その5
そんな騒動があった数日後、俺は自室で勉強に切磋琢磨していた。ガラステーブルの向こう側には、湊大先生が鎮座し、俺の質問を受けるたびに、「あなたの頭って、学習しないようにできているのかしら?」とため息をつく。
湊の放課後の時間つぶしの、いつもの光景だ。
「じゃあ、基礎的な問題ね。教義で輸血を禁止しているある宗教団体で、病気になった信者が輸血を受けない条件で手術を受けたの。しかし、手術は難航を極め、輸血しなければその信者が死んでしまうところまで来てしまい、仕方なく輸血を行った。命を救うための行為だったんだけれど、信者はこれに対して訴訟を起こした――」
湊は耳のところで髪を弄ぶと、
「それでは問題。この信者の訴えは認められたか? 命と信仰、どちらが優先されるかしら?」
「うーん、輸血をしなければ、信者は死んでたんだろう? 出来ることをしないで死なせてしまったら殺人に問われることもあるし、信者の訴えは的外れだと思う。人間、生きてこそ信仰を保てるんだからな」
湊はかぶりを振り、大げさにため息をついた。
「残念ね。宗教上の信念に基づく輸血拒否は、人格権の一内容として認められる、というのが判決で、信者の勝訴よ」
俺は眉をひそめた。
「そんな無茶苦茶な。信仰のために死ぬのを放っておかないことが悪いなんて、無茶苦茶だな、憲法」
俺はかなり不快な感情を込めて言った。
「でも、それが判決なのよ。腹が立つのはいいけれど、今頃腹を立てるような判例じゃなくて、既に知ってて当然。こういった判例は、判旨とともに覚えておかなければいけないのだけれど……。この程度の判例をこの時期に覚えてないというのは、致命的ね」
出来の悪すぎる生徒に、どう因数分解を教えてやろうかとする数学教師のように、頭を抱えてかぶりを振る。
「おいおい、湊のほうがそんなに絶望してちゃ、俺の立つ瀬がないじゃないか」
すると湊は、ギロリと俺を睨み、
「いまさらあなたに、立つ瀬なんかあると思ってるの? 本当に、普段何やってるのよ。あまりにも成長が遅すぎるわ。まさかここまでとは……」
屠殺場に引かれていく子牛を見る目で哀れんでくるのに居心地悪く感じると、
「う、うっせーな。全教科一巡して、憲法に戻ったら、ちょっと忘れちゃってただけだよ」
言いながら、自分でもありがちなミスだと思う。行政書士の試験範囲は、広く、深い。一通り全教科を俯瞰したあと、一番初めに勉強する憲法に戻ったら、覚えたことを忘れている。そういう人は俺だけじゃないはずだ。
「だから、勉強は一科目一科目じゃなくて、重複的にやったほうがいいと言ったつもりだけれど? 憲法から民法に入ったら、民法100%ではなくて、憲法3:民法7くらいの割合で、復習を兼ねていきなさいといったわよね」
俺は思わず「うっ」とガマガエルが潰れたような声を出す。
「い、いや、民法とかやるじゃん? そうすると、民法だけで手一杯で、憲法を復習してる暇がなくなっちゃうんだよ」
必死に言い訳すると、湊はビシィッと、指を俺の眼前に突き刺してきた。
「あなた、学校行ってるっけ?」
「行ってねぇよ」
「仕事は?」
「してない」
「まさかとは思うけど、アルバイトでも始めた?」
「……歴としたニートです……」
「それで、『暇』とやらは、全くないの?」
「……暇だらけです」
「むしろ、休憩の間に勉強をやっていると言っても過言ではないでしょう?」
「……仰る通りです」
どんどん自分のスケールが矮小化していく。俺自身わかっているんだから、じわじわと追い詰めてくるのやめようよ、湊。
「……それなら――」
湊がなおも口を開こうとした時、玄関のインターホンを押す音が聞こえた。
「あ、来客みたいだ。すまん、湊、ちょっと見てくるわ」
いいタイミングで人が来てくれた。新聞勧誘か宗教勧誘かわからないが、グッジョブだ。
魚眼レンズから向こうを覗いて、「やれやれ、面倒だったな」とでもいいつつ勉強に戻れば、湊の舌剣も多少は切れ味を落としているかもしれない。
しかしその予感は、来客の意外性によって、即座に否定された。
