その5
渋々半分、恐る恐る半分、下心3割の割合で、ドアを開ける。総量10割超えてるじゃねぇか、落ち着け、俺。
「何か用ですか?」
努めてクールに言う。湊綾香はスウェットの上にダウンコートを羽織るといった、地味ないでたちだったが、それでも、そのダボダボとしたスウェットの上からも、均整の取れた体つきが容易に想像できる。それにしてもすっぴんでここまで可愛いというのは反則だな。
神経質というか、病的にインターホンを鳴らしていた湊綾香だったが、俺が出て行くと、居心地悪そうに下をしばらく見てモジモジしていた。
しかしそれも束の間、意を決したように顔を上げて、
「きょ、きょふ、見らころわ……!!!」
噛んだ。盛大に噛んだ。
陶磁器のように白い肌が、かあっと赤くなっていく。湊綾香は――もういいや、面倒だから、単に「湊」と呼ぼう――、悔しそうに唇を噛んでから、もう一度俯くと、
「3年以下の懲役・禁固。50万円以下の罰金!」
と、少し抑え目な声で叫んだ。
「まてまてまてまて! 話がまるでわからない! 俺が何をしたと……」
湊は「だ、だから……」とたどたどしく言うと、
「名誉棄損罪よ。それが、3年以下の……」
「だから、その時点で分からない! なんなの、名誉毀損!?」
俺は慌ててストップをかけた。
「名誉毀損って、俺がなんかお前を傷つけるような事したか?」
湊は俯くと、泣きそうな目で、上目遣いに俺を見上げてきた。うっ、か、可愛い……かも。
「落ち着いて話してくれ。別に誰に言うわけでもないから」
そう言うと、湊は目をぱちくりさせ、俺の顔をまじまじと見た。
「本当に? 誰にも言わない?」
「ああ、言わない」
「本当の本当の本当に?」
「本当の本当の……こういうラブコメみたいな会話、キモいからやめない?」
湊は「そう……」とゴニョゴニョ言うと、
「お隣さんだとは知らなかったから。ちょっとお願いがあるの」
腕を組んで上目遣いに上から目線をするという、奇妙に偉そうなスタイルを取った。
ちょっとムッとしながらも、俺は聞き返す。
「だから、なんだよ。今日初めて会ったばかりの俺にお願い? ひょっとして、お隣さんしかできないことなのか?」
「お隣さんというのもあるけど、あなたじゃなきゃいけない事があるの」
「お、俺じゃなきゃ、ダメなこと……?」
な、なんだ? いつの間にか俺、フラグ立ててたっけ?
しかし、続く湊の言葉に、俺の幻想はガラガラと崩れ去った。
「私が精神科行ってること……だから、今日見たことは誰にも言わないで欲しいの。特に、うちのお母さんに知られたら……お母さんにまた心配をかけちゃうから……」
ああ、さいですか。精神の病には、まだまだ偏見があるものね。俺はもう慣れちゃってたけど、わかる。特に女子高生が精神科なんて、格好のいじめのネタになりうる。
しかし、ちょっと湊の口ぶりで引っかかるところがあった。
「あのさ、おまえ……湊綾香さんは――」
「湊でいいわ」
「ああ、湊さん……は、ひとり暮らしじゃなかったの? このワンルームに、ご両親と住んでる?」
「父は他界したわ。私と母の二人暮らし」
これは少し意外なことだった。夕方精神科クリニックで見た制服は、近所でも有名なお嬢様学校のものだった。俺の予想では、湊は最低でも中の上くらいの経済力は持ち合わせており、実家から学校が遠くて、一人暮らしをしているのだと思い込んでいた。それが、一人暮らし専用とも言えるワンルームマンションで母親と二人暮らしとは。
「な、なによ、その子犬を見るような目は。私が貧乏だとなにか悪い?」
そう言うと耳を赤くして、髪を撫でつける。シャンプーのいい香りがした。服装はまるっきり庶民だけど、コイツの仕草はいちいち上流階級のお嬢様なんだよな。
「とにかく、噂話で、人に迷惑をかけたら罰金刑になるという判例もあるんだから、くれぐれも馬鹿なことはしないようにね」
そう言うと、口をきゅっと結び、腕に手を回した方のそっぽを向く。「YES」の言葉を聞くまでは、落ち着いて帰れないといった様子だ。湊、大丈夫だ。俺には噂を流そうとしても、地域に人脈がないばかりか、俺自身が噂される立場の人間だ。
俺はかぶりを振り、正直に話した。
「わーった、わーったよ。ぜってーいわない。第一、噂話をしようにも、友達いねぇからな、俺」
湊は「え?」と呟くと、
「……あなたも?」
と、少し驚いて目を大きくした。
「へ? 『も』?」
聞きとがめて、変な声色で返す。
「な、なんでもない!」
湊は顔を真っ赤にして、少し声を荒立てる。
「ああ、お前も友達いないのか? まあ、そんな性格だもんな、結構わかりやすいな、お前」
正直、ここまで分かりやすいやつだとは思っていなかった。
私至上主義、直情、根拠がないのになぜか上からの目線。
こんな奴と友達になろうっていう方が難しい。
「と、友達なんて、私には必要ないだけよ。別に無理してるわけじゃない、本当よ。携帯にたまに着信ランプがついてて、確認したら迷惑メールだっただけで、ため息つくことはあるけど」
わざわざ残念な経験を自分から披露していることに、湊は気づいているのだろうか?
