聖女の非日常-3
「お疲れさん、随分かかったね」
店に戻った二人に、腕をまくったフローラが声をかけた。
「青い港」は昼間の陽気な食堂から一転して、夜営業にむけてその装いを変えていた。壁には燭台の上で蝋燭がゆらゆらと燃え、薄暗くなり始めた店内を優しく照らしている。酔っ払いたちが千鳥足で歩いても蹴躓かないように、椅子はすべて取り払われていた。
そうした店構えを整えるのは、フローラ達の仕事だった。ルーカスは厨房でつまみの仕込みに追われている。
「はい、ちょっと力仕事があって」
「すごかった。いくら売り上げてもテレサ一人で持って行けるよ」
「あんたはまた適当なこと言って」
ペルの報告を笑っていなすフローラ。
「いや、本当だって。ねぇあんた、行けるでしょ?」
「うん。あのくらいならいくらでも運べると思う。場所も覚えたし」
「ね。だから私はこっちを手伝いたいの。おばさんもいい加減きついでしょ」
ペルはそう言いながら、フローラを長椅子に促した。
「見くびるんじゃない。私はまだまだ働ける。第一、私が休んだら誰が会計するんだい……」
それに従いながらも、フローラは強気だった。しかし燭台から投げかけられる明かりが、その顔に色濃い疲労の影を落とす。
その虚勢を遮って、ペルが口をはさんだ。
「座って小銭をやり取りするだけならともかく、高いところに登ったり物を動かしたりするのは止めた方がいいんじゃないの?」
「そうですよ、おば……フローラさん。弟が生まれる前、お母さんはすごく大事にされてました。ちっちゃいなりに私もいろいろお手伝いした覚えがあります」
「というわけ。私たちも良い年だからさ、もっとこき使ってよ。なんかあったらと思うと怖くて見てられないのよ」
二人の誠意がその瞳に燃えていた。
フローラは長椅子へ静かに沈み込んで、ため息をついた。
「……そうかい。じゃあ明日からはお嬢ちゃん一人で行ってもらおうかね」
「……!はい!任せてください!」
テレサは顔を輝かせて頷いた。
「決まりだね。あんた、無くすなよー?」
「そんな間抜けじゃないよ!ペルこそ髪の毛燃やさないようにね!」
わいわいと言い合う二人の声を聴きながら、フローラは目を閉じた。
「……一足先に良い娘たちを持ったもんだよ」
独り言ちたその顔は、幾らか若返ったように明るくなっていた。フローラはゆっくりと瞼を上げて、立ち上がった。
「ほら、もうすぐ店開けるから、帰った帰った。お金は取ったね?」
「あ、はい。ありがとうございます」
「よし。自治領の外なんだ。日が暮れる前に帰りな」
「なんか今日のを見たら心配する気失せたけどねー。じゃあね、また明日」
「うん、ペルもおば……フローラさんもうちょっと頑張ってね。お疲れ様でした!」
二人に手を振って、テレサは「青い港」を後にした。
†
「はい、テレサ=コーゼルさん。お帰りですね」
黒革張りの分厚い台帳をめくりながら、年若い兵士は頷いた。
「大変だねー、夜勤って」
「まぁ、これも下積みのうちだけだと思えば……はい、これですね」
兵士は台帳にテレサの名前を認めると、その脇に小さく日付を書いた。
「あれ、一人なの?」
「いえ、交代で寝ることにしてるんです」
「ふーん、そうなんだ……一人で怖くないの?二人いる意味なくない?」
「まぁ、そうなんですが。先輩のお言葉にはなかなか逆らいづらくてですね……はい、行っていいですよ」
「うーん……ありがとうございます。お仕事がんばってください」
微笑みながら見送る若い兵士に不安げな視線を送りながら、彼女は門をくぐった。
丘の向こうでは、赤熱した太陽が最後の光を投げかけている。空の支配権は今日も星々の軍勢に奪われつつあった。
そんな薄暗がりの中を、テレサは足早に歩く。幾人もの旅人たちによって踏み固められた道は、丘の手前で右に折れて伸びている。それは、つい一月前に彼女が通ってきた道だった。
気が付けばテレサは足を止めて感慨に浸っていた。東の果ての首都まで、ずいぶん長い道のりだったことに思い至ったのだった。
「みんな元気かなぁ……」
そう呟きながら自宅の方を仰ぎ見たテレサは、深赤色の背景に人影が一つ佇んでいるのを見て取った。それは門の前で、時折空を仰ぎ見ながらじっと立っている。
