その1
「えーと、鉛筆に鉛筆削り、受験票に財布っと……」
秋はまたたく間にやってきては過ぎて行き、晩秋の11月2週の日曜日、つまり試験日も、明日へと控えている。
俺はというと、明日に向けて忘れ物がないかと、もう一度荷物をチェックしているところだ。
――この一年、いろいろあったよな。精神病ニート引き籠もりを脱出しようと一念発起目指しだした行政書士試験。湊綾香という、ひとりの女の子との出会いが、杉崎雅という存在と引き合わせてくれて、ふざけ合ったり、叱咤激励されたり、色々と思い出深い『3人』の時間を作ってくれた。
「くしゅん!」
準備を淡々と見守ってくれていた湊が、可愛らしいくしゃみを漏らす。
「風邪ですか?」
雅ちゃんが、湊のことを案ずるように問いかける。
湊は、「大丈夫」というと、ティッシュで鼻をかんだ。
「持っていくものは揃った? 明日の昼食はどうするの?」
湊が訊いてきたように、行政書士試験は、12時30分から始まる。当然、昼食は用意しなければならないのだが、
「コンビニでパンでも買って食べるよ」
と、大して気にしないことにしている。
すると、雅ちゃんが眉をしかめて、
「ダメですよ、試験前ならちゃんと食べなきゃ。私がお弁当つくりますね」
おお、ここに来て、雅ちゃんの手作り弁当? なんかフラグ立っちゃったりしてない?
「いや、いいよ。本当に付き添いなんて来なくていいから。逆に緊張しちゃうよ」
そう、二人はなんと、俺の付き添いをしてくれるとまで言ってくれたのだ。
「あなた一人じゃ不安だから。今まで付き合わされた勉強時間の分まで、確実に合格してもらわなきゃ、私の面子が立たないわ」
と、湊。
「名幸さんの夢は、私たちの夢でもあるんですよ? 最後の最後まで、一緒にいさせてくれませんか?」
と、雅ちゃん。
こんな二人の声援を受けたら、心は舞い踊るほどの気持ちだ。どんな男が、この誘いを断れるというのか?
「うーん、そういうことなら」
湊と雅ちゃんに、「心配心配」と言われ、表面上は渋々ながらも試験会場までついてきてもらうことにした。高校受験でも、ひとりで行くのが普通なのに、俺いくつだよ、という話。
「杉崎さん、お弁当を作ってくれるなら、パスタとか消化のいいものと、糖分補給のチョコレートとバナナをお願いするわ」
「え、勝負に『勝つ』で、カツ丼にしようと思ったんですけど、ダメですか?」
「試験前に消化の悪いものを食べると脳が働かなくなるのよ。だからそれは却下。パスタは消化がいいし、頭の糖分を使うからチョコレート、それにデザートにバナナで完璧だわ」
うーん、なるほど。試験前から試験は始まっているのか。昼食一つにそこまで気を使わなければいけないとは。
「それと、開場は12時30分だから、余裕を持って、30分前につくように調整しましょう」
そこまで、てきぱきと段取りを済ますと、
「とうとう明日が本番ね。今からあがいてもいいけど、どうする?」
「いや、もうやるべきことはやったし……やったような気がするし……やったのかな? と思うけど、明日に備えて、早めに寝ることにするよ」
「そう。なら、テキストでも読むくらいにとどめておいて。それで、最低でも8時間は寝て、万全の体調で望んでね」
今、このふたりに俺はどう映っているのだろう? 雛鳥の巣立ちを見守る親鳥のような心境だろうか?
「おう、とにかく、やるべきことはやった。あとは運を天に任せるよ」
正直心臓がばくばく言っているのだが、そうと悟られないように胸を張ってみせた。
「名幸さんなら、きっと受かります! 大丈夫、今までやってきたことに自信を持って、私たちの分も頑張ってください!」
ちと過度の期待だが、そう言ってもらうと少し心がほぐれる。さすがは雅ちゃんだ。
「私の指導は完璧だったはずよ。あとはもうドーンと構えて、試験に望めばいいわ」
そうだよな、あれだけ一生懸命教えてくれた湊のためにも頑張らねば。湊の指導を受けながら落ちるなんて、湊の面子が立たないものな。
二人からの熱いエールを送られて、俺は居住まいを正した。
「おう、必ず受かるよ」
ふたりの気を落ち着かせるように断言した。
「それじゃ、何か手伝えることはありませんか? 私で良ければなんだってします!」
雅ちゃん、そういう事を言うと男の劣情を煽ることになるから、『なんだってする』なんて言っちゃいけない。
「大丈夫だよ。それじゃ、あとはテキストを読み込むくらいだから、心配しないで」
「そう……ですか……。それじゃ、明日の朝、迎えに来ますね」
「くれぐれも直前に新しいことに手を出さないようにね」
二人は、そう言って席を立った。
玄関まで見送り、二人が出て行って扉が閉まると俺は気合いを入れ直した。
「ついに、明日か」
大丈夫、今までやってきたことを思い出せ。明日は、胸を張って受験に望む。
それだけだ。