それぞれの垣根ー2
明けて翌朝。
テレサ達は西の門で入領手続きをしていた。
「よし、じゃあお二人さん、良き滞在を」
二人はフリッツに手を振って、畑の間を歩いている。祭が終わったこの頃は、さまざまな野菜がたわわに実を付けていた。ところどころに立つ畜舎からは、時折乳牛が漏らすのんびりとした鳴き声が聞こえてくる。
「で、その女の人はどこに住んでるの?」
「ああ、農家の娘だからな。ここら一帯のはずなんだが……」
「覚えてないの?」
眉をひそめるテレサの横に、すっと並ぶ人影。防壁を通り抜けてきたエレナは、その穏やかな表情の中に好奇心を詰め込んでいた。
「まあまあ……一回くらい行ったことはあるんでしょう?」
「そりゃあ……あるさ。思い出した、こっちだな……多分」
クルトの先導で、三人は畑の角を右に曲がった。
「どんな……人なんですか?」
会話の切れ目を埋めるように、エレナは問いかける。
「まぁ、何ていうんだ……俺の求める女が、形を持ってそこにいるような感じだな」
「と、言うと?」
「言わなきゃ駄目か?ああ、多分、あそこだな」
そう言ってクルトが指差した家の前には、年若い女性が一人立っていて、通る者のない農道をせわしなく見渡している。
「……あの人ですか?」
「ああ、多分……」
そうして近づいていくうちに、その女性が三人を捉えた。息をのんで一瞬その動きを止めた彼女は、次の瞬間猛然とこちらに駆け寄ってくる。
「何だ?」
テレサとクルトは顔を見合わせた。エレナは得心行った様子で、静かに一歩後ずさった。
「テレサさん……あなたも下がりましょう」
「お、おい何なんだ」
クルトがうろたえているうちに、女性はその目の前まで近づいていた。
大きく振りかぶる右腕、農道を踏みしめる軸足。
高らかな破裂音が、畑の間にこだました。
「……?」
女性はその速度を乗せた強烈な平手打ちを放ったのだった。
返す手の甲で、もう一撃。
「……痛っ!」
「痛い、じゃないわよ!!」
そう叫んだその目には、涙がたまっている。
女性はクルトに吸い付くような口づけを交わした。
「……!?」
もがくクルト。
女性はやっと唇を離すと、静かに嗚咽を漏らし始めた。
「……何がどうなってる」
「どうなってる、じゃないわよ……仕事で隣の自治領に行くって、五日で戻るっていうから待ってたのに……!」
泣きじゃくる女性を持て余して、クルトは所在無げに空を見上げた。
その様子を、テレサは茫然と眺めていた。
「……ごめん、エレナ。何が起こってるのかわかる?」
「そう言う愛の形も……あるんですよ。間違いなく」
決然とそう言い切るエレナの横顔を、テレサは見つめた。
「……愛?」
エレナもテレサを見つめ返した。いつも通りの穏やかな微笑の奥に、かすかな動揺が走る。
「……後にしましょうか。邪魔者は退散しましょう」
「邪魔者?」
手を引かれて家の中に連れていかれるクルトを振り返って、テレサは首を傾げるのだった。
†
「へぇ、女の人同士?」
「そうなの。よく分からないけど」
昼の営業を終えた「青い港」で、テレサ達は昼食をとっていた。
「うーん、確かに身近にはいないけどね。まぁ周りに迷惑かけなきゃ何でもありでしょ」
「うん、そうだね」
相槌を打って、テレサは自分の料理を口に運ぶ。
ここに来る間に、テレサはエレナからその女性二人の――そしてクルトと女性の関係を教わっていた。要するに、女性二人は恋仲であり、クルトはそれに横恋慕しているという事を。
「でも、ペル。好きって何だろ」
ペルはむせ返った。
「え、何?」
「だから、好きって何なんだろう。どういう気持ちかな」
エレナの熱のこもった話を聞いて、なおテレサはそう思っていたのだった。
「それは……」
「エレナも教えてくれたけど、大事にしたい人、一緒にいたい人、いっぱいいるよ。お父さん、お母さん、ペルもそうだし、弟も……もう行っちゃったけど」
一瞬悲しげな表情を見せたテレサは、すぐに真面目な顔でペルを見据える。
「もしかして、私ペルのこと好きなのかな?」
ペルは再びむせ返った。
「ば……馬鹿言うな、テレサ」
「でしょ?違うんだよね?」
食べ物を何とか飲み込んだペルは、テレサを睨む。
「ったり前だ、馬鹿」
「そんなに怒らないでよ……ごめん」
「…………」
ペルは最後の一口を一息に詰め込んで、立ち上がった。
「今日は自分で洗って!」
「え、分かった……」
