その4
半泣き……いや、既に8割がた泣いている雅ちゃんを慌てて慰めるために、
「み、雅ちゃん、とにかく落ち着こう。大丈夫、きっとなんとかなるって」
「ほ、本当……ですか……?」
弱々しい声で、上目づかいに聞いてくる。両手は胸元に当てられ、俺に対して祈るような姿勢だ。うう、どうしても守ってあげたい。こんないたいけな子を騙した悪徳業者に腹が立つ。
俺は、知識を総動員して、「ああ、大丈夫」と、軽く雅ちゃんの頭をポンポンと叩いた。
雅ちゃんの頭は常にポンポン叩きやすい位置に、叩いて欲しそうに存在している。
「ほら、あれだよ。そう、クーリングオフすればいいんだよ。その教材の会社の住所が分かる記載はない?」
「そ、そうですね……!」
パアア、と雅ちゃんの顔が明るくなる。やや冷静さを取り戻したかのように、テキストをひっくり返したりする。
「あ、書いてありました! 住所と、電話番号も!」
そう言って、やや興奮気味に、「よかったー」と声を出す。全身で喜びを表す彼女を、その喜びごと抱きしめてやりたい。
「うん、それじゃ、話は簡単だ。早速電話かけて、『クーリングオフします』って伝えてやればいいんだ!」
「はい! そうですね!」
俺は、家電の子機を持ってくると、雅ちゃんに手渡し、頷いた。
雅ちゃんもその頷きにコクりと返し、慎重に、ワンプッシュワンプッシュ、電話番号を押し始めた。
やがて、呼び出し音が聞こえる。電話の向こうの音は意外に高く、耳をそばだて無くとも聞こえるくらいだ。
「はい、株式会社アール・アイです」
「あ、こ、こんいちは!」
噛んだ。
そ、そうだよな、緊張するものな、見ているこちらですら。……が、頑張れ雅ちゃん。
「どちら様でしょうか?」
無機質な女性オペレーターの声が受話器から漏れ出してくる。
「あ、あの! 実は、昨日、行政書士の教材を買ったものですが……!」
「あ、はい、確認しますので、電話番号とお名前と生年月日を」
「は、はい、名前は杉崎雅、番号は090ー58XXー91XX、誕生日は、9月11日です」
「それでは、情報を照合しますので少々お待ちください。失礼ですが、ご本人様ですか?」
「あ、は、はひ!」
「承知致しました。少々お待ちください」
しばらく、保留音が鳴り響き、やがて先ほどの無機質な声が再度聴こえてくる。
「確認取れました。杉崎雅様ですね。どういったご要件でしょうか?」
俺は、雅ちゃんに力強く頷いてみせる。
雅ちゃんも、決心したようで、
「実は、昨日買った教材なのですが、クーリングオフしたいと思いまして……」
しっかりと言った。
「クーリングオフですか、かしこまりました。クーリングオフ前に、商品が返品できるかどうかを確かめさせていただきたいと思います。まず、開封はなさってませんよね?」
意外な点といえば意外な点を突かれ、雅ちゃんが戸惑ったように俺を見る。
俺もなんといっていいか分からず、ただ、かぶりを振るだけだった。
「そ、それが……開封してしまいまして、中の教材も……その、蛍光ペンでアンダーラインを引いたりしちゃったんですけど……」
あー、そこまで言っちゃいますか。やっぱりこの子、無垢だわ。無垢すぎる。
でもなあ、後から難癖つけられても同じことだし、言っちゃったほうがよかったかもしれない。正直、よくわからない。
電話口の声が、それに反応する。
「ああ、そこまでご使用になられているんですね。残念ですが、一度使ってしまった商品は売り物になりませんので、クーリングオフは出来かねます。むしろ、そこまで使われていらっしゃるのなら、弊社の教材で、合格を目指してみたらいかがでしょう?」
「は、はい……いえ……でも!」
「一度使った商品の返品はできかねます。スーパーやコンビニで、一口かじったパンを返品するようなものですからね。こちらも、顧問弁護士がおりますので、法的にも、なんの間違いもありませんよ」
「は、はい……」
がっくりと、雅ちゃんが肩を落とす。
「それでは、受験頑張ってください」
そこまで言うと、電話は切られた。
「名幸さん……ダメ……でした……」
「いや、それでも……ごめんね。雅ちゃんは、少しも悪くないよ。ただ、少し運が悪かっただけなんだ」
「名幸さん……」
ほとんど反則的な涙目の上目遣いで、雅ちゃんはこちらを見上げる。そのまま、俺の胸に、抱きついてきて、しくしくと泣き出した。
「ごめんね、雅ちゃん。ごめんね……」
俺は何も言えず、ただただ泣いている雅ちゃんのふっさりとした髪の毛を撫でてあげることしかできなかった。
――その時。
呼び鈴を鳴らすでもなく、唐突にドアが開かれた。
「何を……、やってるのかしら……?」
春だというのに、俺たちを彼女が視認した途端に、冷風が舞い込んでくる。
言うまでもない、湊様のご登場だった。
湊に事のあらましを告げると、「ふーん」とつまらなそうに言ったあと、
「杉崎さん、あなた、人を簡単に信じる癖はどうにかしなきゃね。今回は悪徳商法でとどまったけど、この男のような小悪党に騙されるようになっちゃうわよ」
「俺が何をした……?」
脱力するが、そのすぐ後、きっと湊に睨みつけられ、思わず姿勢を正す。
「それとあなた」
「は、はい……」
「聞いた程度のことしかわからないけど、十分だわ。で、何を引き下がっているの? あなたも法律は学んだんでしょう?」
「へ?」
「クーリングオフしなくても、方法はあるってことよ」
え? 悪徳業者相手に、クーリングオフや消費者センターへの相談以外の手が? 一体、なんのことを言ってるの、湊さん?
