その4
双方直立不動で見つめ合ってしまった数瞬後。
湊綾香は、もともと陶磁器のように白い顔をさらに蒼白にして、部屋に飛び込み、荒々しくドアを閉めてしまった。ほんのしばらくポカンとしたあとで、俺も自分の部屋へと戻った。愛しの我がホーム。帰ってきたぜ。ワンルームロフト付き。
いろいろ……ありすぎたけど。そうでもないか? あったといえば、あのコミュ障電波女にひっぱたかれて、ストーカー呼ばわりされて、しかもお隣さんだったということくらい。ありすぎじゃねぇか。どんだけ運命に翻弄されてるんだよ。
玄関から少し通路になっていて、右手に通路にくぼみを作るかのような小ぢんまりとしたキッチン、左手にバスルーム。そのまま進むと部屋の中央に、ガラス作りのやや大きめのテーブル。
やれやれと息をつくと、エアコンのリモコンを取り暖房スイッチを押す。
ガガ……ガガガ……という音がして、ヌル暖かい風が、部屋に流れ込んでくる。
もう寿命じゃねぇの、このエアコン? 俺が越して来た時からもう1年もたってるし、最近、効きがどんどん悪くなってきている。もちろん、新調するための家計的余裕なんてうちにはないけど。仕送りに100%依存している俺にとっては、無茶な話だ。バイトでもすればいいのだが、それはもっと無茶な話だ。却下。都会に出てきてから、大学で出来た友達なんか数がしれているし、それもこの長い精神病の引きこもり生活で、エンプティーゲージを指し示している。医師以外の人間と、あるいは医師以上に、あれだけコミュニケーションをとったのなんて、湊綾香とかいう女が初めてではないだろうか。
ロフトに登って、天井に手が届きそうなベッドにドサリと横たわる。
「嫌すぎる……」
なんということだ。俺の希望に満ちた都会ライフは、転落の一途をたどって0地点になった挙句、もう下がないと思っていた以上に、さらに下があることを思い知らされた。
「見た目と名前は綺麗なんだがな……」
そんな独り言が不意に口をついて出て、ぶんぶん、と頭を振って、あの女の幻影をクモの巣をなぎ払うかのごとく、頭の上の空間をエア・空手チョップでグシャグシャにする。
何か他のことを考えよう。
そう、今日という日は、やけに「法律」に接した日だった。元ネタはあいつだけど。クソ、どこまでもあいつか。
そして、今日ふと心に気にかかったあいつの言葉。
『去年の行政書士の最年少合格者よ。20歳にならないと登録できないから、まだ『行政書士見習い』といったところだけど、並みの法学部の学生よりは法律に詳しいわ。だから正当な権利を主張してるだけ』
――行政書士。
繰り返しになるが、俺だって、その資格の名前くらい知っている。マンガ化や、ドラマ化されたくらいの人気資格だ。しかし、一体どんな資格なのかというと――。イマイチわからない。
「『行政書士見習い』、ねぇ……。俺も資格の一つや二つ持ってれば、この底辺生活から解放されるのかな……?」
いや、世の中そんなに上手くは出来ていない。第一資格の勉強とか、めんどくせーし。
日中は惰眠を貪り、適当に食事をとり、適当に家事をし、夜はアニメやドラマのネット中継を見る。これ以上に洗練された生活があろうか。
――次の瞬間、俺はガバッっと上体を起こしていた。
「いかん、これは明らかに間違っている。人として」
そうだよ、引きこもりは、何もしない――というから、出来ないからこそひきこもりなんだ。
それなら、無駄に有り余っている時間を有意義に使っていれば、例えば、「勉強しています」なんて言えば、「受験生」という、『社会』のカテゴリーに入り込むことができるんじゃないか?