「ああ、鳴らない携帯な。あれ、結構存在だけで黒歴史だからな。しかし安心しろ。俺は着信ランプすらつかない。迷惑メールも、PCからの受信を拒否してるから、ほぼ100パー、鳴りも光りもしない携帯だ」
「……あなたと同列に見られたくないわ。私は、『友達がいない』のではなくて、『必要としていない』だけなのよ。あんなお金の価値だけで人を判断するような人達なんて、いない方がせいぜいするわ」
ああ、そういうことか。
お嬢様学校だもんな。この容姿とあの不遜な態度で貧乏だとか、それだけでいじめの対象になるのだろう。それゆえの不眠症なのかもしれない。悔しそうに言う湊に、少し心が揺れた。
「なあ、綾香……それなら俺とともだ」
「誰が呼び捨てにしていいっていったのよ。湊よ、湊。それと、あなたと友達とか、冗談はやめておいてくれない」
湊は、痛烈なまでに凍てついた目線を俺に向ける。
「それに、友達以前に、私に歯向かう雑魚どもは全て法の下に叩き潰したから。あなたも残念な人生を過ごしたくないなら、念を押しとくわ」
叩き潰したのかよ。怖ええ。やっぱこいつ、とてつもなく怖ええよ。
「ああ、そう。用はそれだけか? それじゃな」
恐怖といらだちまぎれに頭を掻き、ドアを閉めようとすると、
「あ、ちょっと待って」
小声で鋭く湊が制止した。さっきから、お隣にいる母親に聞かれないようにか、声を荒らげても、ひたすらトーンを下げているようだ。
「なんだよ?」
そう疑問を口にすると、湊は胸のあたりに拳を握って、
「きょ、今日は、定期を拾ってくれてありがとう。うち、貧乏だから。あれがなくなったら大変だったわ。あの時はちゃんと素直にお礼言えなくてごめんなさい。だから……」
きっと俺の方に向き直る。だから、なんでお前はそこで俺を睨みつける?
「貸し一つにしといてあげるわ。何かに困ったら、手助けくらいはしてあげるから」
語尾に『ねっ!』をつければ、まんまツンデレだ。やべぇ、可愛いぞ、こいつ。
「あ、ああ……」
俺はそうボソリと言うと、玄関を閉じかけて、ふと閃いた。
「あ、それじゃ、その『貸し』だけど……」
ええと、と言いつつ、言葉を探る。
「な、なによ……なんでもはダメよ? ダメだからね!?」
そう言って湊は胸元で両手を合わせて、半身後ろに引く。その小動物めいた仕草に、不覚にも心揺れ動かされつつ、俺は言いかけたことを口にした。
「ち、ちげーよ! お前、今日、去年の行政書士の最年少合格者だったって言ったよな? 俺も行政書士、目指してみようと思うんだ。だから、ちょっと色々と教えてくれない?」
「はあ? あなたが……行政書士に?」
湊は俺をまじまじと見上げてくる。
「何? 何か行政書士に頼みたいの? 弁護士と違って安価だけど、相談料はかかるところもあるわよ」
「いや、俺がなりたいんだよ」
「そういうことなら、市で開催している法律相談があるわ。30分という時間制限付きだけど、困ったことはそこに聞くといいわ。もしかして、家賃滞納とか?」
「だから、俺がなりたいんだってば、行政書士に」
「ごめんなさい、私、精神科だけでなく、耳鼻科にも通わなくちゃいけなくなっちゃったみたい。ありえない言葉をありえない人から聞いている気がするわ。あるいは幻聴?」
「だから、行政書士に、俺はなりたいって言ってるの!」
俺は声を大にして宣言した。
湊は、たっぷり5秒ほどため息をつくと、
「今日のあなたのあの反応を思い出せば容易に想像できるけど……あなた、行政書士について、知ってることは、どのくらいあるの?」
「いや、ネットで、さっき検索かけたばっかり。行政書士という仕事があるのは知ってたけど、他にはさっぱり」
湊は、耳のところで髪を弄ぶと、
「……やっぱり。それは……貸しを作ってしまったとはいえ、前途多難そうね」
と、もう一度深くため息をついた。