その1
7月も下旬に入り、そろそろ学校も夏休み直前といった頃。
「だあああああ! これじゃだめだああああ!」
俺は部屋の中で一人、頭を抱えていた。
その原因はというと……。
「142点、154点、一番いいので160点かよ……」
以前湊に勧められていた、『市販模擬試験』の惨憺たる結果だった。
行政書士試験は、300点満点で、その6割、180点が合格ラインとなる、絶対得点式の試験だ。しかしながら、その180点は余りにも遠い。受験生なら、誰でも思い知らされるであろう、『6割の壁』だった。
「まあ後、11月2週までは5ヶ月あるから深刻にならなくてもいいんだろうけど……しかし、凹むなあ……それに加えて……」
そう、受験生が最も頭を悩ます、『一般知識』だ。一般知識は全60問中14問を占め、その14問中6問ができていないと、憲法・民法などの『法令科目』でどれほど多く点数をとっても、問答無用で『足切り』となる。
一般知識は、政治・経済・現代社会・情報通信・個人情報保護・文章理解に細分化されるのだが、この一般知識は、小手先の知識では対応できない。特に、受験時代、『世界史』一本の私立文系を選択していた俺には、荷が重すぎる。例えばこうだ。
『消費税が5%に引き上げられた後、その年の夏以降にはリーマン・ショックと呼ばれる世界経済危機が発生し、日本経済は深刻な不況となった。大手金融機関の経営破綻が生じ、公的資金投入による金融救済が勧められた』
答えは×。『リーマンショック』ではなく、『アジア諸国の通貨・金融危機』。
こんなの感じなのが五肢択一で出される。
情報通信などに至っては、
『実用新案権とは、物品の形状や構造などに係る考案を独占排他的に実施する権利であり、意匠権とは、独創的で美的な外観を有する物品の形状・模様・色彩のデザインを保護する権利である』
……わかるかああああああああ!!!!!
このように、『法律』とはどう考えても乖離している問題が当たり前のように出される。多くの「行政書士受験本」や「受験サイト」を見てみたが、一般知識は、足切りの4割、つまり14問中6問の正解で上々らしい。
更に言ってしまえば、俺の『法令』科目の点数も暗澹な気持ちになる出来栄えだ。これまでいろいろ経験してきた『法律』であるが、必要とされる実務と机上の知識の差は雲泥の差がある。
「このままじゃまずい。なんか、徹底的にまずいような気がする」
現在の状況を本試験に照らし合わせて、受験へのカウントダウンはもう始まっている。そのくらい、厳しい試験なのだな、と思い知らされていた。
ピンポーン、というインターホンの音。
勝手に入ってくることがないので、雅ちゃんだろう。ああ、受験地獄のオアシス。天使な雅ちゃんがドアの前に立っている。
俺は、苦悩の残滓を振り払うかのように玄関口に出た。
「こんにちはです、名幸さん」
ほわわーん、という笑顔で、雅ちゃんが立っていた。もう夏だというのに、背景に春の花が咲いている。俺は喜々として、「いらっしゃい」と出迎えた。
そのまま部屋へと通し、いつものように勉強会に備えようとした時、雅ちゃんが模擬試験に気づいた。
「大変ですね。どうですか、手応えの方は?」
「んー、全然……。ってか、湊のやつ、本当にこれに受かったのかってツッコミ入れたいくらい」
「アハハ、そうですか。でも大丈夫です。名幸さんはすごい人なんですから、きっと合格します!」
元気づけてそっと背中を押してくれる柔らかさ、暖かさ。こういうところが、雅ちゃんの本当にいいところだ。まして、それを本心から言ってくれているのだということがわかるから、これは一種のスキルといってもいいかもしれない。実際、「ブルー・ブル」や「モンストラリア」などのエナジードリンクの100倍の効果が見込める。売りに出したら商売できるぞ? 本当にもう!
