢じゃないなら、俺は今すぐ戻らなければいけない……っ」
現状を理解した途端思い起こしたのはここに至るまでの出来事で、海人は今すぐ戻らなくてはと焦り出す。
「落ち着け」
「落ち着いてなどいられない!こうしている間にも、あの子が――――」
「今戻ったとして、お主に何が為せる?」
「そ、それは――――」
ただ逃げ回る事しか、攻撃を避ける事しか出来なかった海人。
これまで何十人を相手にしようとも決して膝を付く事が無かった海人にとって初めての敗北であって、戻った所でどうすれば良いか思いつきはしない。
身の丈程の大剣を易々と振るう巨漢は明らかにこれまでの相手と違い、敵わないのは明白で、なす術はないと分かってはいるが、ここでじっとしている訳にもいかなかった。
「……せめてあの子だけでも……っ」
自分はどうなろうと構わない。ただ、少女を守ることが出来さえすればいいと言う海人。
「お主が犠牲になる必要は無い」
「……俺じゃ盾にすらならないってことか?」
「否。お主は力を得る。そう簡単にはやられまい」
「力……?」
どういう事かと問い掛けようとした途端、眩い光に視界が眩む。
「再び会い見えたのも運命……。盟約を果たそうではないか」
青白い光に包まれながらも僅かに見えたのは竜の口元が歪む姿。そして最後に聞こえた声は高らかに笑っているようであった。
「――――……さん……?」
「……っ、ここは――――」
海中のような場所から景色は一変し、海人が立っていたのは見慣れた公園で、腕の中には驚いた表情の少女が居た。
まだ生きている。その事に安堵するが、少女は信じられないという顔のままでいて、よく見ると対峙していた巨漢の剣士も驚き目を見開いていた。
「貴様……っ、この世界の者ではなかったのか……!?」
そう呟いた巨漢の剣士は剣を構え直し、間髪入れずに振り下ろした。
「あ、ぶね……っ! ――――って、何だ……?!」
咄嗟に後ろへと飛び退いたが、地面を蹴り出した途端、不思議な事が起きた。
通常ならば大剣を避けるのがギリギリの場所に着地する筈だったのが、それよりも更に後ろへと着地したのである。
どういう事かと戸惑っていた海人が気付いたのは腕に抱いた感触で、あの不思議な海の中に至るまでは制服越しにでも少女の温もりと女性特有の柔さを感じていたのだが、今はそれが全く感じられていなかった。
「これは一体……――――」
手には黒いグローブ。腕には蒼いガントレット。足元には蒼いグリーブ。その姿は少女が身に纏っていた蒼い全身鎧そのものである。
制服とは違うものを身に纏っているとようやく気付いた海人。彼は今更ながら驚き声を上げたが、驚いたままではいられなかった。
「フン……。魔導装具を纏っただけで、ただ逃げているだけか?」
先程の跳躍により巨漢の剣士との距離はかなり広がった。けれども吠えた巨漢の剣士は瞬く間に距離を詰め、再び大剣を振るう。
どうにかギリギリで避けていた時とは違い、また易々と攻撃を避けた海人。
身体は軽く、抱えている少女は元々軽く感じていたが、更に重さが無いようで、立ち回るのに負担は全く無い。
これならば逃げ切れることも容易なのだが、まだ逃げ出す訳にはいかなかった。
「ここなら安心か……。悪いがここで待っていてくれ」
逃げ続けて分かった事。それは巨漢の剣士の動きで、どうやら彼は跳躍力に関しては劣っているようだ。
一方海人は軽々と相手を飛び越せるほどの跳躍力を得ている為、公園内にあるトイレの屋根へ飛び乗り、抱えていた少女を下した。
「カイトさん……っ!」
「少しだけ待っていてくれ。……大丈夫、気を失わせるだけに留めておくから」
「そうじゃありません! 相手は第六騎士団の副長です……っ。いくら魔導装具を纏えたからといって敵う相手では……――――」
敵の危険性を訴える少女。けれども彼女の言う言葉は海人にとってピンと来ないものであって、それ以前に海人は負ける筈などないという自信があった。