「……ほんっと使えない男ね、あなたって。今まで何を勉強してきたの? なんなら、この杉崎さんが購入した、薄っぺらい本を当てにしたほうがよっぽど現実的かしら」
心から呆れたようにため息をつくと、
「あなたに前に教えたでしょう? 制限行為能力者のところ。民法の基礎よ、基礎」
「……へ? 制限行為能力者の行為は、法定代理人の同意がなければ取り消せるってことだろ? それと今回のケースでは……あ!」
そうか、そうだった。
ただ一点、クーリングオフとは違い、制限行為能力者のした行為の特則が民法には織り込まれているんだった。
俺は興奮して、六法を引いた。
たしか、6条か7条辺り。それと同時に、民法のテキストをひっくり返す。
「……あった……。民法5条、及び121条……」
「やっと気づいたみたいね。本当に、その脳みそが何で出来てるのか解剖してみたいわ。わざと杉崎さんを抱きつかせるための計略かと思っていたんだけど。無能はどこまで行っても無能ね」
「何とでも言えよ……。確かに、俺が抜けてただけだからな。……ねぇ、雅ちゃん」
「……は、はい?」
俺と湊のやり取りを呆然としてみていた雅ちゃんは、きょとんとした顔で、小首をかしげてみせた。
「さっきの会社に、もう一度電話をかけるよ。今度は俺がかける。電話番号、教えてくれないか?」
電話口では、先ほどの無機質オペレーターが対応に出た。
電話に耳を近づけるため、俺は湊と雅ちゃんの間に挟まれた格好になっている。女の子独特の甘い香りに包まれつつ、俺の理性を試されているようで、これから行うことと同じかそれ以上に心臓が高鳴っている。
「はい、株式会社アール・アイです」
「先程電話をかけさせていただいた、杉崎雅の友人に当たるものですが」
「ああ、先ほどの。クーリングオフは出来かねますよ」
ここがキューだ。俺は、息を沈めながら、ゆっくりと言った。
「クーリングオフではなく、未成年……制限行為能力者による取り消しを申し込もうと思います。あなたも商売をやっているのなら、未成年との取引には、法定代理人の同意が必要だということは知ってらっしゃるでしょう?」
「――ッ! ……少々お待ちください」
オペレーターは少し黙って保留にしたと思うと、電話口の声が、男性のものに変わった。
「あー、お電話かわりました。残念ですが、クーリングオフも、未成年による取り消しも、今回のケースでは適用されないんですよ。何しろ、いったん使ったものを返すなんて、そんな非常識なことができるわけがないでしょう?」
俺は息をついた。
「いえいえ、それは、民法121条にちゃんと書いてあります。未成年について、取り消したものは現存利益を返還すれば事足りるんですよ。従って、一部利用したとはいえ、引き渡す時の現状でこちらは返却すればいいことになります。あなたたちの会社には、顧問弁護士がついていると言われましたね。どうぞご相談になってください」
電話口の先で「う」という唸り声が聞こえた。
「し、しかしそんな横暴な。あなた、一度使った売り物にならない商品を返すだなんて、ヤクザですか? こちらも、出るとこでますよ」
「どうぞどうぞ。それで、そちらが勝てる見込みがあるのなら、いつでも受けて立ちますよ。売買契約書に関しては、内容証明郵便を送達いたしますので、こちらの商品と同時にお返しください。いえ、もうこちらから商品を一方的にお返しして、破棄していただいても結構なんですが、念の為に」
「ふ、ふざけえるな! 訴えるぞ!」
電話口からは、明らかに狼狽した声が出される。
「ですから、どうぞ。顧問弁護士さんがいらっしゃるんですよね? こちらにも優秀な――」
湊の方をちらりと見る。彼女は聴覚に集中していたので、こちらの視線には気づかなかったようだ。
「――法律家がいますので。では、近日中にお送りいたしますので、契約は取り消し、支払いは無しということでよろしくお願いいたします。それと、私たちは、私たち以外の取引に関しましては、一切関与しません。つまり……」
「……つ、つまり?」
あとは、後押ししてやること。これも重要な取引のポイントだと思った。
「あなた方がどういう商売をしようと、私どもの契約を破棄して頂ければ、追求しないということです。ご了承いただけますか?」
電話の向こう側から歯噛みするような音が聞こえたが、無視して、声を待つ。
「わ、わかりましたよ。他のお客様には本当に何も言わないんですね? この契約に限っての取り消しということで? それでいいですね」
「はい、結構です。それでは……」
――チェックメイト。
「雅ちゃん、もう大丈――」
微笑みかけようと、隣を向くと、言葉を最後まで言う前に雅ちゃんは抱きついてきた。
「ありがとうございます! ありがとうございます!」
嗚咽を漏らしつつ何度もお礼を言い、ギューッと締め付けてくる雅ちゃんの頭をポンポンと叩きつつ苦笑を漏らすと、
「良かったわね」
と、面白くもなさそうな目で、湊が苛立たしそうに髪をかきあげる仕草が目に入った。
どうもわからない。何を不機嫌になる必要があるんだよ?
だからジト目怖ぇって、湊さん。