「湊さんは……まだ来てないんですね」
「ああ、いつものごとく何の連絡もないけど、帰ってきたら、こっちに来るだろう」
「あ、それじゃあ、その前に、買出しに行きませんか? 飲み物とかお菓子とか。ちょっと今日は買い忘れてきてしまって」
「いや、いつも差し入れしてくれて助かってるから、謝る必要ないよ。じゃ、そこのコンビニまで、一緒に行くか」
ちなみに、ジュース代・お菓子代は、いつも雅ちゃんと俺の折半だ。後の一人がお金を出すか否かは想像に難くないと思う。
コンビニまでは、歩いてほんの10分足らずといったところだ。
しかし、暑い。今年の夏は例年よりも暑いのではないだろうか? そういえば、毎年夏が来るたびに言われてるな、『観測史上最高の暑さ』。今年もそれのようで、コンビニに着くまでの茹だるような暑さに辟易とする。これが歩いて20分とかだったら、余裕で死ねるぞ、俺。
この暑い中をわざわざ歩いてきてくれるのだから、雅ちゃんには感謝の言葉を言っても言い切れない。もちろん、名目は『法律を教わるため』だが、湊と俺の間に立ってくれて、雰囲気をよくしてくれている雅ちゃんは、もはや俺たちにはなくてはならない存在となっている。
コンビニの自動ドアが開くと、外界と遮断されたような、凍えるような冷気が身を刺すように、しかし心地よい安堵の気持ちを喚起してくれた。
「それじゃ、ジュース……オレンジジュースでいいですか? あとはPOPPOと……」
溶けにくいチョコレート果子を選ぶさりげない気配りを見せながら、カゴの中に、ポンポンっと入れていく。そういえば、雅ちゃんって、炭酸飲めないんだよな。コーヒーを飲めない子供みたいで、なんかそういうのが一々愛くるしい。そのたわわな胸ごと、その無垢さを抱きしめてあげたい。
ちなみに、今日も下着は汗では透けて見えない。汗では透けて見えない下着というのがあるのだろうか? ちょっと残念だが、そんな清楚なところも雅ちゃんのポイントだ。守ってあげたい。って、何考えてるんだ、俺。
「さて、こんなものですかね」
カゴの3分の2くらいを商品が占領したところで、雅ちゃんがひとりごちた。
「うん、いいんじゃない? もう少し涼んでいきたいけどね」
「アハハ、わかります。一度涼んじゃうと、外出るの億劫ですよね」
控えめに笑顔をこぼすと、「それじゃ」と言って、レジへ向かった。
二人してレジに並んだとき、俺は重大なことに気づいた。
「ああ、ごめん、財布家に忘れてきちゃった。ちょっと立て替えて欲しいんだけど、大丈夫?」
「いいですよ。名幸さんなら信用できますしね……なんて」
いつぞやの立場が逆転した感じだが、雅ちゃんの言葉には嫌味がない。本当に天使がいたら、この子みたいなことなんだろうな。なんつーか、抱きしめてやりたい。雅ちゃんと一緒にいるときの70%は、『抱きしめてあげたい』という言葉が頭を支配する。だって、そのはにかむような笑顔と柔らかそうな肢体を見たら、汗で少しばかり接触が不快になっても、むしろそれこそプラスとして、ぎゅっとしたくなるよ? ……男ならね。も、もちろん、俺だけじゃなく! 男なら!
雅ちゃんは、「ちょっと大きいですが……」と言って、5000円札を出すと、会計を済ませた。
それにしても、雅ちゃんとふたりっきりってあんまりないよな。いつも湊がいるから。3人で1チームといったところになるのかな? それくらい、今年の夏は3人でいることが当たり前になっている。引きこもっていた時とは、何かが明らかに、大きく変わっている。
今の俺は……充実してるんだろうな。
病状も治まってきたし、掛け値なしの美少女ふたりと一緒になって、日々の目標がある。
今まで、一人だけの世界に暗鬱に引きこもり、ただ世界を羨み、妬んで、呪っていた日常が大きく変化している。まあ、始まりは惨憺たるものだったけど、それすら良い思い出として、全ては過ぎて行っている。いつか俺たちが『大人』になった時、今を振り返る時にはいつものように3人で、笑顔でいられるのだろうか?
運命の神様がボタンをかけ違えた先。ここ数ヶ月で大きく変わった俺たちの将来には、何が待っているのか、想像だにできない。
ちなみに、『想像できない』といえば、この時既に雅ちゃんの『不幸体質』が発動していたことも挙げられる。まあ、それは後になって気づくことだったのだが。