その1
「『愛人契約』って、たまに耳にしますけど――」
と、湊と俺とガラステーブルを囲んだ雅ちゃんが、唐突に口を開いた。
『愛人契約』とか、いきなり何を言い出すんだろう、この子は……。
「『恋人』も契約の一種なんですね。私、初めて知りました」
「……」
「……」
思わず声も出ない。死角をついて繰り出される雅ちゃんの言葉は、冗談のように思えて、本気であることは間違えないのだが。
「――杉崎さん」
湊が突然のことに受けたショックから立ち直って、耳のところで髪を弄んだ。
「念の為に聴くけど、一体その知識の出処とその知識を披露する意図はどこにあったの?」
雅ちゃんは小首をかしげながら、ほんわりと応えた。
「私の友達のことなんですけど――」
『私の(別の)友達』、という言葉に湊がピクリと反応する。雅ちゃんに自分以外の友達がいるのは、理性で分かっていても、感情では悔しいんだろうな。
「付き合ってた彼氏さんに、お金を貸していたんです。それで、しばらく付き合ってたんですが、結果的にその友達の方から別れることになって、彼氏さんの方から、『今までのデート代とプレゼント代を借金と相殺してやる』って言われたらしいです。『恋人関係を破棄したのだから、当然慰謝料が必要だ』って」
「最低の男に引っかかったんだな、その子」
俺は思わず口を挟む。義憤に駆られてのことだが、同じ男として、どうも情けなく思える。
それに――。
「杉崎さん」
湊が、ため息をついて、法学講座をはじめようとしていた。
「デート代は、彼が率先して出していたのでしょうし、プレゼント代は契約上『書面によらない贈与』にあたるから、履行の終わった部分に関しては返還義務がないの。そもそも『恋人契約の破棄で慰謝料』なんていうことはないわ。婚約を不当に破棄された場合は財産関係のトラブルにはなるけど、そこまでの仲ではなかったんでしょう? つまり、その男の言うことは、戯言よ」
うん、そうなんだよな。仮にこれが『愛人関係』だとしても、不法原因給付といって、例えば愛人にマンションを買ってあげた後に別れることになって返還を求めても返しては貰えない。そこに法律の入り込む隙はないのだ。不法な行為に関する契約には、法は決して味方になってくれないという、いわゆるクリーンハンズの原則というやつだ。
「そうなんですか!? 私、その友達が彼氏に貸すからっていうお金を、少しだけ立て替えたんですけど、そういう理由があって、その子から返すのを少し待ってくれって言われたので……」
思わずコーヒーを吹き出しそうになる。
出たぜ、雅ちゃんの不幸体質。友達の不幸に、しっかりと巻き込まれている。
しかし、このケースでは、貸した方にはまだ救いがある。愛憎こもごもの泥沼へ向けての布石になっているかもしれないけど。
「……雅ちゃん、プレゼント代とかデート代は任意の出費や贈与に当たるけど、彼氏に『貸した』お金は、彼氏はその友達に返さなきゃいけないんだよ」
自信はないので、湊に目をやる。
湊は頷いて、俺の言っていることが正しいことを示す。
「そう、『贈与』と『消費貸借契約』は別物なの。そこのが言うとおり、その下衆男はお金を返す必要があるわ――」
『そこの』と、『下衆男』は、どちらがランクが高いのだろう。いささか憤慨しつつ、湊を睨みつける。湊はどこ吹く風で、髪を掻揚げ、
「ちなみに杉崎さん、立て替えたって言ってたけど、その友達はいくらくらい貸して、いくらくらい杉崎さんからもぎ取ったの?」
言葉の意味は正しい。ただ、『もぎ取った』わけではないと思う。いや、合ってるかもしれないけど、湊のボキャブラリーは偏っていることこの上ない。
「……えっと、たしかその子が彼氏に貸したお金は5万円だったと思います。私に無心してきたのは、そのほんの一部の一万円でした」
「……一万円。……一万円ね……」
湊が爪を噛み、俯く。
「その子は、杉崎さんの大親友みたいね。一万円も要求できるなんて……でも、親しいからこそ、ちゃんとさせなきゃいけないと思うわ。この際、きっちり返してもらったほうがいいわね」
湊の中での『一万円』というのは、『大親友』レベルの貸し借りであるらしい。
しかしながら、雅ちゃんはやんわりした曖昧な笑顔で、湊の価値観を両断した。
「……いえ、まあ、普通くらい……クラスメイトくらいの仲なんですけど、一万円くらいなら、長い目で見て返してもらえるなら、そんなに急ぐ必要もないですし。それに、事情が事情だから、強く言うわけにもいかないですし」
湊は、目を見開いて、耳のところで髪を弄びながら、ため息をついた。
「そんな曖昧な関係の人間に、一万円という大金を貸したの? 私は許せない。その男も、その男の言いなりになって杉崎さんを傷つけている女も」
ちなみに、『一万円』が、今回の湊のキーワードらしい。一体、その金額は、湊の精神構造の中で、どれだけ価値のあるものなのだろうか?