天啓のような閃きに、俺はロフトから梯子を足早に下り、常時接続してあるノート型パソコンを立ち上げた。
ジジ……ジジジ……カリカリカリ……
うーん、立ち上がりが遅い。このパソコンもそろそろ買い換えたいな。
検索エンジンを立ち上げると、キーワードに、『行政書士』と打ち込んでみる。
まっさきに目に飛び込んできたのは、大手通信教育のWEーCANのサイトだった。
早速、説明書きを読んでみると、
『行政書士は弁護士、司法書士に並ぶ法律を生かした国家資格! 数千種類を超える書類の作成ができ、街の法律家とも呼ばれる、頼れる存在です』
おお、素晴らしい。
何が素晴らしいって『街の法律家』ってなんか良くない?
弁護士にはなれないけど、地域密着型の、いや、強いていうなら、法律業界のアウトロー。
「お、お前は誰だ……!」と敵役が言ったら、「……俺か? 俺は単なる『街の法律家』だよ」フッと、肩をすくめてみせる。
か、カッコいいかも! それと敵役ってなんだ?
さらに読み進める。
『行政書士は他の法律系の国家資格に比べると、比較的、合格しやすい資格と言えます。準備さえちゃんとすれば、一発合格も夢じゃない!』
おおおおお!!! なんか、テンション上がってキター! さらに読み進める。
『行政書士は独立開業もできます。会社に勤めることもなく、『手ではなく頭に職を持って』自分のペースで仕事ができます』
もう、「ごめんなさい」って謝ってもいい。誰にかはわからないが。
『街の法律家』。
『取得しやすい』。
『独立開業可。自分のペースで仕事できる』。
ここまで揃っていれば、ハネ満どころか倍満は行く。
まさに、この俺を待っていたような資格じゃないか! 今までの不幸な人生は、今日この時、『行政書士』を目指し、独立開業し、この底辺状況から成り上がるための布石に過ぎなかったのではないか? どう考えてもそうとしか思えない。
この際、言ってしまうと、あの女――湊綾香が、男性に手を掴まれた時に述べた講釈には呆気にとられるとともに、思わず「かっこいい……」と見とれてしまっていた自分がいたことは確かだ。あの女はまだ20歳未満だから登録できないらしいが、その壁も俺はクリアーしている。
つまり、試験に合格して、独立開業して、あの女を秘書としてこき使ってやることすらできるかもしれないのだ。
『湊君、今日のスケジュールはどうなっているかね?』
『午前9時から打合せ。12時より斎藤様との昼食。16時から、本田様のご予約が入っております』
『ありがとう湊君。しかしこう繁盛してると身が持たないな』
『お疲れなんですね、先生。私でよろしければ、マッサージさせていただきます』
『あ、ああ、よろしく頼むよ。君の給料も上げてあげなければな』
『まあ、先生ったら、お上手なんですね……』
あの(容姿と名前以外)いけ好かない女の柔らかく冷たそうな手が俺をまさぐって、その手はいつしか首筋から胸を伝い、這うように下へ、下へ……
「わあ、ちょっと、待て待て、落ち着け俺!」
ヤベェ、久々に異世界トリップしてしまったぜ。ひとり暮らしになると、こういう妄想が激しくなっていけない。
ってか、なんで『あいつ』が秘書? しっかり気になってるんじゃないのか、俺?
しかし、どうなったらなれるんだろう、この夢のような資格。
「なになに……、We-Canでは、月々3980円の割賦払いで……? 充分払える!」
素晴らしい。すべての道はローマに通ず。
俺の人生のウィニングロードは、もはや決定したと言ってしまったもいいかもしれない。
「いっくぜ! 行政書士!」
ガッツポーズを取った時、インターホンが鳴った。
誰だよ。引きこもりの白昼夢を邪魔するなっちゅーの。
時計を見ると、もう8時を回っている。
インターホンがピンポンピンポン執拗に鳴らされる。
なんか怖いぞ、こいつ。
ピピピピピピピピピピピンポーン!!!!
だから怖ええってば!
少し戦々恐々としつつ、魚眼レンズから覗いてみると。
――なんてこった。
紛うこともない、あのコミュ障電波女(秘書候補)が、俺の部屋の呼び鈴をイラついた顔で連打している姿が目に入ってきた。