最後の進軍―2
目を覚ましたテレサは、自分の居場所を検めた。
部屋は日が落ちて暗闇。少し硬めの寝台は、自宅のものより少し狭い。久方ぶりのすがすがしい風が、開け放たれた窓から吹き込んでくる。暗がりの中ぼんやりと窓から見える風景は町並みだった。
自宅ではないらしい、とテレサは悟った。
「……帰らなきゃ」
彼女は寝台から足を降ろして、立ち上がろうとした。
「……?」
その足には、力が入らない。空腹が思い出した様にテレサを苛んだ。
「……帰らなきゃ」
テレサは光の腕を編み出した。それらで床を掴み、ふらふらと揺れながら何とか四足で歩き出した。
腕が放つ燐光が、部屋の中にいたもう一人の影を照らし出す。椅子にもたれて眠る赤髪の女をテレサは一瞥して、のっそりと部屋の外へ出た。
廊下は左に伸びて、その最奥で階段になっている。古びた木の板を軋ませながら、テレサはゆっくりと一階に降りた。
テレサはゆっくりと出入り口の扉を押す。それは施錠されているようで、容易には開かなかった。彼女は膝立ちになって、自由になった四本の腕で力任せにそれをこじ開けた。
テレサは再び四足に戻り、緩慢な動作で表へと出た。
その時だった。
「どうやって入ろうかと思ったら……派手なことするじゃねぇか、ええ?Arm’s Fort」
横から聞こえてきた声に、テレサは転回した。そこには小さな男が立っていた。
「……帰らなきゃ、いけないの……どいて……!」
膝立ちになり拳を構えるテレサ。小男――Invisible Feetは慌てて言い添えた。
「おいおい、ちょっと待て。俺はちょうどお前を帰しに来たんだ。まぁ、負ける気はしないが……お前だって、一刻も早く帰りたいだろ?」
「……」
一瞬の沈黙。
「テレサ!」
それを破ったのは、二階から現れたペルだった。
「何してんの!まだ寝てないと!!」
テレサは顔をそちらに向けて、暗澹とした声で呟いた。
「帰らなきゃ……エレナが待ってる……」
そして、彼女はゆっくりと小男の方へと歩み寄る。小男は脂ぎった手でその手を取り、何事か呟いた。
「待ってよ!エレナって……!」
ペルの目の前で、二人は忽然と姿を消した。
「……何がどうしちゃったのよ、テレサ……」
残されたペルは、階段の手すりにもたれかかって何とか立っていた。
あの日、ペルがテレサの元を離れていた僅かな間に何が起こったのか。テレサは頑として語ろうとしない。それが先ほど見せた常軌を逸した言動に結びついているはずだと、ペルは確信していた。
「何……?私に話せないような事って、何よ……?」
起き出してきた町医者が扉の惨状を見てうめき声をあげるのが、ペルには随分遠くの光景であるように感じられた。
同時刻。
テレサと小男は彼女の屋敷の裏庭に出現していた。
「……」
「驚いたか?これがInvisible Feetの力なんだとさ。好きな場所に一瞬で着地できるのよ。便利だろ?」
そう言う小男の口調は、どこか自虐的だった。
「……ありがとう、Invisible……」
「おっと、俺のことをその名で呼ぶんじゃないぜ。俺には親からもらったホルガーって名前があるんだ。そうだろ?テレサ=コーゼル」
小男はおどけてそう言ったが、その目は微塵も笑っていなかった。
「……ホルガー、ありがとう」
「礼なんかいい。それにしても、あいつは……エレナとかいう奴はどこに行っちまったんだ?ここで待ってるって話だったが……」
ホルガーがあたりを見回す首を、テレサが万力のような力を込めて掴み止める。
「うげっ……何だよ。どっからそんな力が……」
「エレナって言った?」
激情に任せて放たれた言葉は意外にも平坦で、それが故にホルガーの背筋を冷たく撫で上げた。