俺だったら……気心の知れた友人なら、待ってやるか、チャラにしてやるか。
そもそも、全くの他人にそれだけの金は貸さないけど。
しかし、それをやってしまうのが雅ちゃんなのだ。人を疑うことを知らない……否、人を信じることに寛大な(と、フォロー)雅ちゃんは、都合の良い人間として、今回の出来事に至ったのだろう。
だが湊にとって、その友達がやったことは耐え難い悪業なのだろう。「一万円……」と呟く回数が多い気もするが、数少ない友達である雅ちゃんのことを、心の底から思ってのことなのか、瞳が、鬼女のそれと化していた。
「……でも、そのこも、『いつになるかわからないけど、ちゃんと返す』って言っていますし、そんな大金でもないので、あまり気にしませんよ」
「――ッ」
湊の瞳が、驚愕で見開かれた。
「杉崎さん」
「はい?」
「……とりあえず聞くけど、杉崎さんは、上流階級のお嬢様なの?」
「……え? いえいえ! そんなことないですよ。せいぜいが中の上くらいです」
「それなら、親御さんから『貸したものはきちんと返す』、そのくらいの教育は受けてきているわよね?」
「え? ええ、まあ……」
「それなら、その下衆男に騙された女の子に、きちんと請求すべきよ。それが、『友達』ってものじゃないかしら? それとも、杉崎さんとその子は、そのくらいで壊れてしまう関係なのかしら?」
「……は、はあ……」
湊は、雅ちゃんの両手を自分の手とつなげて、続けた。
「私の見る限り、その女の目論見は自然消滅よ。杉崎さんの残念な人を見る目につけこんで、のらりくらりと卒業まで返さないつもりだわ」
「……湊、今までの話で、その根拠はどこにあるんだ?」
思わず、俺がツッコミを入れる。
湊はこちらをギロりと睨むと、
「愚問ね。人間、お金が絡むと、友情だの愛情だのなんだのいっても、私欲が優先するものなのよ。まして、杉崎さんからもぎ取ったという時点で、目的が知れているじゃない」
おい、すごい言われようだな、雅ちゃん。
「あ、あの……」
何気ない日常会話から、どんどん不穏な方向に話が進んでいっていることに対して、雅ちゃんは戸惑いを隠せず、俺にすがるような目線を向けてきた。震える子兎のような雅ちゃん。抱きしめたいと思いました。
「ま、まあ、なんにせよ、その子はともかく、問題はその子の元彼だよな。その子に責任を追及するんじゃなく、相手の男の責任を追及できないかどうか、『相談に乗る』というのはありだと思う。そんなところでどうかな?」
湊も抑えが効かないみたいだし。とは言わずもがなだった。
「そ、そういうことなら、まあ……」
「私もそれでいいわ。とにかく、杉崎さんのお金は、絶対に取り戻してあげるから安心して」
湊は、雅ちゃんに大きく頷いてみせると、「一万円も……その女、絶対許さない……」とブツブツ繰り返していた。
俺が雅ちゃんに苦笑を送ると、雅ちゃんも、困ったような曖昧な笑みを浮かべていた。
あらためて思うのだが、コイツだけは敵に回したくない。