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その2

 愛しのワンルームロフト付きの我が家に帰ってくると、湊が当然のように部屋に居座っていた。湊もまた、猛暑の中をぬってたどり着いたらしく、全身が汗にまみれている。湊も雅ちゃんも、汗は人並にかくんだけど、下着が透けないんだよな。男としては残念っていうかなんというか……と、見えたら、理性的な意味でまずくなるんだが。

「ただいま」

「こんにちはです、湊さん」

「こんにちは、杉崎さん」

 俺の挨拶は軽くスルーされたので、一瞬死にたい気持ちになったが、これが湊なのだと自分に言い聞かせて、自分の座る場所を確保する前に、コップを3つ持ってくる。

 心得たかのように、雅ちゃんがコトコトと買ってきたばかりのオレンジジュースを入れる。酷暑の中、お疲れ様の乾杯を3人で交わすと、俺は一気にコップの中をカラにした。それに気づいた雅ちゃんが、すかさずジュースを補充してくれるのがありがたい。

「で」

 と、湊が口を開いた。

「やってみた感じ、どう?」

 問われれているのは模擬試験の結果だろう。俺は少し背筋に寒気を感じながら、

「それが……あまり思わしくないな。150点近くをウロウロしてる」

 ぼそぼそと萎縮した声を出す。

「念のため聞くけど、それは『記述式』を含めない得点よね?」

 そう、行政書士試験の特色の2つ目として、『記述式』という問題が挙げられる。

 大問として3問が挙げられ、40字程度で、問題文の事例に沿った問いに答える問題だ。用語の定義であったり、ケースごとに、どのような法律を当てはめてその効果はどうなるか、穴埋め的な問題、難しいのだと法律自体の意義を聞いてくるのもある。

 記述式は1問20点。すべて満点なら合格ラインの180点中の3分の1と、配点が凄まじく高い。だが同時に、答えが自由に書ける分、どのような基準で、何を書けば何点もらえるか、採点がブラックボックスになっている問題でもある。資格学校でも確たる採点はできず、予想することしかできないのだ。合格率を調整するため、記述式以外の問題が難し目な年は甘く、簡単だった場合では厳しく採点されるとも言われている。記述式抜きの240点で、300満点中の6割の180点に到達するのは、現実的にはすごく難しいから、『行政書士試験の合否を分けるのは記述式』というのが常識らしい。

「いや、記述式合わせて。その、できるだけ辛目に採点してるつもりなんだけど……」

「本試験では、記述式抜きで160点くらいが最低合格ラインなのよ。記述式を含めて150点くらいということは、記述式を抜いたら120? 130? 本当にまずいわよ、あなた」

 ……く。わかってはいたが。やっぱり120、130じゃダメだよな。記述をほぼ満点取らないと合格しないわけだから。そんなの無理に決まっている。

 しかし、湊は俺からつと視線を外すと、

「まあ、市販模試は『どれだけ出来ていないか』の危機感を煽るためにあるようなものだし、まだ試験まで4ヶ月あるから、初学者としてはそのくらいでいいといえばいいんだけど……」

「……そ、そうだよな」

 湊がフォローしてくれた!? 

 一体、どういう風の吹き回し……と思ったとき。

「……でも」

 続く言葉で、ビシィッっと、俺の眼前に人差し指を突きつける。

「あなた、ニートよね。現役バリバリの?」

「……はい」

「他の受験生のように、忙しくて勉強時間を取れないわけじゃないわよね?」

「……はい」

「それで、どうして市販模試程度で120,130点くらいしか取れないのかしら? 私は何度も、点数を取れるための勉強や勉強の仕方を教えたつもりだけど?」

「……仰る通りです」

 赤面して俯くしかない。

 湊、そのじわじわと追求するのやめてくれ。本当に死にたくなるから。

「要は頭が悪いんだよ。湊の教え方も悪いわけじゃないのに」

 落胆して、ひとりごちると、

「私の教え方が悪くないのは当然よ。あなたがやらないだけだものね」

 機嫌悪そうに、ぶっきらぼうに言う。

「……それにね、勘違いしないで。できないんじゃない、やらないだけなのよ」

 『できないんじゃない、やらないだけ』それは、『頭が悪いから』というチャチな言い訳を根底から否定する理屈だ。その理屈は、厳しく、厳しすぎるがゆえに優しい。なぜなら、俺の可能性を否定するものではないからだ。湊は、天上天下唯我独尊、理不尽なことを言うことも多いが、おおむね口にする事は正論だ。今、この瞬間も、決して嘘は言っていないことが伝わって来る。

