その6
閑話休題。
「箱の半分が潰れちゃってますが……」
申し訳なさそうな顔をしながら、雅ちゃんは、勉強道具を片付けたガラステーブルの上で箱の蓋を開いた。小ぶりな1つのホールケーキ。3分の2あたりが雪崩を起こしたかのように、ぐしゃりとしている。
「名幸さん、ナイフか何かありませんか?」
「ああ、持ってくるよ」
俺はそう言うと、キッチンに立って、果物ナイフを持ってきた。
「あ、ありがとうございます。それじゃ、切り分けますね」
一番形の崩れてないのをひと切れ。少し形の崩れたのをひと切れ。崩れて目も当てられないのをひと切れ、雅ちゃんは切り分けた。
そして、一番形の整っているものを俺に、少し崩れたものを湊に、自分は崩れたケーキを選り分ける。
「それにしても、おふたりが付き合ってないなんて、ちょっとびっくりしました」
「杉崎さん、あなたは人を見る目に難が有るみたいね。この前のキャッチセールスといい、どこをどう見たらこの男と私に友好的な接点を見出すことができるの?」
湊は自分のケーキ皿と俺のケーキ皿を当然のようにすり替えながら、そう言った。うん、その一事だけでもまったくもってこの女との相性は最悪だと思う。
「だって、いつも一緒だし……」
「たまたまよ」
「お二人とも、法律のこと詳しいですし」
「たまたまよ」
「この前、インターホンも鳴らさずに玄関開けてましたし」
「……たまたまよ」
なりゆきとは言え、それはたまたまでもあって欲しくないことだ。
「息もぴったりで、誰から見ても、どこから見ても、お似合いの長年のパートナーという感じですし……」
「「どこが?」」
耐え切れず、俺が抗議の声を上げたところで、湊と俺の声はまたまたハモった。
「ほら、やっぱり」
くすくすと雅ちゃんは笑う。
もう何、さっきからこの狙いすましたようなハモリ具合? もはや狙ってやってるとしか思えない。いや、俺は狙ってないよ? このコミュ障の方が勝手に同じことを同時に言ってきやがるんだ。多分。
「と、とにかく、俺と湊はそういう関係じゃないから。単なる友……」
ふと湊を横目で見ると、果物ナイフを持ちながら、凍てついた目でこちらを睨めつけていた。
「……単なる知り合いに過ぎないから。いろいろな偶然があって、一緒に外出したり、勉強を教えてもらっているだけだから」
「……そう……ですか」
小首をかしげて、「?」マークを頭上に付けながら、雅ちゃんはコロコロと笑う。
「でも、名幸さんみたいなカッコいい人に、彼女さんがいないんですか? 湊さんも、そんなに可愛いのに彼氏いらっしゃらないんですか?」
無邪気な問い掛けに、俺はやや自尊心をくすぐられたが、湊は苦虫を噛み潰したような表情になった。
「そこの男がカッコイイというのは社交辞令として、私に好意を寄せてくれた男性は多いといってもいいと思うわ。でも、私くらい可愛い女の子となると、『彼氏がいて当然だ、告白しても無駄だ』と思って、一歩引いてしまう対応になってしまうみたいね。だから、今のところ彼氏はいないわ。欲しいとも思わないけど」
「いやいやいやいや! お前に彼氏がいないのは、一歩引かれるのは、どう考えたってその性格のせいだろ?」
どうして気づかないかね、この女。いや、だからコミュ障なのかもしれないけど。なんでもいいけど「コミュ賞」っていうと、悪い方とまるで正反対の、お花畑めいた名誉ある賞に聞こえるのは俺だけ? どうでもいいけど。
「あ、そうだ、湊さん。私のことは名幸さんと同じように、雅って呼んでくださいね。私も綾香ちゃんって呼んでいいですか?」
「それは嫌」
その手短なやりとりを聞いて、俺はケーキを取り落としそうになった。こ、この女、即答しやがった。せっかく友達になりかけているいいチャンスなのに、自分で潰していってやがる。だからぼっちなんだよ……。
雅ちゃんは案の定、「アハハ……そうですか」と曖昧に笑顔を作りながら、気まずくなった雰囲気を変えるためか、他の話に持っていこうとした。
「じゃあ……湊さんって高2で、たしか、私と同じでしたよね。それなのに、行政書士の資格を持ってるなんてすごいと思います! 私も、今年頑張れば出来るでしょうか?」
湊は、一口大のケーキをコーヒーで流し込むと、
「無理ね」
一刀両断しやがった!
