Child? ~7~
船着き場にあまり近くなく、やや陸の奥、しかし市場からそれほど離れていない位置に、一軒の薬局がある。
自宅兼店舗のその薬局は、当然夜間は閉まっているのだが、
「しつこいぞ小童が! 明日の朝にせいと言ってるのがわからんのか!」
深緑のケープを身にまとい、頬に大きなガーゼを貼った少年によって、そこがこじ開けられようとしていた。自宅はもう開かれているので、詳しく言うと、店のほうを、だ。
「頼む! 大事な家族が悪い病気なんだ! 金ならいくらかある!」
本来ならばこのように大人と関わることすら嫌悪する少年であるが、家族が原因不明の病に侵されているとなれば、なりふり構ってはいられない。
例の義手保安官には余裕で使いこなせていた敬語が、ごっそり抜け落ちている。これほどにまで冷静さを欠いた少年の姿を、船で夢の中の弟妹たちは知らない。
「ええい、病気ならばまず病院へ行くのが道理だろうが! なんの病気かもわからずに薬など処方出来るか!」
至極もっともなことを言われ、ぐ、と口を噤む。
病院。
行ったことはないが、たくさんの大人たちのいる場所だ。もしそんな場所に行ってしまったら、身元を調べられ、補導されてしまう。
しかし、行かなければ、もしかしたらユーコが――
「……薬を、くれ」
「む?」
齢七十を超え、足腰も既に弱く、もはや気概だけで少年を追い返そうとしていた薬局店店主が聞き返す。
「どうでもいいから、とにかく薬をくれ!」
「だから!」
「症状なら説明出来る! ……出来ます、から」
ああ、とユーコの説明を思い返す。どういうわけか、口に出すことが少々憚られた。
「血が……止まらないんだ」
「血だと? どこから」
「その……女……の、穴、から」
かあっ、と頬に熱を感じ、傷口がじくじくと痛んだ。ものすごく恥ずかしいし、嫌だと感じる。普段はまったくこんなことでは動揺しないはずなのに、一体自分はどうしてしまったと言うのだ。
疲れて、精神が不安定になっているのだろうか。少年はこれが疲労だけでなく、十三歳という年齢ゆえでもあるということに気付いていない。
「とにかく、止まらないんだよ! いいから薬よこせよ!」
羞恥を掻き消すように怒鳴って手を差し出す少年に、店主はなにか深く思慮するような眼差しを向けた。暫し考え込み「ほう……」と長い顎ひげを撫でる。
「思うに……お前が『病気』だと言うのは、同年代の少女ではないか」
「……なんで」
なんでわかった。ユーコのことについてはなにも教えていないのに。
店主はふんっと鼻を鳴らすと「すぐに止まるわい」と少年に吐き捨てた。はっと息を飲んで顔を輝かせる少年。しかし店主は、その後に冷たく続ける。
「一週間もしないうちに、その血は止まるだろうな。だがしかし、ひと月もしないうちに、また血は流れる。その後も、止まったり流れたりを繰り返すが、それをずっと止めておくことが出来る薬は、ない」
「え……」
絶望し、顔から色を失う少年。彼に真実、その手の知識がないことを悟った店主は、再度鼻を鳴らして尋ねた。
「ところで小童……お前はどこらの子供だ? こんな時間に出歩いていることを、親は知っているのか?」
知っていたら知っていたで、とんでもない親であるが。
店主の訝しむ視線に、少年はその場にはっと意識を戻し、チッと舌打ちすると、ケープのフードを深く被り直した。よく見ると、そのケープには、大きく裂けたところを大雑把に縫った跡があった。
「あ! こら待たんか!」
風のような速さで、港の方向に駆けゆく少年。残された店主は、呆然とその後ろ姿を見送るしかなく、ふんっふんっと鼻を鳴らしながら、家の中に戻ろうと踵を返した。
その時、横から「すみません」という男の声がかかり、半ば八つ当たり気味に「今度はなんだ!」と店主が返答する。
薬局の前に立っていたのは、ふたりのクォーツ・ハーバー保安官であった。どちらも若いが、鋭い面立ちの背が低いほうが上官だと思われる。
「あの、今の子供は……」
背が高いほうの、好青年然とした保安官が尋ねる。髪の毛はふわふわと柔らかそうなのに、浮かべている表情は険しく固い。
「ふん、知るか。夜更けに外から突然叩き起こしよって、阿呆なことを抜かしながら話も聞かずに逃げよった」
店主が乱暴に答えをよこすと、ふたりの保安官はさっと目を見交わして頷きあった。
「ご協力ありがとうございました」
背の高いほうが礼を述べ、低いほうがいきなりホイッスルを取り出す。
「失礼します」
一言断りを入れてから、思いきりホイッスルを吹き鳴らす。店主は耳に来る音に顔をしかめたが、特になにも咎めることはしなかった。事件性があるということは、理解したらしい。
やがてホイッスルの余韻が辺りから消えると、ふたりの保安官は揃って、港のほうへと駆け出した。店主は再び黙って見送っていたが、不意に「おい、若造!」とその後ろ姿を呼び止めた。ふたりが同時に立ち止まるが、背の低いほうが「先に行け、ハチ」と部下を行かせる。