「湊」

「何?」

 俺は目を閉じると、軽く頭を下げた。

「俺、頑張るから。いつも教えてくれてありがとうな」

 神妙な顔をして心からの礼を言うと、湊は明らかに狼狽うろたえた。

「な、なに? 今更何言ってるのよ。あなたが底辺ニートなのはわかりきってるんだから、私がどうにかしなきゃいけないだけでしょ」

 ぷいと横を向く。

「それが……約束だからね」

 その頬が上気している様に見えるのは錯覚だろうか?

「あの、湊さん……」

 雅ちゃんが、そんな湊に語りかけた。

「もしかして、名幸さん、行き詰まっちゃってる感じなんですか? 合格者の湊さんから見ると、そんな感じですか?」

「まあ……もう少し出来てもいいんじゃないかっていうくらいだけど」

 うーん、と考えこんで、湊は返答した。

「それじゃ、私に一つ考えがあるんですけど、言ってもいいでしょうか?」

「……杉崎さん、何を言おうと、私の許可は必要ないでしょ」

 これでも湊にしてみれば、雅ちゃんを立てたつもりなのだろう。訝しげな顔をしながらも、雅ちゃんの発言を促す。

「今日は、勉強はお休みして、パーッと遊びに行きませんか? 初めてじゃないですか? 勉強の息抜きをしに行くって!」

 湊と俺は顔を見合わせて、そういう考え方もあるか、と確認し合った。

「そういえばそうだね。たまにはいいかも……」

「ずいぶん余裕があるみたいじゃない。まあ、毎日勉強漬けだから、ちょっとだけならいいかもしれないけど……ちょっとだけね」

 その語尾の濁りにちょっとした違和感を覚えた俺は、次の瞬間思い当たることがあった。

「湊、心配するな、遊びに行く金くらいは、俺が出す」

「――ッ、そういうことを言ってるんじゃなくて!」

 図星だったか。顔を真っ赤にして怒る湊の本音があけすけだ。しかし、それが逆に湊のプライドに触れたらしい。

「そのくらい……私は自分で出すわよ。それで、息抜きって、何するの?」

 雅ちゃんは、「んー」と、人差し指を顎に当て、考え込む仕草をしたあと、

「そうですね、カラオケなんてどうですか? ストレス発散になりますよ」

 その一言に、俺と湊の体が硬直する。

「カ、カラオケか……俺、音痴なんであんまり行ったことなくて……トラウマが……」

「……べ、別にいいんじゃない? 私も『あまり』行ったことないけど、杉崎さんが行きたいって言うなら、異論はないわ」

 少し緊張した面持ちで頷く湊。『あまり』じゃなくて『全然』という形容詞があっていると思うのは邪推だろうか? なにか、重大な儀式を前にしてわずかに眉が引きつっている感じだ。

「大丈夫ですよー。フリータイムなら、それほどお金かけずとも楽しめますし、この近くに、いいところがあるの知ってるんです」

 無邪気に雅ちゃんは言う。

「そ、それは、知らなかったな……。そうか、この近くにもあったんだ? なあ、湊」

「え、ええ。わ、私も知らなかったわ。べ、別に特段興味があったわけじゃないから」

 俺たちの声はハウリングしたかのごとく甲高く震えていた。

 ……『カラオケ』

 トラウマを抱える俺に、そのミッションに挑む時が、本当に久方ぶりにやってきてしまった。果たして、俺は無事に乗り切れるのだろうか?

 隣を見ると、おそらく俺とは違った意味で息を飲んでいる湊の姿が目に入った。

「それじゃ、法律講座の初めての息抜きには、カラオケで決定ですね! 名幸さんと湊さんの歌声、今から楽しみです!」

 雅ちゃんは俺たちの緊張を知ってか知らずか、柔和な声で言った。

「お、おう、どんとこい」

「も、問題ないわ」

 たかがカラオケ、されどカラオケ。

 ボッチと引きこもりには高すぎるハードルが、今、目の前にそびえ立っていた。

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