「問題ないさ。この力が、心配は要らないと言っている気がするからな」
己の身に纏うもの。それはあの海の中で出会った竜の気配を感じさせるものであって、彼が大船に乗った気でいろと言っているようで、そのお蔭で対峙する相手に恐れを抱くことは無く、自信に満ち溢れた。
まだ不安はあるようだが、海人の言葉を信じて伸ばした手を引く少女。彼女に見守られながら海人は巨漢の剣士の前へ進み出る。
「待たせたな!」
「……随分と自信があるようだが、武器は良いのか?」
「武器ならあるさ」
巨漢の剣士が首を傾げるのも無理はない。彼と対峙する海人の手には何も握られておらず、ただ拳が握られているだけであった。
ここに至るまで海人は逃げ続けてばかりいたが、その動きは蒼い鎧を身に纏っていた少女よりも遥かに機敏でいて、鎧の力を十二分に引き出せていると巨漢の剣士は悟った。
蛮勇か、それとも策があるのか。武器を持たぬがこれまでの動きを見るからに海人の言葉はただの虚勢ではないと、そう判断した巨漢の剣士は今度こそ仕留めると、殺気を纏い剣を構えて踏み込んだ。
「俺の武器は――――」
「……何っ!!?」
薙ぎ払うよう、上半身と下半身を断ち切るよう振るわれた大剣。真正面から突っ込んだ海人の身は真っ二つに裂かれてしまったかと思われたが、彼は歩みを止めたりはしない。
海人の足は地面を離れ、大剣の刀身部分を踏み、一気に巨漢の剣士の傍へ。
「この拳で十分だ……ッ!!」
両手で握っていた大剣を踏み台にされ、ガードをする間など無い巨漢の剣士は海人の拳をまともに喰らう。
振り下ろされた拳により地面へと叩きつけられた巨体。ズンと地響きを立てて沈む身体に蜘蛛の巣状に割れる地面。
「やべ……っ、やり過ぎたか……」
鎧を纏った事によって得られた力は敏捷性だけでなく、力もだったらしく、少女の身を軽く感じた時点でなんとなく察していたが、予想以上の威力であったようだ。
うまくコントロールが出来ず、殺めてしまったかと焦る海人だが、巨漢の剣士に近付き確認した所、脈はあるようで、どうやら気絶しているだけのようであった。
「倒せた……のか」
「カイトさん……っ」
無事であった事にホッと胸を撫で下ろし、海人の元へと近づこうとした少女。
慌てて海人は少女の元へと戻り、彼女を抱えて屋根から降りて少女をベンチへと下して腰かけさせた。
「言った通り、だったろう?」
「……はい。……確かに、そうですけど、こんな無茶は――――」
「あー……、悪いが説教なら後にしてくれるか。気を失っているようだが、アイツを拘束しておかないと――――」
何か言いたげな少女は置いておいて、いつまた暴れ出すか分からない巨漢の剣士を拘束しておかなければと、思い立った海人は倒れたままの巨漢の剣士の元へと歩き出すが、辿り着くまでに身体に異変が起きた。
「……あ、れ……――――」
これまでは重力など感じられない位に軽く感じていた足取り。それが急に重くなり、枷を填められたかのように動かなくなる。
続いて全身の力が抜けきり、立つ事もままならなく、海人は糸が切れた操り人形のように倒れ込んだ。
「カ、カイトさん……!!」
「何だ……これ……、力が……入ら……な……い」
地に伏した海人。彼が身に纏っていた蒼い鎧は塵になって消え去り、残されたのは右手首に填まっている銀の腕輪で、それには蒼い結晶と竜の頭部が彫られていた。
「……お前達……は……」
近づく声は少女のもので、彼女自身も疲弊しているのか、ゆっくりと海人の傍に歩み寄る。
うつ伏せで倒れた海人の身を何とか引き寄せて頭を膝の上に乗せる少女。
海人の瞳が意識を手放す前に捉えたのは安堵する少女の表情と、いつの間にか姿を現した黒衣を身に纏う二人組であった。
陽は沈み、夜の帳が下り、月が柔い光を放つ頃。倒れて意識を失った海人はベンチに座った少女の膝の上で目を覚まし、勢いよく上半身を起こして彼女を驚かせた。
「ここは――――。……だ、大丈夫か!? アイツは――――」
