それぞれの垣根ー3
そして翌日。
テレサとクルトは、あの女性の家の前へ来ていた。道すがらテレサはクルトのかの女性への思いを聞き出そうとして、嫌な顔をされていたのだった。そういった話題に長けたエレナは重量測定に旅立ってしまい、不在だった。
「準備は良い?」
横目で問いかけるテレサ。
「ああ、問題ない」
そう答えるクルトの右手には、ややきつめの手袋がはまっている。その小指は夜のうちに腐り落ちてしまったのだった。かろうじてつながっている残りも、肉がぶよぶよし始めていていつ崩れてもおかしくなかった。手紙を支持するのに精いっぱいな状態。
テレサは彼の代わりに、その戸を叩いた。
反応はない。
「農家の人だよね……」
「起きてるはずだが」
もう一度扉を叩こうとした、その時だった。
「…………アルマ?」
か細い声を、テレサはかろうじて聞き取った。
「呼んでる」
「おう」
クルトは深く深呼吸して、ちらりとテレサを見た。
「……ええ、アルマよ。開けてちょうだい、イレーネ」
テレサは吹き出しかけたのを身をよじって堪えた。
「……俺だって言いたくて言ってるんじゃねぇ」
小声で脅しつけるように言うクルト。その眼前で、扉が静かに開かれた。
「入って、アルマ」
戸の陰からのぞく女性――イレーネの顔色は非常に悪い。ほとんど死人のようだった。
「……なんで聖女のお嬢さんが一緒なのかしら?」
「あ、その、私は……」
「ただの通りすがりよ、イレーネ。お仕事の途中なんですって。気にしないで」
そう言ってクルトはテレサに目くばせした。
「じゃあ、私は失礼しますね……」
そう言って農道を歩き出したテレサの背後で、扉がゆっくりと閉まった。
「…………」
立ち止まって思案するテレサ。その視線の先は、先ほど閉じた扉。
「……ちょっとだけ、ごめんなさい」
テレサは扉の前に戻って、耳をそばだてた。
盗み聞きの罪悪感は、テレサの中にもあった。しかし、料理を学ぶためだけに「青い港」の門を叩いた行動力と知識欲が、それをあっさりと踏み潰してしまった。テレサは今、新しく知った愛という概念を取り込もうと意欲を燃やしていた。
「何……」
「……手紙……あずかっ……」
扉の向こうからは、二人の女の話声がかすかに聞こえてくる。
「手紙の話してる……ちゃんと話せたんだ」
そう安堵して、テレサははたと思い至った。
あの体を動かしている魂が天に帰ってしまったら、残された体はどうなるだろうか。
「……まずくない?」
踏み込むべきか。テレサは迷っていた。
「……これ………」
「……あなた、何…………」
しかし、彼女の予想に反して、室内の会話は途切れることなく続いている。
「……何、いったい何者なの……」
「……待って、私は……」
会話は徐々に声量を増していく。
「あれ?もう天に帰ってるはずじゃ……」
首を傾げるテレサの耳に、つんざくような悲鳴が届いた。
「くそ、面倒くせぇ!」
そして、野卑な男口調の怒鳴り声。
「……何!?」
テレサは反射的に室内へと飛び込んだ。
部屋の奥には寝台。その上にイレーネと呼ばれた女性。そしてその前にアルマ――クルト。イレーネを組み敷きながら、こちらを振り向いた。
「クルト……何してんの!」
「盗み聞きとは趣味が悪いな、あんた」
アルマの男勝りな美貌を塗りつぶすほどの邪悪な笑みを、クルトは浮かべた。
「気が変わったんだよ。やっぱり一回やらなきゃ気が済まねぇ。まぁ、そこで見物してな。愛ってのが何なのか、見せてやるよ」
「……何する気!?」
テレサは手袋を取り去って、両手を合わせた。何が行われようとしているのか、テレサは知る由もない。しかし、かの表情からほとばしる余りに邪な意図を、彼女は本能的に感じ取った。
「Arm’s Fort…………Activate!!」
勇壮な詠唱が部屋に響き、四本の聖なる腕が顕現した。その拳は固く握りしめられ、テレサの決意を体現していた。
しかし、クルトはそれをせせら笑う。
「おお、怖い怖い。でもそれで俺を止められるのか?どうせ触れないんだろ?ああ!?」
テレサは歯噛みした。
彼が入っているアルマの肉体を破壊するだけなら、造作もないだろうとテレサは考える。
――しかし、その後は?