そう言ってさっさと厨房へ引っ込んでしまった彼女を見送って、テレサは料理に手を付けた。
「うーん、味付けは良くなったけど……煮えてないなぁ」
テレサはしばらく固い芋と格闘して、売り上げを取りに二階へと上がった。
「失礼しまーす……」
小声で呟いて部屋に入ると、寝台の上にはフローラが寝息を立てていた。
今朝方急に熱を出した彼女は、やはり働くと言って聞かなかった。それを強引に押しとどめたのは、ルーカスだった。料理人一人を会計に回した分、今日の売り上げは少なめだった。
「…………」
銅貨のたくさん詰まった袋を抱えながら、テレサはその丸まったお腹を見た。
エレナが教えてくれた「一緒にいたい」の極致は、テレサにとって結婚だった。その結婚を決めたフローラなら、先ほどの問いにどう答えてくれるだろう。
「……また今度にしようっと」
小銭が音をたてないように注意を払いながら、テレサはゆっくりと階段を降りた。
†
「じゃあ、結局手紙は渡せなかったんですね」
屋敷の門の前で、エレナは静かに言った。
「ああ、とてもそんな雰囲気じゃなかった。とりあえずこの体は審議院で働いてたらしいことが分かったから、それを口実に逃げてきたんだ」
そう言って、クルトは星空を見上げる。
「全く、良く好かれたもんだな、この女」
エレナは黙ってそれを聞いていた。
「逃げてきたって?」
首を傾げるテレサに、クルトは怪訝な顔を向けた。
「あんた、分からねぇか?脱がされるだろうが」
「何で?」
「……おい、あんた。これ本気なのか?」
クルトはうんざりした顔でエレナに尋ねる。
「ええ……多分」
「あー面倒くせぇな。とにかくまずいから逃げてきたんだ」
そう言って、彼は門の脇にどっかりと座り込んだ。
ひっかき傷のように細い月を、雲が覆い隠す。
「……渡す気は、ありますか?」
気まずい沈黙を払ったのはエレナだった。
「何だって?」
「手紙を渡す気はあるかと……聞いているんです」
「当然だ」
クルトはぶっきらぼうに答える。
「本当ですか?」
それを追及するエレナの声は、厳しさの中にどこか愁いを帯びていた。
「……何が言いたい」
「思い人と自由に触れ合える体を手に入れて……満足してしまったのではないですか?」
クルトはそれに答えない。ただ黙って自治領の方を眺めている。
「それは確かに幸福です……通常望みえないほどの。でも、あなたは心残りを解消するためにテレサさんの家に入っています。約束を反故にすることは……許しません」
厳然と空気を震わせるエレナの声は、テレサの背筋を冷たく撫で上げた。
「ちょっと、エレナ……」
何か言いかけるテレサを、クルトは手を上げて制する。
「許さないって……どうしてくれるんだ……?」
彼はエレナの方を胡乱な目つきで見つめた。
「知ってるよ、この体を捨てて、霊体同士なら触れるんだっけな。だったらどうした。漁師の俺に、片腕で敵うと思ってんのか?」
エレナも静かな敵意を湛えて、クルトを睨み返す。
視線が交錯する。
星々の瞬きすら、その瞬間止まった。
「……なんてな」
緊張を断ち切ったのは、クルトのため息交じりの言葉だった。
「実際、朝はそう思ってた。でもそうもいかなくなっちまってな」
そう言って、彼は靴を脱ぎ捨てた。
「…………」
エレナの目はそれを捉えていた。
「何?どうしたの?」
テレサが身を乗り出すのを、彼女は手で制する。
「……腐ってるんですね」
クルトの足は、中ほどまで白骨になっていた。そのてらてらとした断面は腐汁を垂らしながら、ゆっくりと這うような速さで踝に向け侵攻していた。落ち切らなかった腱の切れ端が骨の端々からのぞいている。
「うっ……」
テレサは顔をそむけた。断面から漂う腐臭がその鼻をついたのだった。
「……どうして、こんな」
「さぁな。農作業に付き合ってたらいつの間にかこの様だ。臭いでばれたかもな」
「…………」
「正直、手の指の感覚もそろそろ怪しい。この体が自由に動けるうちに渡しちまわないと終わりなんだよ」
クルトは吐き捨てるように言った。
「そう……ですか」
「まぁ心配しなくても明日手紙を渡して、俺はおさらばするさ」
彼はひらひらと手を振って、うずくまっているテレサに呼びかける。
「なぁあんた、そろそろ休ませてくれないか。体を動かすとまずいらしい」
テレサはびくっと顔を上げた。
「え?うん……いいよ」
そう言って屋敷の中に入っていく二人を、エレナは見送った。
終始険しかったその表情に、かすかな安堵が広がっていた。