その2
8時間は寝た朝、気合を入れて起きだした俺は、朝食を済まし、顔を洗って、歯を磨いて、「後は行くだけ」という準備をそつなくこなした。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫」
そう自分に暗示をかける。
インターホンの音が鳴った。雅ちゃんが来たみたいだ。
「いらっしゃい」
「おはよう、まだ寝てるかと思ったわ」
え? 雅ちゃんじゃない? わざわざインターホンを鳴らすから、雅ちゃんかと思った。
「よ、よう、おはよう、湊。まだ行くまで時間があるから、コーヒーでも飲んでいけよ」
「そう? それじゃ、お邪魔させてもらうわ」
そう言って、当たり前のように、部屋に入ってくる。
コーヒーメーカーをコポコポさせていると、またインターホンが鳴った。
玄関まで歩いて、扉を開けると、今度こそ雅ちゃんがたたずんでいた。
「名幸さん、おはようございます」
白百合のような花を背景に咲かせて、雅ちゃんは笑顔を作る。ああ、和むよな。闘いを控えた戦士にうるおいを与えてくれる、心のオアシス。
「とうとう本番ですね。今日は頑張ってください」
雅ちゃんは、右手で小さくガッツポーズを見せる。
「ああ、全力を尽くすよ」
俺も、その意気込みに同調するように、ガッツポーズを作ってみせた。
「湊さんも、もう来られてるんですね」
「ああ、今、部屋でコーヒー入れるの待ってる。雅ちゃんの分もあるから、部屋に上がって」
雅ちゃんが「お邪魔します」と言って、部屋に入ると、湊の挨拶が出迎えた。
「おはよう、杉崎さん」
「おはようございます」
二人は顔を見合わせると、かるく笑顔を作った。
雅ちゃんは、狭いワンルームをぐるりと見回して、ふう、と息を吐いた。
「それにしても、こんなにも早く試験の日が来るんですね。本当に、あっという間でした」
「……」
湊は、ボンヤリと宙を見ていた。雅ちゃんが訝しげに湊の名前を呼ぶ。
「湊さん……?」
「あ、ああ、ごめんなさい。ちょっと今までのことを思い出してたの。……ねえ、コーヒー、できた?」
俺は湊と雅ちゃんのコーヒーを持って行って、
「あいよ」
と声をかけた。
それから、自分の分のコーヒーも持ってくる。
「本当に、今までいろいろあったよな……って、まだ試験も終わってないのに、なんか変な感想だが」
「それもそうですね、名幸さん……でも、何か、その気持ちわかります。感慨深いって、こういう時の事を言うんでしょうか?」
「そうだな……感慨深い、か……」
そう言われるとそんな気になってくる。
試験が終わったあと、三人はどうなってしまうのだろう。
そんな一抹の不安も覚えるが、今は目先の試験の方に集中すべし、と自分を戒める。
試験の前のゆっくりした時間を十分に使い、3人は3様の気持ちを噛み締めてコーヒーを飲み終えた。
「じゃ、そろそろ行くか」
「そうですね」
「……そうね」
時間までまだ余裕があるが、どことなく後ろ髪を引かれる思いで、俺たちは、会場となる大学へと向かった。
昼食はタッパーに入れられたカルボナーラのスパゲティだった。会場の大学前のベンチで食事を済ますと、俺は、「よっしゃ!」と気合を入れる。
「雅ちゃん、昼食ほんとうにありがとう。すごく美味かったよ」
「はい、それじゃ、そろそろ開場みたいですね。忘れ物はない……ですよね。ちゃんと受験票用意してくださいね」
「はは、大丈夫だよ。雅ちゃん、お母さんみたいだな」
「あはは」
「……」
二人で笑っていると、湊が無言でうつむいているのに気づいた。
「湊……」
びくり、と湊の身体が動き、
「あ、ああ、そろそろね。頑張らなくても、十分合格ラインにいるんだから、自信を持ってやってらっしゃい」
「湊のおかげだよ。お前の面子を潰すようなことはしないって誓うよ」
「あ、当たり前じゃない。胸を張って行きなさいよ」
そう言って笑う湊に、俺は少し違和感を感じた。
「湊……」
「……なによ?」
「ちょっといいか」
そう言うと、湊のおでこに冷えた手のひらを近づける。
「……な? ちょっと、やめてよ」