肉体を失っても、クルトの霊体は一度だけ人間に触れる事が出来る。それがどのくらいの時間触っていられるのか、弟との短い接触では分からなかった。しかし、クルトがそれで十分だと考えていることはテレサにも理解できた。
一際甲高い悲鳴が、テレサの意識を呼び戻した。イレーネの腕を押さえつけていた手が、液体質な音を立てて腐り落ちたのだった。その悲鳴は既に止んでいる。意識を失ったイレーネの首筋を、クルトは腐汁を纏う舌で蹂躙する。
「ちっ、限界だな」
クルトは蝶が羽化するようにその体から脱すると、間髪入れずにそれをテレサに投げつけた。
顔面まで腐り果てたそれを受け止めたテレサは、一つのひらめきに至った。
――向こうから触れるなら、こちらからも触れるはず……!
「……そのまま叩け、Arm’s Fort」
突如聞こえてきた第三者の声をその場に置いて、テレサは駆け出していた。その腕は一本に収束し、太く、破壊的なうねりを見せた
衣服を剥ぎにかかっていたクルトが、醜悪な顔を向ける。
「…………」
耳を覆うような侮蔑の言葉を紡ぐべく、その口が開かれる。
その顔面に、巨大な空色の拳が直撃した。
「っああああああぁ!!」
「…………!!」
恐るべき速度と密度を以て打ち出された拳は、窓の外へとクルトを吹き飛ばした。
「……当たった!」
テレサはそれを追って外へ飛び出した。
――クルトは外の畑でのびていた。
「クルト……なんで?」
駆け寄って声をかけるテレサ。
「当たるのかよ……クソ、動けねぇ」
彼はにんまりと笑って答える。
「人を愛するってのは、そういう事だ。覚えときな、あんた」
「分かんないよ……悪いことだってのは分かったけど、何をしようとしてたの?何で?」
「へへ、いつか分かる日が来る……」
呟く声は、途中で疑問に染まる。
「……あ……なんだ……?」
テレサもその異変に気が付いた。
大の字に放り出された手足の先が、次々と地面の下にめり込んでいく。
「……なんだ!痛……痛え!」
もがく事も叶わず、彼の四肢は地中へと消えていく。
「クソ、何だこりゃあ……俺は一体どうなるんだ、おい!?」
「し、知らない!私も何が何だか……!!」
二人が叫ぶ間に彼の四肢は完全に無くなった。クルトの胴体が腰の方から沈んでいく。
「ああ、何だってんだ、クソ!」
クルトは最後の力を振り絞って怨嗟の言葉を紡ぐ。
「俺はただ、彼女を好きに……」
その叫びを最後に、彼の存在は掻き消えた。
残されたテレサは、何事もなかったかのように芽吹く苗を力なく見つめていた。
「何……どうなったの……?私、何を……」
その呟きは、風に乗り蒼穹へと消えていく。
「ご苦労様、若きArm’s Fort」
それに答えるかのように、しわがれた男の声が頭の中で鳴り響いた。
「……何?これ!?」
身構えるテレサ。少し遅れて、声が答える。
「驚かないでくれ。私はLong tongueと呼ばれている。君と同じ聖人の一角だ」
「……どうして会話できるの!?」
「君の腕と同じだよ。私はSharp Earと行動を共にしている。君の苦悩が彼女の耳に入ったようでね」
そこで声はいったん言葉を切った。
「聞きたいことは山ほどあるだろうが、我々も長旅で疲れていてね。一つだけ答えよう。何が聞きたいかね?」
テレサは少し思考を巡らせて、やがて言った。
「……クルトは、私が殴った人はどうなったの」
「我らの神が祝福を与えたものに触れれば、罪人の魂は消え去るだけだ」
「……消え去るって?」
「言葉通りだ。では、神託の場で会おう、Arm’s Fort」
「ちょっと、待って!」
それきり、声は聞こえなくなった。