「ああ、そうだ……」
テレサは手を放した。崩れ落ちるホルガーを顧みもせず、最後の力を振り絞って全力で走る。
その行き先は、門の前。
果たしてそこには、白い薄手の上着に濃紺の腰巻を巻いた女が門に寄り掛かっていた。
「……こんばんは、今日は月が綺麗ね」
テレサは門に激突した。門に縋り付きながら、身を捩ってその名を呼ぶ。
「入って……入って!エレナ!」
その瞬間、エレナは体勢を崩して庭に倒れこんだ、テレサの体をすり抜け、あおむけに横たわる。
その顔の両脇に、テレサは手をついた。顔を沈め、身を地に這わせ、エレナの体に沈み込む。
「……どこ行ってたのよ」
「ちょっと船に乗りかかったけど……戻ってきた。大丈夫。もうどこにも行かないよ」
エレナはテレサを抱き留めるように、腕を回した。
二人は唇を寄せて、そのまま頭も一つになった。
恋人たちは重なり合ったまま、地面を濡らしていた。
†
「はーい、お待たせー!」
料理を置いたテレサは、急いで厨房へと戻っていく。
それを会計場で見ていたペルは、ほっと息をついた。
「なんだ、元気になったのか……」
そうしている間にも、客が押し寄せては銅貨を突き出してくる。
「おい、嬢ちゃん、早くしてくれ」
「ああ、ごめんごめん……あんた、一枚足りないよ」
一枚一枚小銭を数えて、彼女はそうしたちんけな誤魔化しを指摘していく。
フローラの技前を、ペルは思い出していた。もはや重さで勘定できると豪語していた彼女は、現在二階でいきんでいる。今朝突然に陣痛が始まり、ペルは慌てて産婆を呼びに行ったのだった。
客がしぶしぶ銅貨を取り出して、ペルに渡した。
「ところで嬢ちゃん、夜飲みに行くなら気を付けなよ」
「……ああ、あれね」
街でにわかに噂になっている行方不明者のことに、ペルは思い至った、つい先日、国民の休日に、若い女性が忽然と姿を消したのだった。警備隊はそれを人さらいの仕業かも知れないと広報し、市民に注意を促していた。
「まぁ、嬢ちゃんならそもそも狙われないかもしれないけどな!ちょっとは女らしくしてみたらどうだ?」
「余計なこと喋るなら倍頂くよ。後ろがつっかえてんだ、早く行きな」
「おお、怖。じゃあな、気を付けなよ」
そう言って客が帰ろうとした、 その時だった。
階上から元気な泣き声が聞こえてきた。
「生まれた!」
一転して顔を輝かせるペル。
「ペル、店閉めるぞ」
ルーカスが大急ぎで二階に上がっていくのを、ペルはくすりと笑った。
「おかみか?生まれたんだな」
そこにテレサも遅れて現れた。
「ペル、売り上げ持っていくね、早くいこう」
客の間にも、その朗報は広がっていった。
「あ?生まれたって?」
「どんな子か拝んでみたいもんだな」
ペルは受け取った銅貨を客に突き返した。
「お代はいいから順番に二階に来な!全員祝ってくれよ!」
ペルの啖呵に、「青い港」は沸き立った。
「なんだ、騒々しいねぇ……」
そう弱々しく言うフローラは、寝台の上で死んだように寝転んでいた。
「おばさん、お疲れ!」
ペルの声に、彼女は手をあげて答える。
「フローラさん……」
テレサは穏やかに談笑する産婆達の方を見た。
当の赤子は、 産湯に浸って体を清めている。玉のような女の子だった。
「わぁ、可愛い!ね、テレサ」
「うん、そうだね」
そう頷くテレサの顔は、神妙だった。
「テレサ?」
「うん……大丈夫……ちょっと感動しちゃって」
ペルも頷いた。
「おばさん、抱いてみてもいい?」
「おい、こっちが先に決まってんだろ」
鋭い声で言うルーカスに、ペルは頭を掻いた。
「はい、お父さん。元気な女の子だよ。良かったねぇ」