辺りを見回す海人。そこは何時も通りの公園で、平日の夜のせいもあってか、人影は無く、シンと静まり返っていた。
巨漢の剣士の姿は無く、更に驚くことに地面が平らに、巨漢の剣士が大剣を振り回して地面を穿ったはずだが、そのような痕跡は残されていなかった。
「……夢、だったのか……。いや、でも――――」
海人の腕には銀の腕輪が填められており、傍には少女も居る。決して夢ではなかったのだと自信はあるが、いまいち何が起きたのか理解できずにいた。
「あのデカブツは? 俺が気を失った後、一体何が――――」
「え……! あ、え~っと、カイトさんが気を失った後、ケーサツの方が来られて、連れて行かれて……」
少女は身振り手振りで状況を説明するが、目が泳いでいるようでどうにも怪しい。
何か隠しているのではと思う所だが、少女が隠し事をしているのは今に始まった事でなく、はぐらかされてしまうのは明白である。
「あ、あの、助けて頂いてありがとうございました」
「礼ならいいさ。俺一人の力でもなかったし、これのお蔭なんだろう?」
そう言って少女に腕輪を見せる海人。その腕輪があの蒼い鎧の正体であると気付いていた海人は持ち主である少女へと返そうとするが、少女は首を横に振って受け取りを拒否した。
「水神龍レヴィアタンは貴方を認めたようです。ですからそれはもう、貴方の力なのですよ」
「俺の……?」
上手くコントロールできていたかと言われれば疑問が残る所で、力に振り回されていた感じも残る所であって。強大な力を秘めた鎧をまた身に纏う日が来るのかと、そんな事も考えつつ取り敢えず外そうとした海人。
「あれ……? コレ……どうなっているんだ……?」
「……契約を結んだとすれば、離れないのは当然ですよ」
「は……? 契約って何だよ……、俺はそんな事知らな――――」
どれだけ引っ張ろうとも外れはしない腕輪。まるで呪いを掛けられたかのようで、腕輪は外れることなく海人の右手首に収まっていた。
どうにか外そうと苦戦する海人だが、力を籠め続けていた所で急に脱力感が。それと同時に辺りに地鳴りのような音が響く。それは海人の腹の虫の音であった。
「……ま、まぁこんな時間だしな、腹が減るのも仕方がない」
「そ、そうですね……」
時計を見れば既に午後九時近く、夕食時をすっかり過ぎている。
立ち上がった海人は歩き出すが、暫くして歩みを止めて振り返り少女に声を掛けた。
「どうしたんだ?」
「え、あ、えっと……」
「もうこんな時間だし、取り敢えず今日は俺んちに来ないか?」
「そ、そんな……っ! そこまで迷惑を掛ける訳には……」
「俺が気を失っていた間、介抱してくれたんだろう?その礼だよ」
「そう……です、けど……」
「早く帰って飯にしようぜ。正直なところ、腹減って死にそうだ……」
「は、はい……っ」
軽く駆けだして海人の隣に並ぶ少女。二人は歩き出すが、信号機が赤になった所で歩みを止めて海人は少女に問い掛けた。
「そういやなんだかんだで自己紹介がまだだったよな。俺の名前は竜堂海人。海人でもなんでも好きに呼んでくれ……って、もう何度か名前を呼ばれた気が――――」
「さ、さっき、男の子達が名前を呼んでいたので……」
「ああ、アイツらが呼んでいたか……。それで、自分の名前は?」
「私は、アレイシヤ・アイントールと申します。えっと、祖父や友人からはアーシャと呼ばれているので……」
「分かった、アーシャだな。ヨロシクな」
「はい……っ!」
信号が青になり再び歩き出す海人とアレイシヤ。
まっすぐ前を見て歩く海人とは違い、少しだけ俯いてポツリと呟くアレイシヤ。
「リュウドウ……リュード……」
「ん? 何かあったか?」
「い、いえ、何も……」
アレイシヤは何か思う所があるようだが、また誤魔化して愛想笑いで返す。
彼女の事、巨漢の剣士の事、そして海人の腕に填められた腕輪の事。気になる事はどんどんと増えて膨らむようであるが、それより何よりも今は腹を満たすことが優先だと、海人は家路を急いだ。