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*

 鬱陶しい雨の続く、ジメジメとした6月。

 2月頃から――ということは、行政書士を目指す前になるな――ギシギシいっていたエアコンが、とうとう天に召された。

 俺の部屋はというと、湿気70%、不快指数120%。特に、今日のような真夏日に当たると、もう、居るだけで気が狂いそうな惨状になっていた。

 折から出してきた扇風機が全開で回っている。

「悪いな、暑くて」

 ガラステーブルをはさんで、専門書をざっと見している湊に謝る。

「別に気にしてないわ。このくらいの暑さなんて。わかってるから」

 意外な天使の一声。湊は少々汗ばみながらも、俺の勉強を見てくれている。その態度に、不快であるとか、怒りを含んだところはない。いや、ぶっちゃけ、いつも不快で怒ってるのが湊だと言われれば、返す言葉もないのだけれど。

 湊はというと、相変わらずの制服姿だが、さすがにこの季節になると夏服に変わっている。

 胸元に大きなリボンのあるブラウスに、チェックのスカート。サマーベストを着てないことが学校のナイスチョイスだ。汗で下着透けて見えないかなー、なんて不純なことを思いつつ、チラチラと湊の胸元を見てしまう。

 や、これは湊は「容姿だけは良い」ことに起因するのであって、断じて恋愛感情がどうとかいうわけではないし、条件反射であって不純な動機でもない! 精神統一! 透視パワーを全開に! 水色か? いや、あの色は……って、全然不純じゃねぇか、俺。

「それじゃ、問題ね」

 ふと、湊が真面目モードに俺を引き返させる。

「は、はい! どうぞお願いいたします」

 思わず丁寧語。訝しげな目をした湊だったが、惑わず続ける。

「時効完成後に、時効の援用をせず、代金の一部を支払った場合、時効は新たに進行する。○か×か?」

 そのくらいなら、流石に分かる。

「○。時効が援用されない限り、その後債務が一旦承認されてしまうと、時効はチャラになって、また新たに最初から起算することになる」

 湊はふんふん、と頷くと、

「驚いたわ」

 と一言ポツリ。

「あ、また間違えた……? ドヤ顔で言っちゃったけど、皮肉は控えめにお願いします……」

 湊は俺の顔をまじまじと見ると、「はああ」、とため息をついて、

「正解よ。どうして素直に喜べないのかしら。私がいつもあなたのことをゴキブリ並みに扱っているというようにしか取れない発言なんだけど」

 いや、実際そうだろう? むしろゴキブリ以下。

「私の相手してる相手って、いつもそうなのよね、なぜか、なにかビクビクしているの」

 うん、そりゃそうだと思う。でも……

「私に何か問題があるのかしら?」

 と、少し潤んだ瞳で上目遣いで訊かれたら、返す言葉の範疇は極端に狭まる。

「そ、そんなことないんじゃないかな? 気のせいだよ。ま、まあ、なんにせよ、正解でよかった。これも湊の指導の賜物だな」

 湊は、瞬きを2,3度パチパチして、

「ま、まあ、あなたも、この時期に覚えていなきゃいけないことは、たいてい答えられるようになってきているし、あなたの努力の成果とも言えるわ。私は、手伝うことしかできないのだし。実力がついてきてるのよ。自信を持ったらどう?」

「そ、そうか……」

 何今日の湊? やけにしおらしいっていうか、優しいっていうか、素直さいつもの1.5倍増しくらいなんだけど。

「そろそろ市販の模擬試験も販売されてきていることだしね。実力試しに、一、二冊やっといたほうがいいかもね」

「11月試験で、6月の時点で模試? それはちょっと早すぎると思うけど……?」

「早くないわ。市販の模試は、本試験より簡単に出来てるから、実力というか、自分がどのくらい出来ているか、危機感を煽るためにも有効よ。一冊2000円くらいで試験2、3回分入ってるから、コストパフォーマンス的にもぜひやっておくべきよ」

「そんなものなのか……」

「そういったものよ」

 なるほど、と深く頷いてしまう。

 しばらく、二人共無言でテキストを眺めていた。

 どこかで出された風鈴の音が、チリーンと、冷涼な音を奏でる。

「ねえ……」

 湊が沈黙を破って、ふいに言った。

「あなたは、杉崎さんのこと、どう思ってるの?」

 突然の質問だ。フリッカージャブのように、どの角度からねじ込まれているのかわかったものではない。

「え? ど、どうって……? 大切な友達だよ」

 湊はその答えに、顎を上げてふうん、と頷くと、

「大切な……友達」

 と、俺の言葉を繰り返した。

 俺の心臓が、どくんと高鳴る。

 こんな質問をしてくるっていうことは、少なくとも俺と雅ちゃんの関係性について、湊が少なからず関心を持っているということだ。そして、関心を持っているということは、その、つまり……

「な、なんでそんな事訊くんだ?」

 湊は、ハッとしたように顔を背け、やや早口に応えた。

「へ、変な意味で聞いたんじゃないの」

 その頬に、朱が差している。

「ただ、私の、その……友……達の、杉崎さんに邪な思い出、卑猥な行為を起こすつもりがあるなら、全力で止めなければいけなかったから」

 ああ、メインは雅ちゃんなのね。湊の数少ない『友達』の雅ちゃんの身の上を案じての発言。しかし、俺は邪魔者確定かよ。すこし泣きが入るぞ?