そう言って弱々しく抵抗する湊を押さえつけて、手のひらで体温を測ってみる。
俺は、大きなため息をついた。
「なんで黙ってた?」
湊は、しゅんとした表情で、
「なんで、わかったの?」
「わかるさ。俺たち、どれだけ長くの時間を一緒にいたと思う?」
表情には見えないが、湊の身体は、異常な程の熱がこもっていた。
「とりあえず、大学の中に入って処置してもらうか」
俺がそう言うと、
「何馬鹿なこと言ってるのよ。平気よ、このくらい。試験がもう始まっちゃうじゃない」
「馬鹿じゃないさ」
俺は言い切った。
「試験か湊かって言われたら、俺は迷わず湊を取るよ」
そう言うと、湊は、いやいやする子供のように、首を振った。
「バカ。今はそんなこと言っている状況じゃないでしょ」
「そう、俺が馬鹿だってことくらい、知ってるだろ? だから、俺はお前をほっとかないよ」
そんな俺たちをオロオロ見ていた雅ちゃんが、
「でも、もう始まっちゃいますよ。湊さんのことは私が責任を持って休ませますから……」
「うん、わかってる。雅ちゃんのことは信じてる」
俺は首肯した。
「でも、そうじゃないんだ。俺も湊を休ませる場所を見てから、会場入りするよ。とにかく、係員に救急の休める場所がないか聞いてみよう」
「バカ! そんなことしてたら、本当に遅れちゃうじゃない!」
俺は肩をすくめた。
「だから、俺の馬鹿さ加減くらい知ってるだろ? ほら、病人は病人らしく、病床があるところまで静かに案内されろ」
「何……いってるのよ」
「馬鹿なことだと思うだろうな。でも、なあ、湊、俺はお前と出会えたからこそ、ここにこうして立っているんだ。今までの恩返しというわけにはいかないけど、ここでお前に倒れられたら、俺にとっては本末転倒なんだ。今は素直に休んでくれ」
「そんなこと言われても……」
頑なに拒む湊の肩を両手で掴む。
「いいから。俺の言うことも、たまには聞いてくれ」
「でも……」
「試験は大切だよ。ああ、本当に、この日のために頑張ってきたんだからな。でも、違うんだ。湊、お前が休んでくれないと、俺は安心して試験を受けられない。俺たちは『3人で』頑張ってきた。だから、一人でも欠けちゃいけないんだ。この試験は、もう俺のためだけのものじゃない。お前がどう思おうと、3人が最後まで一緒じゃなければ、終わらないんだ」
「でも……でも……」
「湊、お前も、俺たちと一緒に試験と戦ってくれないか?」
そう言うと、湊はつと、一筋の涙を流した。風邪で気が緩んでたのかもしれない。あるいはそれは我が儘を言う俺への怒りのせいだったのかもしれない。だが、それはとにかく、『湊綾香』という女の子が、今まで必死に強がって留めてきたものが溢れ出した。そんな感じだった。
「バカ……馬鹿なんだから……本当に馬鹿……。そんな優しさって……ズルすぎるわ」
必死に隠していた嗚咽は、暖かく湊を包み込んで。
そうして次の瞬間には、湊は子供のようにポロポロと涙をこぼし始めた。
「ありがとうな」
俺は苦笑すると、湊の頭をくしゃりと撫でた。
その涙は、我が儘で、切なくて、子供っぽくて。
今まで『湊綾香』という女の子がかたくなに守っていたものを溶け出す温度を持っていた。
俺は頷くと、
「さあ、そうと決まったら、行動を起こさないとな」
と、努めて大人ぶって、毅然と言い放った。
係員に事情を話すと、俺たちは大学構内の保健室へと案内された。
湊はベッドに横になると、怒ったように俺を急かした。
「ほら、ちゃんと横になってるから。試験を受けてきなさいよ」
「名幸さん、湊さんのことは私がちゃんと見てますから」
俺は「うん、頼んだよ、雅ちゃん」と礼を言うと、ダッシュで会場入りした。
来る時間を早めにとっといて良かった。
30分間の試験説明時間が終わるくらいに、俺は教室に滑り込んだ。
試験の概要は聞いてないが、試験官なんて試験に関する常識的な事を言ってたくらいだろう。
筆箱から鉛筆を取り出して、試験開始の合図があるまで、時計を凝視する。
あと5分……
あと3分……
あと1分……
……さあて。
「それでは、始めてください」
試験官の無機質な声が響く。
――いっくぜ、行政書士!




