表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/31

その3

 先ほどの、『もう会計なのね。それなら、薬局の待合室の空間でまた会えるかもしれないな。なんという幸運♪』なんて気持ちは、ひっぱたかれた者とひっぱったいた者が、病院に併設されている薬局の狭い空間の中で同居するという、実に居心地のいいものへと変わり、気まずいといったらなかった。そもそも音符マークを付けるほど浮かれていたっけ、俺? もっとも、向こうは俺をひっぱたいた罪悪感のかけらも感じることのない、冷静で落ち着いた、堂々とした振る舞いであったが。

 彼女――湊綾香みなと あやかというらしい――は、軽い眠剤に使われる薬を一種類受け取ると、薬局を出て行った。綺麗な名前だよな、うん、名前と見た目は綺麗だ。

 ほどなくして、俺の名前が呼ばれる。じんじんと赤く腫れている頬を見て、薬剤師が何か言いかけたが、俺の「何も言うなオーラ」を察したのか、変更のない薬を渡すだけで、何も聞くことなく解放してくれた。これで哀れみの表情でシップとか勧められてたら、その優しさに、マジ泣きしてたよ、俺。よく空気を読んだ、薬剤師。グッジョブ。

 多くの精神科クリニックがそうであるように、俺が通っている精神科も駅近くの路地の見えにくい場所にある。人とすれ違うことも極力少ない、立地条件としては申し分のない場所だ。

 ――さっさと帰ろう。

 しかし、薬局から一歩外に出て大股に歩きかけた時、ふと、足元に小さな四角いカードケースが落ちていることに俺は気づいた。

 取り上げてみると、それは定期入れのようだった。

 目に入ってきた名前を見ると……嫌、こんな偶然嫌。あの女とだけはフラグ立てたくない。

 定期券には、「湊綾香」と、克明に記されていた。

 拾っちゃったよ。天を仰ぎかけた時、道の向こうから、例の電波女がキョロキョロ地面を見渡しながらやってくるのがわかった。一瞬、その足元に定期入れを投げつけてやろうとしたが、

「湊さん――ですよね。お探し物はこれですか?」

 大人の対応ってやつだ。罪を憎んで人を憎まず。ただ、気まずいが。非情なまでに。

 彼女は俺の赤く晴れ上がった頬を軽く一瞥すると、

「ありがとう」

 クールに言って、俺の差し出した定期入れをひったくった。語尾の「ございます」はどこいったんだよ。年上を敬うとか、感謝の意を言外で表す仕草を見せるとか、お前にはないのか。

「それじゃ」

 彼女にとっては、一応それが礼がわりなのだろう、素っ気無く言って、踵を返した。やっぱダメだ、この女。何とは言わないけど、女の子とかそういうことじゃなくて、人間として根底から間違ってるよ。自分至上主義。っていうか、コイツの病気何? やっぱコミュ障?

 怒りを通り越して呆気にとられると、俺は息をついて、彼女の後ろ姿を追って歩き出した。

 別に、追いかけて何するわけでもないぞ? ただ、帰り道がたまたま同じらしいだけだ。

 駅のアーケードから一本外れた、人通りの少ない道を歩く。

 そんな俺を先導するかのように、彼女もすたすたと足早に歩いていた。クソ、帰り道が似ているな。さっきの角も右に曲がったり、たまたま俺と同じ帰り道を先へ行く。

 人通りがなく、互いの足音のみが聞こえる道。不審に思ったんだろう、彼女が眉を顰めてこちらを振り返った。

「なに?」

 一瞬、意味を図りかねたが、「どうして付いてくるの?」という意味だろう。

「別に。何でもないですよ。ただ、私も帰り道がそちらのほうなだけです」

 大人の対応。

 彼女はそんな俺を不審者を見る目丸出しで睨めつけていたが、やがて歩行を再開した。

 狭い路地を左に曲がり、中程度に開けた道へと移る。なんてこった、コイツも左に曲がりやがった。意識的に俺の案内役やってんじゃねぇの、コイツ。

 可愛い女の子とは、関係性がなくとも同じ空間になるべく長くいたいが、コイツはダメだ。さっきの法律用語を並べ立てるのも電波だったし、狼藉者から守ろうとしてあげた挙句ひっぱたいたり、定期を拾ってあげたのに、そっけない礼を言うだけで人を人とも思わないような不遜な態度がムカつく。