「そ、その……と、友達を守りたいというのは、当然の感情でしょう? 友……達として」

 『友達』と素直に言うのは、抵抗があるらしい。まあ、湊らしいっていえばらしいよな。

「まあ、それはそうだが、俺が雅ちゃんに劣情を抱いているという可能性は捨ててくれ。あんな無垢な子をどうしようっていう気はない」

「その勇気が足りないだけじゃない? 一歩間違えたら、あなたが狼になることがないと断言できる?」

 ムカ。さすがにこの一言には、紳士な俺はカチンときた。いや、俺は単なる健康な20代男なわけだが、いつだって劣情を抱いているわけではないぞ?

「それなら、もっと身近な範囲でとっくに狼になってるっちゅーの!」

「え?」

 湊は理解不能といった感じに、眉をひそめる。徐々に俺のいった内容を理解し始めると、顔を真っ赤にして、

「なにかしたら、訴えるといったのは覚えてるわよね」

 俺も、はっと気づいて、自分の失言を悔やんだ。バカバカバカ、俺のバカ。こんなコミュ障電波とねんごろな関係になるなんてありえないのに。

「ああ、肝に銘じてるよ。いや、これは俺が悪かった。俺の売り言葉に買い言葉だった。すまん」

 湊は、そっぽを向いて、頬を僅かに赤らめながら、

「ま、まあ、別に大したことじゃないから。行動に出さない限りはね」

 ふたりの間に、気まずい沈黙が訪れた。

 チリーン、と時折聴こえてくる風鈴の音も、そんな気まずさに拍車をかけた。

 なにか話さないと。

 この沈黙はやばい。何がやばいのかわからないが、とにかくやばい。

「……そ、それにしても、この暑さにはまいったな」

 取りなすように、わざとらしい話題を振る。

「え、ええ。でも、わかるわ。電気代かかるものね、6月からクーラーだなんて、そのくらい我慢しないと」

 へ? いや、そうじゃなく……

「あ? え? ……いや、エアコンが壊れただけなんだが。毎年、このくらいの暑さだったら、余裕でクーラーつけてる」

 そう言うと、湊は少しの間鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしたあと、烈火のごとく怒りを顕にした。

「何考えてるの? それなら直してもらえばいいじゃない? 貧乏仲間だと思ってたのに、違うのね! 私の心をもてあそんでいたのね!?」

 とんでもない思い込みをしてしまう言い回しは避けて欲しい。

「い、いや、貧乏なんだが。だから、エアコン直す金がなくってさ。だから扇風機でしのいで――」

「馬鹿じゃない? 今まで何を勉強してたの? 賃貸借契約の勉強はしなかったの? 賃貸人は修繕義務を負うのよ。民法606条! この賃貸の備え付けのクーラーの修理義務は、大家さんが負うってことよ!」

 俺は掌を拳で打った。

「おお、そういえば、そんな事勉強したような気がする」

 建物などの賃貸借契約では、賃貸人の『義務』として、『使用収益させる義務』というのがある。大家は、ただ貸しっぱなしにしとけばいいわけではなく、雨漏りがあれば、それを直す義務があるし、今回のように、備え付けのクーラーが壊れた場合は修繕の義務を負うのだ。

 湊はかぶりを振ると、苛立たしげに耳のあたりで髪を弄んだ。

「私、あなたに、実力がついてきた、自信を持って、って言ったけど、取り下げさせてもらうわ。こんな基礎的なことがわかってないようじゃ、本当に前途多難ね」

 そして、怒って立ち上がると、玄関の方へおそらくはわざと音を立ててどすどすと歩いて行った。

「――おい、ちょっと、湊……俺が悪かっ……」

 湊はちらりとこちらを振り返ると、聞き取れないような小声で、

「世話が焼けるわね。私がもっとちゃんとあなたの傍にいて、フォローをしなきゃいけない日は、まだまだ続きそうじゃない」

「……え?」

 俺の声に、

「何でもない!」

 と荒々しく答えると、湊は当初の予定通り、荒々しく玄関を閉めて出て行った。


 

 大家さんに連絡を取った3日後、エアコンは今までの不調が嘘のように、快適な風を送り出すようになった。

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