「いかがしました」
駈け足で戻ってきた保安官に、店主は仏頂面のまま尋ねる。
「小童の知り合いか」
「はい……まあ」
「少し待っとれ」
店主は家の中に戻ると、本当に「少し」で再び外に出てきた。手には茶色の紙包みを持っている。
「小童の兄妹が困っとるようだ。届けてやっとくれ。ついでに使い方も教えといてくれ……と男のお前に頼むのは酷かの」
保安官は、始めのほうこそ、一体なんのことやら、と言いたげな顔付きをしていたが、袋を受け取って中身を確認するや、おおかたの事情を察したようだった。さらに言うと、彼は今さらそんなことで動揺したり赤面したりするほど若造なわけでもなく、訳知り顔でふーっと息を吐き出しただけだった。
「本当は近くにちゃんとした大人がおって、慌てる間もなく正しいことを教えてやるのがいいのだが」
「……そうですね」
店主のさりげない一言に、保安官が神妙に頷く。
「大人はやはり……子供に必要ですよね」
ぼそりと保安官が呟いた言葉は、店主の耳には遠すぎた。保安官は店主に礼を述べると、模範的な敬礼を見せてから、薬局の前を走り去った。
小脇には、しっかりと紙包みを抱えていた。
★
息を切らしながら船に戻ってきたカズホを、見張りのふたりが目をこすりながら出迎える。
「カズ兄、おかえり」
「用事ってのは済んだの?」
「まあ……な」
言葉を濁し、ふたりと視線を交えないカズホ。黒帆の船の子供たちは皆が皆、妙に聡い。目から滲み出す感情などの情報で、不必要に心配をかけたくなかった。
「ショウもヒロキも、疲れただろ。そろそろ頃合だ。ゲンとマチに交替して寝ろ」
「カズ兄さ、ユーコ姉ちゃん知らねえ?」
大あくびをかましたショウが、涙目になりながら思い出したように尋ねる。カズは一瞬ぎくりとして――年長者のプライドで、穏やかな相貌は崩さずに聞き返した。
「ユーコがどうかしたのか?」
「さっきアヤカが起きてきて『隣で寝てたユーコ姉ちゃんがいなくなった』って……」
「一応俺たちで甲板を探してみたりしたんだけど……」
ショウとヒロキの声が心配に曇る。カズホは安心させるべく明るい声で、ふたりから少し視線を逸らしながら言った。
「ユーコなら、俺の部屋だ。眠れないみたいだったから話し相手をしてやってたんだが、意外なほどあっさり寝やがってな。人の寝床だっつーのに」
思った以上にすらすらと嘘が出てくる。ふたりに余計な心配をかけないためとはいえ、カズホは自分自身のこの行為に反吐が出そうになった。
嘘を吐くのは大人の専売特許。そういう固定観念がカズホにはある。事実、間違ってはいないはずだ。大人のいる社会では、一体何割のことが真実で、何割のことが虚偽なのか。十割真実は有り得ない。しかし十割虚偽は充分有り得る。
なんて、汚らわしい。そして自分はそんな汚らわしい世界に片足を突っ込んでいるらしい。
「カズ兄?」
視線の先に、ヒロキが自ら飛び込んでくる。その瞳から不安の色は消えていない。
「なんだ?」
聞き返した声が震えていないことを願った。もとの声には戻らなくていいから、大人の声に変わっていくのも受け入れるから、今この瞬間だけは声が震えてほしくないと思った。
「カズ兄……」
見上げてくるヒロキの瞳が、ひどく澄みきって見える。
「……ほんとは、なにかあったんじゃないの?」
これは、自分が大人になってしまった証拠なのか。カズホはからからに渇いた口を開きかける。なんていう言葉をかけてやろうと思ったのかはわからない。
「――!」
その時、陸に渡した板を猛烈な勢いで駆け上ってくる足音が耳に飛び込んできた。カズホは振り向きざまにケープの下のロングソードを抜いて怒鳴った。
「ショウ! ヒロキ! 下がってろ!」
抜くや否や斬りつけたロングソードは、確かに迫りくる影を捉えた気がした。……本当に、気がしただけだった。
ダンッと板を強く蹴る音がした。直後、三人の頭上を大きな影が通り過ぎる。
騒がしい足音からは想像しえないほど静かに甲板に下り立った影は、黒帆の船の子供たちが最も恐れている存在。
「……今回は、どうやら出航時間に間に合ったようだね」
「お……」
ショウが声の限り叫ぶ。
「大人が船にいるぞ――っ!」
チッと舌打ちして、カズホはその大人に向かって横に剣を薙いだ。大人は慌てることなく、二歩ほど後ろに下がってそれを避けると、自身もサーベルを抜いた。厄介なことに、こいつは保安官だ。再びの舌打ち。
カズホは距離を取るために思わず甲板に逃げたが、それが仇となり、大人に船の乗船口を守らせる結果となってしまった。
増援が来る。瞬時にそう察知したカズホが、たまらず叫ぶ。
「全員起きろ! こうなったら出航だ!」
海に出てから、この大人を水に突き落とす。そうすれば他に誰も乗ってこない。
カズホの読みは当たっていた。