霊体の体温ー3
普段は漁に出る人で騒々しい夜明け前の港も、今日はことさらに静かだった。これから三日間続く「陽気への感謝祭」の初日、かつ国民の休日を迎えた漁港には、彼女ら以外人っ子一人いなかった。
「この時間はちょっとましだね」
テレサはひとりごちた。
「……何がですか?」
「……そっか、あなた達は暑さ感じないんだもんね」
肩をすくめた彼女は、カールの方を見やる。桟橋の端から真っ暗な水平線を眺めていた彼は、やがてこちらに戻ってきて不満げに呟いた。
「真っ暗でつまんない。なんで海は青くないの?」
「え?えっと……ね」
テレサが言葉を選んでいるうちに、エレナがすっと進み出てカールの前にしゃがみこんだ。
「海はね……お空が大好きだから、同じ顔をしているのよ。お空が青ければ海も青いの。もうちょっと、待っていてごらん」
微笑みながら諭すエレナに不満げな目を向けて、カールは桟橋の先に座り込んだ。
「……ありがと」
「いいえ」
短く言葉を交わして、テレサはカールの背中に視線を戻す。
その心中では、葛藤が渦巻いていた。
「ねぇ、やっぱり心残りを抱えたままって、苦しいのかな」
漏れ出た言葉に、エレナは少し思案して答えた。
「……そうですね。苦しい……場合もあるでしょう」
「そうよね……」
テレサの苦渋に満ちた顔を、月明かりが無情に照らし上げる。
「……このままでも、いいんじゃないですか?」
エレナはそれきり、静かに佇んでいた。
空が赤く色づき始める。それは見る見るうちに濃く、明るくなって、星々が追い立てられるように姿を消していく。
「……いや、やっぱり駄目だ」
テレサは決然と、一歩前に踏み出した。
一歩一歩、桟橋の先端へ、カールの背中へ。
少しうるんだ瞳で彼のつむじを見つめて、テレサは口を開いた。
「カール……」
ちょうどその瞬間、赤く染まった太陽が水平線から顔を出した。
「わあ、きれい!」
立ち上がってはしゃぐカール。
テレサはその光景に心打たれて、言葉を失った。
「すごい、海ってこんなにきれいなんだ!ありがとう、姉ちゃん!」
「……どうよ」
振り向いたカールに、テレサはかろうじて笑い返した。
「……多分ここでしか見られない景色よ。良かったわね……ここまで来て」
いつの間にか隣に来ていたエレナが言葉を継いだ。
テレサはそれに感謝しながら、頬に伝った涙を拭った。
太陽は徐々に昇り、空は青さを取り戻していく。
丘の方から号砲が聞こえてくる。祭の開幕を伝える合図だった。
「見てみてよかった!お祭りも楽しみだね!姉ちゃん!……姉ちゃん?」
テレサは朝日に背を向けていた。
「そうだね……楽しみだね」
絞り出した声は、震えていた。
†
そして、祭の帰り道。
テレサの右手には大きな犬のぬいぐるみ、左手には楯が握られていた。
「姉ちゃんすごかったね!腕相撲十人抜きだもん!」
「……そうねぇ。自慢のお姉ちゃんね」
三人はゆっくりと丘を登り、門の前にたどり着いた。エレナははしゃぐカールを見、門を開けるテレサの背中に目をやった。
「じゃあ……私はここで。……家族水入らずの方がいいでしょう」
「……うん、助かる」
力なく呟いたテレサを見送って、その煤けた背中が扉の向こうに消えたのを確認して、エレナは深いため息をついた。
「……どうか気を確かに、テレサさん」
紅茶を一口すすって、反らしていた視線を戻す。正面には机を挟んでカールが座っている。
「その賞品、もっとよく見せてよ」
カールは平然と口にする。
楯に施された筋肉質な腕の意匠は、蝋燭の明かりを受けてぼんやりと浮かび上がる。身を乗り出してそれを眺めるカールを、テレサはじっと見つめている。
その胸中では、二つの記憶が相克していた。
『……このままでいいんじゃないですか?』
さざ波の中で聞いたその妥協は、温かな水底で眠っているように甘美だった。
その微睡みを、低いがなり声が遮る。
『俺に、埋もれるほどの金貨を、見せてくれ!』
涙を流して懇願するルベルの姿が、体温を奪い、彼女を身震いさせる。
テレサはゆっくりと目を閉じた。田舎で過ごした穏やかな日々、そしてここ最近味わっていた、砂糖の家の柱を舐めているような危うい幸せの記憶が想起される。
カールもまた、幸せであったろうか。テレサは思いをはせる。
精いっぱいの笑顔を作り、生前と同じように接するよう努めてきた。そして彼も生前と同じように、若干人見知り気味の元気な表情を見せていた。
ならば、幸せだっただろうか。
しかし、無理に表情を作っているのはカールも同じなのではないか。天真爛漫な表情のその内面では、心残りに縛られて無情にも責め苦を味わっているのではないか。彼は自分が霊体であることを出来る限り隠そうとしている。同じように何かを隠していないとは言い切れない。
「裏はどうなってるの?」
促す声に、テレサは瞼を上げた。
「……カール」
「何?」