魚眼レンズ越しにたたずむ彼女。
それはまごうことなき、雅ちゃんの姿だ。あれ、また何かあったのかな? 俺はいそいそとドアを開ける。
「――雅ちゃん。どうしたの?」
「あ、名幸さん!」
雅ちゃんは弱々しい笑顔を浮かべて、こちらに、「あはは」、と乾いた笑みを漏らす。家に帰ってから来たのか、胸元と袖にレースをあしらった、黄緑色のワンピースを着ているいて、ぱっと見、森の妖精さんのように見える。線の細い彼女のスタイルを柔らかく包み込む、品の良いいでたちだった。
ただ、そんなほんわかスラリとしたワンピースを裏切っているたわわな胸元に、少し潰れた、いびつな四角の箱を持っているのが気がかりだ。
雅ちゃんは、開口一番、
「ごめんなさい」
と頭を下げた。
……いや、それがこの子の口癖だってわかってきてたんだが、なんでこのタイミングで謝られるのかがわからない。
「ど、どうしたの? また、何かあった――?」
心配だ。この子の無垢さは、ありとあらゆる邪悪を惹きつける。7つの玉を集める格闘漫画の主人公のように、悪や厄介ごとを引っ張り込む才能の片鱗を見せてもらったから、余計心配だ。
「いえ、この前のお礼に、ケーキを焼いてきたんですけど……」
雅ちゃんは胸元の白い箱に目をやると、涙目になった。
「散歩に連れられたドーベルマンさんに驚かされて、入れ物落としちゃったんです。ドーベルマンは犬じゃありません。あれは、犬の皮をかぶった猛獣です。危険です」
「そ、そっか、大変だったね……」
ドーベルマンはもともと犬であって、犬の皮をかぶっているのが当たり前なのだが。さすがに少したじろぎながらそう答える。
「で、でも、中身は、食べられると思うんです。汚れてませんから! 中を覗こうとするドーベルマンから身をていして守りました! だから――」
「そ、そうなんだ、ありがとう。まあ、とにかくあがってよ」
その時の雅ちゃんを想像すると、健気すぎて思わず惚れそうになる。俺は泣きそうになっている雅ちゃんを慰めるように、そう言った。
「は、はい、お邪魔します。……あ」
「ん、どうかした?」
「……靴があったから。湊さんもいらっしゃってるんですね。ちょうど良かったです。お礼も満足に言えてなかったので」
そう言って破顔すると、背景に花が咲いた。くう、無垢な笑顔を、潰れたケーキごと抱きしめてあげたい。
雅ちゃんは部屋に入っていくと、
「湊さん、こんにちは」
と、礼儀正しく頭を下げた。
「この前は、助けてくれて本当にありがとう」
湊はといえば、その言葉に少し狼狽えた素振りを見せ、すがるような目線で俺の方をちらりと見ると、
「そんな大したことはしてないわ。私は、消費者の当たり前の権利を、当たり前に主張するようにこの男に教え込んだだけだもの」
極めて事務的に答えた。
しかし、そんなビジネスライクな言葉に雅ちゃんは頭を上げると、
「だから私は助けられたんです。湊さん、名幸さん……こんなにも私を助けてくれた、頼りになる方たちは初めてだったので、とても嬉しかったです」
真正面からエンジェルスマイルを輝かせられると、それが眩しいかのように湊はつと顔を背け、
「そ、そう……? まあ、なんにせよ、良かったわ」
わずかに頬に朱を掃いて、素っ気無さを装って言った。
雅ちゃんは、神々しい笑顔を絶やすことなく、
「お二人とも、すごく法律に詳しくて、仲も良くて、とてもお似合いの素敵なカップルだと思います。憧れちゃうな。私も、もう少し魅力があるといいんですけどね」
「……杉崎さん」
「……雅ちゃん」
慌てて訂正しようとする俺と湊の声は、見事にシンクロした。
そのことで、次の言葉に詰まる。お互いを睨みつけると、しかし俺は息をついて、続く言葉を紡ぎだした。だが、それは湊も同じだったらしい。
「「カップルじゃないから」」
図ったかのように、またシンクロ。意図的にやってるんじゃないだろうな、おい。
とにもかくにも、湊と俺が渋面になり、一人理解できていない雅ちゃんが、「?」マークで小首をかしげる、シュールな時間がしばしの間、部屋を支配した。