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その1

 いつの間にか、そうなっていたということがある。

 それはいかんともしがたい、神様がシャツの『運命のボタン』をひとつかけ違えたくらいのこと。しかし、たったそれだけのことが人間が生きていく上で敷いている『人生のレール』という予定調和を大きく狂わせる。そんなことは誰に言われずともわかっている。わかっているのだ。

 ――例えば、俺と湊綾香みなと あやかと呼ばれるあの娘との出逢いをきっかけに、『傍から見れば平凡な日常』という『俺にとっての非日常』が始まったのことのように。



 大学2年になろうとする春。

 俺は大学を退学した。

 ――いや、退学したのではない、退学届すら出してないのだから、正式には「除籍」だ。

 何故そんなことになったのか? 話せば長くなるが、端的に言うと、こういうことだ。

 ――俺、名幸弘幸なこう ひろゆきは狙われていたのだ。

 国家に? フリーメーソンに? いや、あるいは地球外生命体に?

 いや、それ以上の強大な組織だったのかもしれない。

 ともかく、いつの間にか俺は気づいてしまった。部屋には盗聴器が仕掛けており、「奴ら」に俺の行動と思考が盗まれ通報されている。

 最悪なことには全国放送のテレビで、俺のプライバシーは暗号となって日本国の国民にフィードバックされる。引きこもりや無職やニートが犯罪を犯す放送が流れるたび、俺の近辺の捜査がされていたことは、断片的なテレビ放送からも明らかに感じられた。

 「その殺人事件の犯人は俺じゃない」何度も抗議の電話をかけたくなったが、怖かったのでやめた。「やつら」は、どこで俺の弱みを握ろうとしているかわかったものではない。

 一歩外にでると、緊張でしゃちほこばって道の隅を歩く俺をジロジロと胡散臭そうに見ながら、すれ違った人すべてが俺の悪口を言っていることがわかった。特に、学生集団とすれ違う時などは、恐怖以外の何ものでもなかった。すれ違った瞬間、俺を馬鹿にする笑い声が聞こえる。嫌な汗でベトベトになり、嘔吐感を感じつつ、その場を足早に立ち去る。その姿を見て、さらにすれ違う人が不審者を見るような目で俺をつぶさに観察してくる。

 俺の行動範囲から「大学」「盛り場」が除外され、大学進学と同時に引っ越してきたアパートから外へ出るのは、食料品を買い足す時くらいしかなくなった。

 毎日、ただワンルームマンションで、時折の来客にびくつきながら、ひっそりと、自分の情報を掴まれないでいるため警戒する、息苦しい生活。

 ひきこもりであることが、近所の噂話の格好の話題となっている気がして、さらに俺は引きこもった。あらゆる勧誘電話が恐怖だった。奴らは、俺がひきこもりだと知っていて、さらなる俺に都合の悪い情報を引き出そうとしているのだ。だから家電のコードは引っこ抜いた。部屋にいない風を装うために、昼間からカーテンは全て閉めた。


 そんな折、両親が連絡の電話すら取れないでいた俺を訝って、俺の様子を見に来た。詳しくは聞かされていないが出席しないでいた大学の学生課からも、田舎の実家へと連絡がいったらしい。

 両親がうちに来ると、俺はすぐさま病院に連れて行かれた。

 それから色々あったが、どうやら俺は精神の病を抱え込んでしまっていたらしい。

 精神の病の領域にはまだまだ偏見が根強いが、実際的には、薬を飲むと、幻聴や妄想が、ほとんど他人事だったかのように治まった。後から聞いた話によると、薬をきちんと服用してリハビリすれば、一般的な生活を営むのは決して不可能じゃない。むしろ本当に病気で重篤になる人なんてほんのひと握りの確率らしい。世間でまことしやかに言われているように、「精神病患者は危ない」なんて、えらい偏見だ。俺たちという存在は、世間の一角でおとなしく真っ当に暮らせれば幸せ、というような慎ましやかなものだ。

 もっとも、だから病気なんて大したことではない、苦しくないし軽くしかないんだ、という訳ではないのだが。

 でも……ぱねぇ、精神科の薬って、ホントぱねぇ。実感したよ。

 薬を飲む前と後では、今までの苦痛はなんだったの? ってくらいの改善を見せている。

 だが、しかし。そこに至るまでに時間がかかりすぎたのかもしれない。俺の生活力の衰えは深刻なものとなっていた。

 元通り大学に復帰したとして、留年は決まっている。そもそも、卒業するまで学業を続けられる自信がなかった。

 実家に帰るという選択肢もまた、なかった。

 俺のいた田舎では、情報が回るのもとみに早い。陰口を叩かれて、親族に恥をかかせるわけにはいかなかった。俺という存在は知られず、隠滅され、霧散されるべきものだった。

  ――で、現在。

 俺は引き篭っていたアパートで仕送りを頼りに一人暮らしを維持しつつ、「病気療養」に努めている。なんにせよ、家族以外の人に迷惑をかけずに済んだのはよかったが、今後の展望を聞かれるたびに軽く死にたくなる。そんな病人ライフを謳歌している。

 朝は昼ごろまで寝て、ネットサーフィンなどしながら、夜中を待って食料の買いだめに行く。

 外に出るのは、買いだめと通院ぐらい。その他の娯楽品の買い物はネットで済ましている。最近はネットで大抵のものが手に入るから便利だ。ANAZON万歳。宅配便の人と会うのは、ちょっと気まずさもあるけど。ぶっちゃけ食料品もネットで注文できるのだが、そこまでやると、世間との接触を全く絶ってしまう恐怖もあり、「リハビリのため」に、買い物に行くことにしている。

 病院には、午前中に行くことにしている。

 俺が通っている精神科は予約制ではなく、診療時間内なら、いつでも診てくれる。特に午前中の方が人の混み具合が少なくてよろしい。

 「用事に出る」というのは引き籠もりにとっては一大イベントなので、だらだら時間を延ばしていると、あれこれ不安になって心臓に悪い。「いかなくちゃ、でもいけない」と迷っているのはほとんど拷問に近い。チャッチャと午前中に行ってしまって、薬をもらって、安寧のワンルームに帰ってくる。それが一番だ。


 ――ところが、リア充御用達、俺にとってはどこ吹く風のバレンタインもいつの間にか過ぎ去った2月のある日。俺は大ミスをしでかした。

 寝ぼけて薬をワンシート、ゴミ箱に捨ててしまったらしいのだ。どうしても一シート足りない。四谷怪談のように何度数えても一シート足りない。病院は土日休みなので、どう考えても今日中に病院に行かなければ、薬がなくなる。

 薬がなくなることは恐怖以外の何者でもない。あの幻聴と幻覚、妄想を味わえと、「そんなの心の持ちよう一つだ」とかのたまう奴がいたら、グーパンチで鼻骨を叩き割ってやる。いや、かなりマジで。

 ふと時計を見ると、時刻は、夕方の4時近くになっている。診察時間は夜7時までだから、まだ間に合う時間だ。俺は舌打ちし、ため息を出したあと、

「仕方ないか……」

 と、財布をポケットに押し込んで、コートを羽織った。


 この時またしても、神様がシャツの『運命のボタン』の掛け違いを起こしていることにも気づかずに。



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