楯を裏返しながら、テレサは決意した。
「……あなたの心残りは、何?」
静寂がその呟きをカールに伝えた。彼はきょとんとした顔で、テレサを見つめている。
「何?それ」
怪訝な顔をするカールに、テレサは手を伸ばす。
その頬へ届いた手が、柔らかな弾力を感じることはない。
その頭を撫でる手に、つんと立った髪が触れることはない。
カールの体内にめり込む手を見て、テレサは呟いた。
「最初から知ってた。あなたはもう死んじゃってるって」
カールは困ったような顔をして、テレサを見つめている。
「私は知りたいの。あなたは霊体になってまで私の前に現れた。じゃあ私に何ができる?何をしてほしい?」
テレサは言葉を詰まらせた。
ぽつぽつと降り出した雨の気配が、彼らのいる部屋に漂い始める。
「教えてほしいの。あなたに、幸せになってほしいから」
テレサは視線を上げた。
カールは困った様な、悪戯がばれたときのような顔をして俯いている。
「……」
「…………」
雨脚は次第に強くなり、窓を叩き始めた。
テレサは静かにカールを見つめている。灯していた蝋燭が一本燃え尽きて、その表情に影を投げかける。
やがて、カールは決意を秘めて顔を上げ、口を開いた。
「……腕相撲、しよう」
「……え?」
「腕相撲。姉ちゃんは聖女様だから強いけど、全力でね。手加減したら許さない」
そう言って、カールは机の上に肘をついて、手を差し出す。
「カール、腕相撲って……」
「大丈夫、触れるから。早くして時間ない」
テレサも肘をついて、おずおずとその手に自分の手を重ねた。
「っ……!」
喉まで出かかった悲鳴を、テレサは噛み殺す。雪に手を突っ込んだ時よりもはるかに冷たい、それでいて柔らかな感触が、手のひらから入り、肘を伝って全身を駆け巡る。
「……なんで?」
「あとでね、よーい」
緊張が蝋燭の炎を揺らした。
「どん!」
「……!?」
両者の腕は始まりの位置から拮抗して動かない。その幼い腕のどこからそんな力が出ているのか、テレサの見込みを遥かに上回る、およそ年相応とは思えない筋力で、カールは彼女の膂力に張り合っている。
「どうしたの、姉ちゃん!村でやった時は瞬殺だったでしょ!本気出さないと怒るよ!」
「……っ!」
テレサの手の甲に空色の光が燃える。その光が強まるにつれて、次第にテレサの方が優勢になっていく。
「やっぱり、そうでなくっちゃ。さすが姉ちゃんだね」
そして腕が傾くにつれて、カールの体は徐々に透けていくのだった。
「……カール!?」
「……姉ちゃんが幸せそうでよかった。村だと避けられてたから、こっちでお友達が出来てて安心したよ」
光の奔流は止まらない。半透明になったカールを、テレサの頬に伝う一筋の涙を明るく照らす。
「相変わらず元気そうでよかった。結局一度も勝てなかったけど……どこで使おうか迷ったけど、今まで取っておいてよかった。生きてる人間には、一回しか触れないから」
「待って!カール!!」
カールは殆ど透けた顔でにっこりと笑う。テレサは顔をくしゃくしゃに歪めて、それを見つめていた。
「じゃあね、姉ちゃん……元気でね」
それを最後に、カールの姿は跡形もなく掻き消えた。
勢い余った手が、机を穿つ。
すりむいて血を流す指を、テレサは茫然と眺めていた。
「……行っちゃった」
降りしきる雨の中、テレサは門を背に座っている。
「……そうですか」
それきり、雨粒が地面を跳ねる音だけが二人を包み込んだ。
座り込むテレサは、顔に張り付いた前髪を払おうともせず、力なく項垂れている。エレナはその頭に手を伸ばそうとして、門の隙間に生じた斥力に阻まれた。
「……風邪をひきますよ」
「…………もうちょっとだけ。明日も休日だし」
降り止む気配のない雨が、テレサを濡らし続けていた。
†
日の出とともに雨は上がった。体の芯まで濡れ細ったテレサを、太陽がじりじりと乾かしている。
「ん、ここでいいのかな」
「だろうな……って、何だこれ、大丈夫か?」
近寄ってきた一組の旅人が、門に寄り掛かるテレサを見て狼狽した声をあげる。
「……うちに何か用ですか」
のっそりと振り向いたテレサは、大分腫れの引いた目で旅人二人を見た。
「あ……ああ、あんたに手紙を預かってる。西の方の村だ」
「馬鹿お前、ここから見たらどこも西の方だろうがよ」
そう言って、旅人は懐から手紙を差し出した。それを受け取って、テレサは差出人を確認する。
「……お父さん!?」
テレサは封筒を引きちぎって、中身をむさぼるように読み始めた。
「お、おう……じゃあ、確かに渡したからな」
うろたえながら立ち去る旅人へぞんざいに会釈して、テレサは手紙を読み進める。
そこには三人目の子供が生まれたこと、家を改築したこと、そして、カールが死んだことが書かれていた。刺殺だった。犯人は捕まらずじまいだという事だった。
「…………」
テレサは手紙を胸に抱いて、弟の無念を思い膝をついた。