 まあ、容姿はいいが。名前もな。

 女の9割型はそれで許されるが、残りの1割が、俺のイライラのトリガーを引き、帰り道が似ていることにいちいちうんざりする。

 我が愛しの住まいであるロフト付きワンルームマンションまで歩いて後5分といったところか。湊とかいう女は、まだ俺の前を歩いていた。

 ふと彼女が立ち止まり、形のいい眉間にシワを寄せた表情で、ふわぁさ、と髪をなびかせ、身体ごとこちらへ振り返る。

 「だから、なに!?」

 そう言われても困る。

「いや、だから、帰り道がたまたま同じだけですよ」

「どうだか。私の可愛さに釣られて、ストーキング開始するつもりじゃないでしょうね。あいにくと、今のところ異性に興味はないの。他をあたってくれない?」

 カチン、ときた。ここまで言われて大人の対応ができるほど、俺は人間できちゃいない。

「うるせーな、この自意識過剰電波女」

「侮辱するつもり? だいたい電波って何よ。私はあんなとこ通ってるけど、単なる不眠症なだけよ。あなたの残念な脳細胞でしか理解できない言語を使ってケムに巻こうとするのはやめてくれない?」

「あ、お前、将来絶対に、死亡フラグ立てる。お前のそのコミュ障は致命的だ。間違えなく今後、誰かに刺されるぞ。俺は温厚だから刺さねぇけど」

 彼女はじろりと俺を睨みつけると、

「私の性格なんてどうでもじゃない」

 と大きく息を吐いた。

「ストーカー規制法って、聞いたことがあるでしょう? もっとも、その前に手を出そうっていうのなら、刑務所行きは覚悟しておいてね。少しでも触ったらすぐ告訴してやるんだから。『強制わいせつ罪』って男が思うよりずっと重いのよ。6ヶ月以上10年以下の懲役。そのくらいは覚悟しておくことね」

「アホか!」

 俺はさすがに頭にきて、

「誰がお前なんかに手を出すかよ。大体さっきから、法律法律って、お前何者? っていうか何様?」

 彼女は長い髪を肩のあたりから軽くかき上げて、

「去年の行政書士の最年少合格者よ。20歳にならないと登録できないから、まだ『行政書士見習い』といったところだけど、並みの法学部の学生よりは法律に詳しいわ。だから正当な権利を主張してるだけ」

 ――行政書士?

 俺は当たり前のようにさらりという彼女に毒気を抜かれ、ポカン、と口を開けた。

「行政……書士? あのテレビドラマとか漫画とかで一時期ブームだったやつか?」

「そうよ。今でもブームだけれど」

「『法律家は、お上公認のヤクザだ』ってあれか? っていうか、お前まんまヤクザだしな、性格が」

「余計なお世話よ。大体、ヤクザなんかじゃないわ。私は私を守るために、正当な権利を主張してるだけ。わかったら、もう付いてこないでね」

 こんな電波女なら、権利云々よりも、関わり合っただけでかなり過剰な罪状を上乗せされて警察に告訴状をだされる。彼女は本気でそうするだろう。そんな確信を抱いて、俺はぞっとした。

「わかったよ、わかった」

 俺は頭をガシガシと掻くと、やけっぱちに言った。

「それじゃ、俺が先に行く。それなら、付きまといでもストーカーでもない、俺の下心のない、無実が証明できるだろう?」

 彼女は目を見開いて「妙策ね」とその案を受け入れ、

「それじゃ、先に行って」

「ああ、それじゃな」

 彼女の前を素通りして、足早に家路を歩き始める。

 全く、なんて日だ。フラグ立つとか立たないかとか以前に、俺的にあの女無理。

 ……いや、まあ、確かに可愛かったけどさ。そういえば俺、母さんと妹以外の女性と最後に喋ってから、何年経つんだろう? あ、なんか涙腺が緩んできた。

 愛しの我がワンルームまであと2分ほど。足音が、俺だけのものではなく、後ろを振り返るまでもなく彼女がついてきていることがわかる。もしかして、逆にストーキングされてる、俺? あの女になにかされたら、『強制わいせつ罪』で訴えてやるんだからね! 6ヶ月以上10年以下の懲役、だったっけか?

 しかし、法律家というのはあんなものなのかね。血肉の通っていない、六法全書に足を生やしたら、あのような性格ができるのだろうか?

 でも行政書士か。なんかかっこいいな、法律家。

 あんな小娘でも取れる資格なら、俺もとりあえず目指してみてもいいかも知れない。大学は法学部じゃなかったけどな。何より、この鬱屈した日常を脱出するきっかけとして、「法律の勉強をしている」というのは、画期的な自己欺瞞、自己満足の道具として使えるのではないだろうか? もともと詰んでいる人生を、再びやり直せるチャンスとして、選択肢のうちの一つに挙げておくか?

 そんなことを考えていたら、マイホームの玄関についた。ポケットから、鍵を取り出してドアを開け用とした時、視界の隅に見たくもない影がよぎった。

 ――まさか。

 驚きに視線を顔とともに向けると、あの女――湊綾香とかいう女の姿が目に入った。

 彼女も、呆然として、マンションの鍵らしきものを手にして立ち尽くしている。

「お、お前……」

「あなた……」

 字面にすると夫婦の会話っぽいが、その時の驚愕はそんなジョークを通す一ミリの隙もなく。


「「お隣さんだったの?」」


 俺たちの声は、見事にハモって、マンション近隣に響いた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