「おいっ!」
たまらず俺がフォローに入る。
「お前だって、去年取ったんだろう? お前に出来てほかの人は無理とか、よく事情も知らないうちに決め付けるなよ。なんでお前、そう上から目線の天上天下唯我独尊なの? 天はお前の上に人を作ってないの?」
まくし立てると、動じた風もなく湊はため息をつき、
「理由はいくつかあるわ。まず第一点。もう5月だというのに、全くの法律初学者だということ。11月試験だから、学業と並行しながら6ヶ月で取ろうというのには無理があるわ。第二点。高校生は1年生の時は勉強は簡単なレベルにあるからそう負担にならないけど、2年生から一気に難易度が上がるでしょ? それに、受験のために用意もしなきゃいけないし、受かったところで20まで行政書士登録はできない。ハイリスクローリターンすぎるわ。第三点、杉崎さん、失礼だけど、今現在、学力の位置はどの程度にいるの?」
畳み掛けるような湊の追求に、雅ちゃんは真っ赤になって俯く。
「中の……中くらいです」
「そう、それなら、まずは大学に進む心配をしたほうがいいんじゃないの? それに、20までは取っても『ただの法律にちょっと詳しい人』なだけだし」
「で、でもっ!」
半泣きになりながら、それでも雅ちゃんは言い返す。いや、その姿は、「縋る」といったほうがいいかも知れない。
「それじゃ、湊さんはなんで取得したんですか?」
そう雅ちゃんが言うと、湊は少し目をそらし、ふっと呟くように言った。
「実力試しよ。それと……大学行くかどうかわからないから……」
「え?」
俺と雅ちゃんは困惑したが、直ぐに思い当たるところがあって、俺は納得した。
要するに、大学へ進む金がないのか……。指折りの進学校に進んでながらも、湊の家の経済状況が芳しくないことは、俺の知っているところだ。
しばらく、気まずい沈黙の帳が降りた。
言葉にならない言葉を何度も発しようとして、その度に霧散する。
その時だった。静かになった部屋に、ナイフで切りつけるかのような家電の着信音が鳴った。
俺は、
「ちょっとごめん」
と言って、電話に出る。
「もしもし」
「もしもし、あ、お兄ち……」
「かけ違いです」
俺は受話器を置くと、速攻で電話線を引っこ抜いた。
ふぅ、地雷処理完了。場にそぐわないところに襲いかかって来たから、思わず捕まるところだったぜ……。
「な、なんだったんですか?」
驚愕した表情で、しかしおずおずと雅ちゃんが訊いてくる。
「いや、間違い電話。最近多くてさ」
「電話線まで引き抜くことないと思うのだけれど……」
と、こちらは湊。怪訝そうな顔でこちらを伺っている。
「え? あー、まあ、そうだな。ところで何の話だったっけ?」
たはは……といった感じに、言葉を濁すと、
「私が行政書士を目指してみたいという話です」
空気を読んで深く追求をしないでくれる雅ちゃんはまさに天使だと思う。
でも、さっきはあまりの冷たさに湊に反抗してみた俺でも、今の時期から学業と一緒に受験勉強は無謀だと思う。
「……雅ちゃん、俺、勉強してみて、ようやくわかったんだけど、やっぱり湊は法律に関しては別格なんだよ。だから、普通の人と比較しても、湊と同じことをするのは難しいと思う」
そう言うと、雅ちゃんは小さい体をさらに縮ませて、シュンとしてしまった。しかし、彼女にしては珍しく、この件にしては譲れないといった表情で、うるんだ瞳で雅と俺を見つめ、
「それでも……それでも、勉強したいんです。それは、試験に受からないことは、やる前からわかってます。ただ、私は実力試しではなく、法律のことをもっと知りたいんです。そうすれば、私みたいに、すぐ貧乏くじを引いてしまう人のことをもう少し助けてあげられるんじゃないかって」
一言一言、自分の言葉を確かめるように言う。
「将来、法学部に進むかどうかはわかりませんが、今は自分の出来ることだけ、私を助けてくれた、『法律』という道具について、少しでも知りたいんです。そのための、仮の目標として、行政書士受験を考えたいんです」
「……雅ちゃん」
「……」
湊は、暫くじっと雅ちゃんの瞳を見つめていたが、やがて、大きな溜息をついた。
「わかったわ。法律について、私の知っていることを教えてあげる。ただし、試験は度外視でね。とりあえず杉崎さんは、法律について学びながら、進路についても考えてみればいいと思う。あなたは馬鹿正直だけど、真性の馬鹿でないことを祈っているわ。でも……」
湊は、俺の方をじろりと見やると、髪をかきあげる。
「少なくとも、どんなに底辺でも、このクズ以上の頭は持っているとは思うから、心配しないで。私はあなたを見捨てたりしないわ」
……だから、一言多いっちゅーの。これが、雅ちゃんの言った『誰から見ても、どこから見ても、お似合いの長年のパートナーという感じ』だとすると、雅ちゃんのSAN値も、いよいよ疑ってみたほうがいいのかもしれない。