肺呼吸
別に、何か特別なことがあったわけじゃない。
20年間一度も男に恋愛対象と見られたことがない、とか。
貸したCDを友だちに壊された、とか。
同じ講座を取っている友達が、私のことを「変な奴」と言っていた、とか。
そんな些細でどうしようもないようなことがどんどん積み重なって、気がついたら胸の奥底にずんと沈み込んでいた。
(息、苦しい)
吸い込んだ空気は充分に肺の中を満たしているのに、空気が足りない錯覚に陥る。
空気が足りない。息を吸い込んでも吸い込んでも何か決定的なものが満たされない。
今すぐにでも外へ飛び出してどこか誰もいないような、空気が澄んだところへ行きたい。
胸いっぱいに息を吸い込んで、嫌なもの全てを吐き出してしまいたい。
「ねぇ、ここいい?」
カタンと音がして、上げた視線の先に既視感のある顔があった。同じ講座をとっているのかもしれない。記憶にはなかった。
混雑した食堂の中、この青年は私の隣を見つけたらしい。
「どうぞ」
親子丼定食だ。
「いただきます」の言葉こそなかったけど、彼は丁寧に手を合わせてからただ黙々と食べ始めた。
私は魚をつついていた手を止め、ぼんやりとその姿を見つめていた。
「なに?」
そう言ってまた一口、肉ののったご飯を口へ持っていく。
「なにも」
「へえ」
それなら、さ。
かちゃんと箸を置いて、彼は私の顔を覗き込んだ。
「どうして泣いてんの?」
「・・・え?」
瞬いた目から、雫がこぼれた。
「あ・・・。なんでだろう」
「いや、聞かれても。俺わかんないし」
「・・・そうですよね」
あはは。
笑った拍子にまた涙がこぼれた。
「・・・息するの、苦しいと感じることってありますか?」
箸にはさまれた玉ねぎがつるりと滑って丼の中へ消えた。彼は首をかしげて私を見る。
「喘息持ち?」
「いえ、そうじゃなくて。息が苦しいんじゃなくて、息が苦しいと・・・心が感じる時」
私は何を言っているんだろうか。面識もないだろう彼に、突然。
私はただ、このちっぽけでちゃちなこの頭と心で、必死に考えて感じたことを誰かに吐露したいのかもしれない。
私がここで、こうして、ただ思っていることを。どうになるともいえない、この胸の内を。
誰かに泣いて叫んで、ただ聞いて欲しかっただけなのかもしれない。
自分でさえもわからない自分自身を、誰かにわかってほしくて、でも叶わなくて。その現実に寂しさを感じて、どうしようもなくなっていたのだろうか。
そばにいる誰かが、確実にそばにいることを感じたくて。
誰かに嫌われ疎まれていても、確かに自分は誰かに愛されていると感じたくて。
自分は誰かの特別になれると感じたくて。
自分のこの思いがきっと誰かに通じるのだと感じたくて。
―――感じられなくて、寂しくて、空虚で、孤独で。
彼は黙り込んでいた。
食事の邪魔をして気持ちを盛り下げてしまったのが申し訳ない。謝罪を口にするべきなのだろうが、自分勝手にも気力がなかった。
最後の魚の一欠片を口の中へ押し込んで、冷たいお茶を喉に押し込む。
涙をぬぐい、箸を置いて、トレイの両端に手をかけ―――。
「駅近くのレストラン。わかる?」
「え?」
真剣な眼差しとかち合う。
彼はトレイの上に箸を置いていた。いつも間にか食べ終わってしまっていたらしい。
「話、聞くことくらいならできるから。・・・・・・6時。待ってる」
トレイを持って立ち上がる彼の背を、私はただぼんやりと見送った。
肺呼吸
(息が苦しいのは、この胸に詰まった想いが肺で詰まって、塞き止めているから―――)