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その2


「どう、調子は?」

「変わりないです」

「そう、じゃ、前回と同じ薬出しとくね」

 おしまい。薬を誤って捨ててしまって、早めの受診になったことについてのお咎めもなし。

 1時間半待ったあとの「1分診療」。これが精神科というものだ。素晴らしい、あらゆる無駄を省いている。なら1時間半も待たせるなよ。

 あらゆる不満を抱えつつも、診察室から待合室へと隣接するドアを開ける。

 待合室で座っていたところからは死角になっていた長椅子に目をやり。

 ――ふと、時間と空間が凍りついた。

 「精神科」という診療科には明らかに異質な、美しい「絵画」を切り取ったかのような、鮮明とした美少女が、姿勢よく、手にした文庫本に視線を落としていた。髪はサラサラと光沢を放って腰のあたりまでストレートに下ろされており、眉は細く、鼻は高からず低からず。白磁の肌が、少し潤いを帯びた黒目がちな瞳を浮かび上がらせている。そんな怜悧な彫刻のように精巧な容貌の下に続く、スラリとしたスレンダーな肢体を包み込むのは、引きこもりの俺ですら知っている、近隣の有名私立の上品なデザインの制服である。素人目にもセンスの良いその制服は、まるで彼女のために仕立てたものであるかのように、彼女の楚々とした雰囲気を強調していた。

 一瞬の間の後、我に返る。

 たまには遅めに来てみるのもよかったのかもしれない。あんな美少女が見れるなんて、それだけで今までの不幸が帳消しにしてもいいかも知れない。

「――湊綾香さん」

 医療事務員が呼ぶ声に、「はい」と凛とした声で答える。ああ、なんていい名前。もう会計なのね。それなら、薬局の待合室の空間でまた会えるかもしれないな。なんという幸運。

 ――と、その時。

 半ば陶然として立ちつくしている俺には構わず、とある男性が会計口の医療事務と少女の間に割って入った。男性はオーバーリアクションで訴えかけるように苛立った声を待合室に響きわたらせた。

「まったく、いつまで待たせるんだよ! なんなのこの病院!? もう1時間もまたせやがって、それで診察時間1分だぜ!? どうかしてるよな? なあ、みんな、そう思わないか!?」

 場の空気をぶち壊して、待合に苛立つ他の患者の神経をあおる。

 注意しなければいけないが、ここは『精神科』である。

 心に問題を抱えた人が、たくさん訪れてくるところだ。

 いや、まあ、気持ちはわかるけどさ。そこらへんは暗黙の了解としておとなしくしておこうよ。それが大人の対応。つまりは事勿れ主義。

 割り込まれた先ほどの少女は、少し眉をしかめると、

「ちょっと、ごめんなさい、あなたがどんな信条を持っていようと勝手だけど、私のテリトリーに入ってこないでもらえる? 私は、会計を済ませようとしてるの。あなたの主張は、私の会計の後にしてくれない? できれば、私がいなくなってからの方がなおいいわ」

 ――うわ、天上天下唯我独尊。

 まさにそんな感じの言葉だった。「他の人は知らないけど、自分の行為を邪魔されるのは嫌」。まさにゴーイングマイウェイ。しかもその声が、凛とした、氷のような冷たさを持っているのだから、始末が悪い。

 案の定、叫んでいた男は怒りの矛先を少女に向けた。

「なんだよ、お前もこの病院の味方? 頭おかしいの? キチガイなの? こんだけ理不尽な思いをさせられて何も言わないなんて」

 いや、ここにいる全員、「精神科」に来ている時点で、精神的な問題を抱えているわけだが。もちろん、あんたもな。

 そんなことを思いつつ、俺は俺の胸の奥底で、かの名作「電車男」フラグが立つのを感じていた。電車内で絡んできた男から女性を救い出し、オタクの2ちゃんねらーが美女を彼女にしていく物語。実際の話じゃなくて、フィクションだったらしいけど。

 動け俺の足。ちょっと諍いを取りなすだけで、この美少女の心をゲットできるかも知れない。そんな理由で不思議と勇気が湧いてくる。男ってなんて単純。そして悲しい。もちろんそれは、被害者の女性の容姿度が大きく物を言うのだろうけど、今回は言うことなしだ。俺は、少女と男性の方へ足を向ける。

 が、しかし。

 少女は、男性の言葉を髪をかき上げる仕草で、

「単に、私の行動を邪魔して欲しくないだけよ。私はこの病院の経営や接客と同じくらい、あなたのことなんか知ったことではないの。言っても栓のないことを叫んで無理やり同意を得ようとしてもいいけど、私の行動を邪魔するのはやめてくれる?」