産婆によってルーカスに手渡された赤子は、火がついたように泣き出した。悲しげな顔をするルーカス。それを見てペルは暖かな気持ちになった。
「どうも俺じゃ駄目らしいな……ほれ、抱けるか?」
体を起こしたフローラに渡されると、赤子は泣き止んで安らかに寝息を立て始めた。それを目を細めて見つめるフローラ。
その心温まる光景に、ペルも、テレサも、見とれていた。
†
その翌日から、テレサは再び顔を出さなくなった。
「何考えてんだ、あいつ……」
ペルはテレサの屋敷の前に立っていた。
「…………」
見違えるように元気になったのも、つかの間だったということだろうか。
ここ二週間、彼女は何も言わずに休んでいた。代わりに料理を運ぶことになり、ついでに会計もこなしていたペルだったが、それが苦だった訳ではない。
「……テレサ、どうしちゃったの?」
門を開いて、入口へと進みながらペルは独り言ちる。
彼女の脳裏に不穏な想像がよぎる。
例の人攫いに巻き込まれたのでは……?
ペルは頭を振った。仮に襲撃を受けたとしても、彼女にはあの強靭な、殺人鬼を撃退した腕がある。すぐに冷静になったペルには、彼女が易々とさらわれるとは思えなかった。
では、何故。
ペルは扉を叩いた。
「テレサー!」
大声で呼んでも、返事はない。
ペルの脳裏に別の記憶がよみがえった。つい先日のこと、屋敷に踏み込んだ時、テレサは飢えと渇きで半死半生の状態だった。
今もその状態になっているのではないか。
ペルは扉を押した。それはゆっくりと開き、彼女を迎え入れる。
「鍵かかってない……」
それは彼女の予想を裏付けているように思えた。
ペルは息をのんで、ゆっくりと進む。
「何……この臭い」
扉を一つ通りすぎるころには、彼女は異変に気が付いた。
それは館の奥に行けば行くほど強まっていく。二階につながる階段から、侵入者を拒むように降りてきているようだった。
そして二階には……テレサの寝室があった。
「大丈夫なの……テレサ」
階段を上りながら、ペルは呟く。その臭いは、テレサの寝室の前でかつてないほどの不快をペルに催させた。
「…………」
取っ手を掴んで、ペルは一瞬躊躇する。そして、一息に扉を開け放った。
「うっ……!」
腐臭が鼻を突き通して脳天へと抜けた。
目をしばたたかせながら部屋の中を見渡して、ペルはテレサを発見した。
彼女は一糸まとわぬ姿で寝息を立てていた。
そしてペルは、その隣を見る。
「……っ!!」
思わず一歩後ずさるペル。
そこには裸の腐乱死体が眠っていた。肉の削げ落ちた腕はテレサの肩を抱き、不浄の汁を垂らす足はテレサの足と絡み合っている。
その死体が、身じろぎした。
「なっ……!」
恐怖が口をついて出た。
次の瞬間、ペルの体は天井まで吊り上げられていた。
テレサは目を開けて、部屋の入り口に立っていた闖入者を見つめた。
「……テレサ!?」
「ペルね……」
上体を起こしたテレサに絡みつくように、死体はばりばりと耳を覆いたくなるような音を立ててその身を起こした。寝台の覆い布にはその体の形に、薄汚れた染みが残っている。
「テレサ……」
「エレナ、二人だけで話がしたいの。ちょっとだけ外してくれる?」
「……じゃあ、ついでに埋まってくるね。指がなくなっちゃった」
そう透き通った声で言って、死体は死の匂いを纏わせながら部屋の外へ出ていった。
ペルはテレサを睨みつけた。
「どういう事、テレサ」
「…………聞きたい?」
そう聞き返すのは、その目を固く閉じたテレサ。
「あんた、何やってんの!?エレナってどういうこと!?この間も言ってた!死体が動いてる!どういうことよ!!」