「なんだろ……」
テレサは訝った。街の目と鼻の先とはいえ、こんな時間に外にいるとは何者だろうと、彼女は自分のことを棚に上げて思案した。
「……もしかして、郵便屋さんかな?」
そう思い至った彼女は、小走りで丘を駆け上がる。ついさっきまで感傷に浸っていたせいか、それが故郷からの便りを持っているような、そんな気がしてならなかったのだった。それの姿は、逆光で詳細が見えない。
「すみませーん!今行きまーす!」
そう叫んだテレサの声は届いたようだった。それは身じろぎして彼女の方を向くと、ゆっくりと手を振った。
その手が、次第に大きくなる。
それと向き合ったテレサは、落胆を隠しきれなかった。日よけに用いられる大きな革製の帽子。体をすっぽりと覆う厚手の外套。背負った巨大な背嚢。見るからにただの旅人だった。
「なぁんだ。何かうちに用ですか?」
思わずぞんざいな口調になってしまったのを正す間もなく、旅人は腰から短刀を抜いた。そして、滑るようにこちらへ向かってくる。
「……!?」
身をかわそうとしたときには遅かった。その刃先が水平に彼女の胸元へと吸い込まれ――
――旅人の体ごと突き抜けた。
「あー、しまった」
旅人はそそくさと刃物をしまった。
一瞬遅れて、テレサは振り向いた。
「……うちに何か用ですか、霊体の旅人さん」
若干の安堵と、幾ばくかの怒りが入り混じった鋭い声で問うテレサ。旅人は帽子の上から頭を掻いた。
「あー、なんだ。すまなかった。昔の癖でつい、な。俺はルベル。驚かせて済まなかった」
「癖って、どんな人生送ってきたの?」
「さあな。ともかく、家に入れてくれないか?聖女のあんたならきっと、俺の心残りを断ち切れるはずだ」
「……ちょっと待って」
テレサはかつて母親に聞かされた逸話を思い出していた。不用意に霊体を家に上げたことで、一挙手一投足を村中に言いふらされた結果恥辱の中で自ら死んだ女の話を。一度彼らを家に立ち入らせてしまったら取り返しがつかないという事を、幼い彼女は震えながら理解したものだった。
「……私は確かに聖人だけど、あなた達を無理やり神様の所に帰す力を持ってるわけじゃない」
絞り出すように言ったテレサに、ルベルは真剣な面持ちで頷いた。
「そんな奇跡みたいなことを信じてるわけじゃない。今日分かったんだ。あんたなら……」
「じゃあ、あなたの心残りは何?」
ルベルは言いよどんだ。そして、気恥しそうにぼそっと呟いた。
「……金貨だ」
「え?」
「……金貨が見たい。辺境でケチな盗賊まがいの事をやってたおかげで、とんと縁が無かった。もっと稼ぎのいい都会に出ようと旅を始めて……クソ、何てみじめなんだ。なぁ、聖人のあんたなら持ってるはずだ。俺に、埋もれるほどの金貨を、見せてくれ!」
ルベルの手はテレサの肩を掴もうとして、虚しくすり抜ける。その頬には、涙の跡が伝っていた。
テレサはその顔を見、洋館の一室をちらりと見た。そして、
「いいよ、上がって」
静かにそう言った。
「……!本当か!」
「なんで私がお金持ちだと思ったのか知らないけど……」
門を開けて、綺麗にならされた小路をテレサは歩く。その後ろにはルベルがぴったりと付き従う。
「何でもいい。とにかく見せてくれ」
懐から大きな鍵を取り出して、テレサは古びた扉を開いた。
入口からまっすぐに廊下が伸びる両脇には、これまた古びた扉が二つずつあった。突き当りの階段は螺旋を描いて二階へと通じている。
テレサ達は手前の左側の扉を開けて、中へ入った。壁からせり出した燭台に火を灯すと、部屋の全容がぼんやりと浮かび上がる。
「……なんだこりゃあ」
ルベルが言葉を失う。
その部屋には何もなかった。ただ一つ、巨大な鋼の板を除いて。大人が一直線に五人は横になれるほどの間取りの部屋を、その板が半分ほど占拠していた。
「ここに、何があるっていうんだ」
テレサは手袋を取って、両手を合わせた。空色の光の腕が顕現する。
「代々 Arm’s Fortが住む家だから、金庫も単純なの」
その腕はするすると伸び、鋼板を受け止める床の四方に施された窪みに滑り込んだ。
「他の誰にも、開けられないからね」
