その5
祭りに行って、花火で遊んだ数日後。
岬は持ってきた大きなカバンを担いで、
「それじゃお兄ちゃん、私行くね」
と、笑顔で快活に言った。
「あー、そうだな。それにしても……お前嵐のように来て、嵐のように去っていくよな」
「お兄ちゃんの状況を考えるとその方が面白そうだからね! しばらくは放置プレイを決め込むよ!」
「やっぱり変わらんな、お前。アホか」
呆れてそう言うと、岬は頬をぷくっと含ませて、「ぶーぶー」とわざとらしく声に出した。
「ときに、お兄ちゃん」
「なんだよ?」
岬は好奇心の光を耽々と瞳に浮かべて、
「お兄ちゃんの本命はどちらに決まったの?」
俺は眉をひそめる。
「何言ってるんだ、お前?」
岬は大げさに溜息をついて、
「もう! この朴念仁! 私がもらっちゃうぞ!」
「それだけは勘弁してくれ」
いや、お前の計略は分かっていたんだがな? それに今後のことも。湊と雅ちゃん、どちらか、または両方を俺が選ぶことによって、関係がこじれるのを見て楽しむつもりなのだろう。少なくともそのための種をまいておいて、いそいそとトンズラをここうという魂胆だ。
なんと言うか、あざとすぎて顔を覆いたくなる。
片手でこめかみを抑える俺を見て、
「それじゃあね、お兄ちゃん! 湊さんと雅さんを大事にするんだよ!?」
いたずらっぽく微笑んで、部屋から出て行こうとする。
「ああ、気をつけて帰るんだぞ」
俺はその背中に声をかけた。
と、岬が立ち止って、
「お兄ちゃん、さよならのキスは?」
「アホ」
「私に、ひと夏の思い出をください……」
「きもい。寝言は寝ながら言うものだぞ?」
「わひゃあ……」
岬は肩を竦めた。
「お兄ちゃん、ファーストキスもまだだしね。湊さんか雅さん、お兄ちゃんに教えてあげてくれないかな? 頼んでから帰ろうかな?」
俺は盛大なため息をつくと、
「そんなことをしたら、八つ裂きにした上で兄妹の縁を切る」
「あはは、冗談だよ。今のあのふたりとお兄ちゃんとじゃ、まだそんな仲にはならないだろうしね。――今のところは」
「今も将来もそうだよ」
「んー、即否定しなくてもいい間柄だと思うんだけどなあ……」
「ねーよ、そんなんねーって」
「んー、お兄ちゃん、あの二人もまんざらじゃないと思うよ」
「そうやって修羅場を作り出そうとするのもやめとけ」
岬はかぶりを振ると、それ以上の説得というか俺への誘導は無理だと判断したのか、
「そんなつもりはないんだけどね……それじゃ、お兄ちゃん、またね!」
「ああ、またな」
岬の元気の良い別れの言葉を聴きとげると、俺は頭を掻いた。
「台風一過とはこのことだな」
俺は、「はあああああ」と息を吐いて、主が一人きりになった部屋のロフトに昇り、敷いてある布団にゴロン、と横になる。シーンと静まり返った部屋。嵐が去って、ようやく貴重な静謐と化した。そんな感じだ。
「岬のやつ、余計な御世話だよ。わかってるっつーの」
そう、岬が来る前からわかってたのだ。
どちらかを選べば、どちらをとったとしても拒絶され、今の関係が変化する。というか、まず、拒絶される。そして振った人間と振られた人間が同一空間にいるのは気まずいことこの上ない。では、万が一、俺の好意を受け入れてくれるのであれば? やはり、それが湊であっても、雅ちゃんであっても、今ある『何か』を壊してしまう。
今までの三人は、もはや三人として機能しなくなる。
今までの仲ではいられなくなる。
もし、そんな状態になったら、俺はどうするだろう? 湊はどうするだろう? 雅ちゃんは?
今まで、あえて意識しなかった三人の関係を浮き彫りにさせて、岬は去っていった。
これほど迷惑至極なことはないわけだが、あえて問題を棚上げしていた俺の罪もまた、糾弾を受けているかのようで、胸が痛い。
湊と雅ちゃん、その二人は俺のことをどう思っているのだろう?
もし、仮に「付き合う」なんて選択肢があったとして、その先はどうなるのだろう?
望んだわけではないが、今まで築き上げてきたものがガラガラと音を立てて崩壊する。どんなパターンをとったとしても、俺たちは、『俺たち』でいられなくなる。
「バカめ」
と、俺は、自分自身にそう毒づく。
仮定にすぎないとしても、あの二人のどちらかが、俺の好意を受け入れてくれる? アホすぎる妄想だ。どこをどう取っても、俺に対して「YES」という選択肢があるわけではないのだ。思い上がりも甚だしい。
今まで通りでいいのだ。それでいいはずなのに……。
岬はそんな俺たちの微妙な関係を崩して去っていった。
「――決めるときは決めなよ」
祭りの前日、寝物語に聞いた岬の声がリフレインする。
だが――。
俺はもう一度、肺の中の空気を大きく吐き出した。
とりあえず、問題は棚上げだ。今俺にできること、俺がやらなければいけないことを優先させるのが当たり前だろう。
――行政書士合格。
その、高く遠いハードルを乗り越えてこそ、初めて俺は俺として彼女たちに接することができるような気がする。
精神病引きニートの汚名をそそぐことこそ、第一に考えなければいけないことなのだ。
今の俺じゃ、誰一人として支えられない。それどころか、同じ土俵に立つこともできない。
「よし」
と、気合を一つ入れると、ロフトから降りて、勉強道具をガラステーブルの上に広げた。
今考えるべきなのは、行政書士合格。
それ以外は考える余地がない。
――そう『自分に言い聞かせて』、俺はシャーペンを握った。