テレサは三本目の腕を細く分割して、ペルの口をふさいだ。
「……!!」
「知ってる?ペル。私も知らなかった。自分の事なのに、Sharp Earに聞いてやっと分かったんだけど」
そう話し出す声は、場違いに弾んでいた。
「私たち聖人って、普通霊体になれないんだって。死んだら神様の所への直行便に乗って、そのそばに仕えるんだって……」
四本目の腕が、床を穿った。
「冗談じゃないわ!私はエレナと一緒にいたいだけなのに、聖人ってだけで!何なのよ一体、不公平だわ!もう!!」
突然激昂したテレサは、唐突に静かになる。
「……っ!」
「そうだったんだけど、私、一つ思い出したのよね。あの殺人鬼、いたでしょ?私、あれの霊体を殴り飛ばしたのを思い出したの。変よね。聖人って、そのまま神様のところに行くはずなのに。一応Sharp Earにも聞いてみたけど、それはおかしいって。自殺した他のThird Eyeは、知ってる限りまっすぐ昇って行ったって」
淡々と語るその声の調子が、だんだん落ちてくる。
「霊体は罪の重さで潰れちゃう。重たいんだね、それ。だから気づいたの。あのThird Eyeしかやってないこと」
テレサは目を開いた。焦点の合わないその目には、深い悲しみを湛えている。
「……人の命をたくさん奪って、魂をどんどん重くしていけば、神様のところに行かなくて済むんじゃないかって……直行便とかいうのが重くて飛べないくらい」
そう呻いたテレサの声は、しかし淡々としていた。
「だから……ちょっとだけやってみた。エレナに触るために。愛を教えてもらうために。だけど全然重くなる気がしないの……何にも変化ないの」
「…………っ!!」
「それで、思ったの。赤の他人じゃ重さが足りないんじゃないかって」
ペルは戦慄した。
「私の事信じてくれてる人を裏切って殺したら……罪……重いと思わない?」
「…………!!」
テレサは俯いた。
「ペル、来てくれてありがとう」
ペルの口を覆っていた手が離れた。
「っあ、テレサ!どうして……」
その瞬間、その手がさらに細かくほどけてペルの中へ侵入した。
「…………!!」
意識が途切れるまでの一瞬で、ペルは思った。
……だれかこの馬鹿を止めなければ。
このどうしようもない努力家を……
何としてでも……!!
意識活動に不可欠な臓器を破壊されて、ペルは息絶えた。
光の腕はペルの死体を床に降ろして、ゆっくりとほどけた。
「…………」
テレサは巨大なしこりを、その心に感じていた。罪悪感、懐かしさ、そして深い悲しみで出来上がったそれは、確かに重かった。
「これが、重みなのかな……」
テレサはすこし躊躇って、深黒色の法衣に袖を通した。
「……終わった?」
部屋を出ようとするテレサに、霊体に戻ったエレナが優しい声をかけた。
「……それに入って待ってて」
「どうかしたの?」
「……もっと重くしてくる」
そう言って、テレサは階段を降りようとした。
その体を、ペルの体が抱き留める。
「テレサ……」
二人はゆっくりと唇を絡ませた。
「……すぐ戻るから」
テレサは頬に伝った涙を拭って、扉を開けた。
「…………待て、Arm’s Fort」
頭の中で反響する声に、テレサは顔をしかめた。
「待てと言っている。お前の望みはもう……」
「……聖人を殺したら、もっと重くなるの?教えてよ、物知りSharp Ear……お節介Long Tongue……!!」
赤熱した怒りは、冷たい海に落ちて一瞬で冷却され沈殿する。
ペルを、殺した。
「……悔やんでなんか……ない……」
一筋の涙が、下草に跳ねた。
テレサの呟きは風に乗って消えていった。