腕が引き上げられると、その下の空間に顔を出したのはまばゆい財宝の山。敷き詰められた貨幣の中に、大粒の宝石が見え隠れしていた。年代を感じさせる武具もそれらに混じって打ち捨てられている。
「巡礼に出るようになると、自然に集まるんだって。力が力だからお礼もいっぱいもらえて。人によって集めてたものは違うみたいだけど」
テレサはルベルを見やった。ぱくぱくと金魚のように口を動かしていた彼は、ふらふらと財宝の池へと近寄り、その縁でがっくりと膝をついた。
「なぁ、あんた……」
ややあってその口から漏れ出した言葉を、テレサはかろうじて聞き取った。
「何?」
「あんた、これだけ金があって……どうして働いてんだ」
「料理を教わりたいからだよ?」
テレサは事も無げに言った。
「私おいしいもの好きだから、自分で作れるようになりたいなと思って。家ではお母さん任せだったから最初はひどかったけど、だんだん作れるようになってきて……」
ルベルの哄笑がテレサの話を遮った。
その体は徐々に透き通りながら、天井へと浮かんでいく。
「ああ、クソ。俺も聖人に生まれたかったぜ!日々の暮らしに怯えることもなく、やりたいことだけやってよお!」
ルベルが叫び散らす言葉を、テレサは黙って聞いている。その間にも彼の体はどんどん透明度を増していく。
「あばよ、クソッタレ!せいぜい恵まれた人生を楽しむこった!俺みたいに心残りなんて残すんじゃねぇぞ!あばよ!会えたら次の世でよろしくな!」
それを最後に、高笑いを残してルベルは消えた。
がこん、と音を立てて鋼板は元の位置に戻った。
光の腕がほどけて、夜の静寂がテレサを包み込む。
彼女はルベルが消えていった天井をしばらく眺めていた。植物を模して施された意匠が、蝋燭の明かりを受けてゆらゆらと優しく揺れているように見えた。
「心残り……か」
深いため息をついて、テレサは立ちあがった。
火を消して表へ出た彼女は、煌々と輝く満月が見下ろす中、静かに門へと向かった。
その向こうには、艶やかな月光を浴びて、白い薄手の上着に濃紺の腰巻を巻いたもう一人の友人が立っていた。夜闇に溶け込む漆黒の髪は肩甲骨のあたりまでまっすぐに伸び、細い首を覆い隠している。その髪とは対照的に、肌色は病的なまでに青白い。整った顔の造形から受ける冷たい印象と、ひらひらとたなびく左の袖が放つ不穏な気配を、にじみ出るおっとりとした気配が打ち消している。
「……こんばんは。今日は月が綺麗ですね」
空を見上げながら言うその声は、喉の奥で何度か濾過されているかのようにか細く、透き通っている。
彼女――かつてエレナと名乗ったその隻腕の霊体は、月から目を離してテレサを見やった。
「どうしたんですか?ひどい顔」
大きな深赤色の瞳が、テレサをやさしげに見つめている。
「……いや、ちょっとふるさとの事を思い出しちゃって」
テレサは笑顔を作って、入れ替わりに空を見上げた。
「ほんとだ。とっても綺麗」
その様子を、エレナは黙って見つめていた。
満月が子午線に差し掛かる。テレサは門に寄り掛かって座り込んだ。エレナもそれに倣って、背中合わせに座る姿勢をとった。
「……どう?心残り、思い出せた?」
「……いえ、さっぱり」
「そう」
長い沈黙が、再び二人を包み込んだ。どこからともなく聞こえてくる虫の声が、優しく二人の耳を撫でる。
「……あの」
「何?」
「……ただの、行きずりの霊体の言葉です。あんまり……気に病まないほうがいいと思います」
「あら、見てたの?」
テレサは短く笑って、エレナの方を向いた。
「あれは……聖人の重責に不案内だっただけです。神託は国政に必要不可欠ですし、巡礼の旅だって……」
「そうらしいけどさー……」
「それに……彼もきっと心残りを払いきって、天に帰れるくらい軽くなった事でしょう。一つの魂を救ったことは……誇っていいと思います」
そう優しく言うエレナに、テレサはゆっくりと立ち上がって微笑みかける。
「ありがとう。ちょっと元気出てきた」
「それは何よりです。明日もお仕事でしょう?早く寝ないと」
「そうね。じゃあ、お休み」
「はい、お休みなさい」
そう短く言い交して、テレサは自宅へと戻っていく。
エレナの柔らかな深赤色の目線が、それを見送った。