熱風がざわざわと木の葉を鳴らした。呆然と立ち尽くしていたテレサは、その風に撫でられて顔を上げた。
「……そうだ、イレーネさん、大丈夫かな」
テレサはふらふらと家の中へと戻った。
イレーネは目を覚ましていた。アルマの腐り果てた死体から溶け出した肉にまみれて、空笑している。
「……イレーネさん?」
テレサが呼びかけても、彼女は不気味な微笑みを浮かべて笑うばかりだった。
「……?」
ふと視線を感じて、テレサは顔を上げた。
「ひっ……!」
部屋の中には食器棚も、衣服掛けもない。
その代わりに壁面を占拠していたのは、偏執的に貼り付けられた絵画だった。胸像もあれば、全身画もある。瞳を精緻に描いた絵の隣には、荒っぽい筆調で描かれた抽象画のような何かが貼られている。
描かれているのは、顔が見える物はどれもこれもアルマだった。
イレーネの笑い声が、頭の中を渦巻く。
「……う……え」
テレサはめまいを覚えて、静かに部屋を後にした。
灼熱の太陽は、間もなく子午線に差し掛かろうとしている。
「……誰か呼ばなきゃ」
テレサは力なく西の門に向けて走り出した。
†
エレナは地上に降り立った。その表情は、どこかむっとしている。重量測定の際に投げかけられた台詞がその原因だった。
『ふーん、記録を辿ってみたら、あなた、そういう事だったんですね。他の者にも言われたと思いますけど、道理で天に帰れないわけですね』
『それは……』
『毎週来る意味もないですよ、本当に。諦めて永遠に地上で過ごされたらどうですか?きっとそれを望まれたんでしょうからね』
『…………』
そう淡々と言われて、エレナはぐうの音も出なかった。
かの存在が何者なのか、彼女は知らない。ただ、慇懃な口調で、事実に基づいて嫌味を言ってくるその的確さが、彼女を辟易させていたのだった。
「……その通りなんですが…………」
呟きを後に残して、エレナは足早にテレサの屋敷へと向かっていた。
テレサは霊体が天に帰る度に様々な思いを抱え込む。それを聞いてやらなければならなかった。
果たして、屋敷の門に寄り掛かってテレサが座っていた。エレナは背中合わせに座り込んで、声をかけた。
「……どうでした?クルトさんは。ちゃんと天に帰れましたか?」
テレサは答えない。
「……テレサさん?」
テレサは微動だにしない。
エレナはただならぬ気配を感じ取って、テレサのほうに向きなおった。その表情は豊かな金髪に遮られて、窺い知ることはできない。
「ねぇ、エレナ」
「はい?」
テレサは水底から聞こえてくるような遠い声で、エレナに訊いた。
「好きって……何?」
「それは……」
「嫌がることしようとすること?その人の事だけ考えて、その人の事しか……見ないこと?」
テレサの声に嗚咽が混じり始める。
エレナはいつかと同じようにテレサの頭に右手を伸ばしかけて、生じた斥力を憎んだ。
「怖い……怖いよ……エレナ……!私もいつか、ああなっちゃうのかな……!!誰かを好きになったら……ああなっちゃうのかな……!!!」
テレサの悲痛な叫びは、エレナの頬に白銀の筋を通わせた。
「こっちを見て……テレサさん」
テレサは振り向いた。その空色の瞳が次々と溶けだしている。
「……そんなこと……ありません」
エレナは斥力に手をつきながら、精いっぱいの笑顔を作った。
「教えてあげられないのが……伝えられないのが残念……この世界には……生き死にの垣根すら超える優しい愛が……たくさんあるんですよ……!」
力強くそう言うエレナを、テレサは力なく見返した。
空色の粒が日の光で乾くまで、二人はそうして見つめあっていた。