 一蹴した。

「なんだよ、お前、何様!?」

 うん、それは俺も思った。でも男性は、その声と一緒に少女の腕を掴んだので、『ここは俺の出番が来たな』と、怯えて震える心を叱咤激励して、『出会いフラグ』を立てるべく、

「おい、ちょ――」

「暴行罪成立ね」

 割って入ろうと思ったところで、少女が勝ち誇ったかのように言った。

「無理やり腕を掴む。これは暴行罪に当たるって知ってた? 警察に行けば、あなた本当に逮捕されるわよ。証人は待合室これだけいるのだし、事務員さんも証人になってくれるでしょうね。2年以下の懲役、または30万円以下の罰金・拘留・科料があなたをまってるわ」

 男性は、明らかに鼻白んだ。

「ば、馬鹿言うな! ただ手を掴んだだけで暴行罪だ? そんな訳ないだろ? おお、出るとこ出るって言うんなら、警察でもどこでもいってやるよ!」

 少女は、「何も知らないのね」というと、

「暴行罪は、有形力の不法な行使、つまりハサミで髪を切ったり、取り囲んで電車に乗るのを妨害したり、ドラマであるように塩を投げかけるような行為でさえ該当するのよ。さ、警察行きましょうか? 今から呼ぶけど」

 携帯を取り出した彼女に、男性は一歩後ずさった。

 と、冷や汗をかいて狼狽していたその男性は、少女と男性を諌めようとして、中途半端に近くにアホ面で立っていた俺に気づくと、怒声を上げて絡む対象をシフトした。

「なんだ、お前? 見せもんじゃねえよ!」

 反撃の暇もなかった。俺は少女の方へと突き飛ばされ、俺と少女は正面から抱き合う形で床に倒れ込んだ。

「は! そいつも暴行罪とやらで告訴するんだな! もう来ねぇよ、こんなとこ!」

 何か、三下が言うような負け犬のテンプレ発言が頭上から降ってきて、足早に出口へ走っていくパタパタという音が聞こえた。

「いつつ……クソ、あいつ……!」

 罵倒しつつ、起き上がろうとすると、無表情で目をぱちくりしている少女の顔が眼前に入った。わあ、近い近い近い!

 慌てて身を起こそうとすると、左手の掌に、柔らく、弾力性のある感触が伝わった。

「うわあ!」

 それが彼女の胸であることに気づき慌てて上半身を逸らすと、腰をずりずり引きずって後ずさる。それほど大きくはなかったが、ずっと触っていたい感覚だったな……って、おい。

 ところが、ラッキースケベはそれだけではなかった。俺が体をどかすと、乱れた制服のスカートがめくれて、彼女の……その、下着が露わになっていた。

 白と青のストライプ。彼女のイメージからして黒のレースかと信じ込んでいたが、案外そんな幼いところがあるギャップに、耳まで真っ赤になった。

 少女は慌てもせず、上体を起こすと、乱れた服装を直し、スカートの裾を膝の方に引っ張った。

 床にしゃがみこんだ状態で、俺たちはお見合いする感じになった。

「い、いや……災難でしたね」

 俺が頭を掻きつつ、顔を真っ赤にしながらアハハと笑うと、彼女もニッコリ微笑んだ。

「本当にそうね。あの男、警察に突き出すつもりだったのに、わざわざ割って入ってきてくれてありがとう。ところで……あなたの行為は故意でも過失でもないし、私も怪我を負ってないから過失傷害罪にも問えないから安心してね」

「はあ……? ア、アハハ」

 ってかコイツ、コミュ障? 助けに入っただけの俺にもこんこんと法律持ち出してきて、なんか変な電波受信してない? クソ、容姿に騙されたか? 悲しいな、男って。

「もちろん、胸を揉んだり、下着を見たのも、故意でも過失でもないから、強制わいせつ罪とは言えないわ」

 小首をかしげて、ニッコリと笑う。か、可愛い……。これだけ可愛ければ電波でもいい!

「ところで、私がこれからやることはさっきの男がしたような『暴行罪』にあたるの。こちらは明らかな故意があるから、完全に罪として成立するわ。怪我をした――つまり口の中が切れたりしたら、『傷を負わせた』ことになって『傷害罪』になるから、そのへんは知っておくことね。私を警察に突き出してくれて、一向に構わないから」

 そういうと、にっこり笑ったままスローモーションに右手を大きく振り上げ、次の瞬間、待合室いっぱいに、


「パァァァァァァァン!!!」


 という、俺の頬を横殴りにする音を響かせた。


 

 前言撤回、やっぱ、コミュ障電波の選択肢はないわ。



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