その九
(九)
繁華街から少し離れた所、といっても住宅街やオフィス街ではなく、その中間点、境目となるような場所がある。会社の事務所もあれば、小さな商店や喫茶店、店舗兼住宅の薬局や園芸品店。もちろん一般住宅も建ち並んでいる。
そんな中に一軒の小さなスナックが入り込んでいた。カウンターに五、六人程度と四人掛けのボックスが二つ。長年この店をやっているベテランママと、三十歳くらいのホステス。そして最近アルバイトで入って来た二十二,三歳の女の子の三人で、この店の客の接待をしていた。カウンターもボックスも、満席になることは滅多になく、三人もいれば十分な広さだ。
繁華街の中心部であれば、あと一人か二人はホステスが欲しいところだが、ここは街と町との境界線上であるため、客足は中心部より遠のいてしまうのは仕方のないことかもしれない。したがって、料金も安めであるし、キープの値段も中心部より少し割安に設定してある。
街の騒々しい雰囲気が嫌いな酒飲みたちが数人、この店の常連となっていた。
今はカウンターに仕事帰りのサラリーマン風の男が一人、ボックスには初老の男二人連れが一組入っているだけだった。
カウンターにホステス一人、ボックスでママとアルバイトの女の子が接客していた。
入り口のドアに吊るされている鈴が鳴って、二人連れの若い男が入って来た。
「あら、いらっしゃい。今日は遅いのね」
と、ママ。
「いらっしゃいませ。どっちに座る?」
アルバイトの女の子がすぐに立ち上がると、二人連れに近づいて行った。
「いたのか、悠子。今日は休みじゃなかったのか」
「何言ってるの。昨日がお休みだったじゃないの。あっ、そうか、今週はまだ来てなかったのよね、敏夫さん」
「今日はいないと思ってたよ」
「あら、じゃあ私の休みを狙って来たのね。そんなに私に会いたくなかったの?」
悠子は意地悪く笑って見せた。アルバイトのため、週に三日だけこの店で働いているのである。
「今日はカウンターでいいよ。ちょっとマジな話があるんでね」
敏夫はそう言うと、連れの男、竜二を促してカウンターの一番すみに腰を掛けた。
悠子は慌ててカウンターの中に入ると、温かいおしぼりを出して来て二人に渡した。
「いらっしゃい。何にする?」
悠子は改めて挨拶をして、飲み物のオーダーを訊いた。
「俺のボトル、まだ入ってるか? 無かったら新しいのキープしてくれ」
「まだ半分くらい残ってたんじゃないかな。ちょっと待ってて」
悠子は後ろを向いて、キープ棚の中から敏夫のボトルを出してきた。まだ半分以上は残っていた。
「今日は水割りにしてくれ」
「あら、いつものロックじゃないの?」
「今日は酔っぱらうわけにはいかないんだ。のどを潤す程度でいい」
敏夫はそう言うと、「こいつも俺と一緒にしてくれ」
と、竜二を指さして言った。
「何だよ、俺もかよ」
「ちょっと話があるんだ。酔う前に話をしとかないと……」
敏夫はそこまで言うと、悠子が作った水割りを一気に飲み干した。
「そんなにがぶ飲みしたら、ロックで飲むのと変わんないじゃない。――何かあったの?」
悠子は心配そうに訊いた。
「実は昨日、警察にパクられたんだよ。くそう、あのポリ公め」
「パクられた、って……。敏夫さん、何やったの? まさか強盗とか、婦女暴行とか……」
「そんなことしたら今ここにいるわけないだろ。とっくに豚箱さ」
「それもそうね。でも敏夫さんなら婦女暴行とかやりそうじゃない。ははっ」
と、悠子が悪態をつきながら、「私も一杯いただくわね」
と言って、自分の水割りを作り始めた。
「ははっ、じゃないよ、全く。駐車違反だよ」
「駐車違反? どこに止めてたの?」
「車じゃないんだよね、それが。原チャリ。五十CCのバイクで駐車違反なんだってよ」
「原チャリで?」
「正確には駐輪違反だな。レッカー移動されてたんだ。道路に白墨で(出頭せよ)って書いてあったよ」
敏夫はまたグラスを掴むと、今度は半分ほど飲んだ。竜二が横で笑っている。
「それで、警察には行って来たの?」
「行って来たさ、昨日の夜中に。昼はポリ公が大勢いるだろうから、人が少ない夜中に行ったんだ。そしたら俺の相手をしたのが可愛いネーチャン。婦警だったんだ」
「あら、よかったじゃない。その婦警さん、口説いて来たんでしょ」
「何が口説けるもんか、あんなお堅いネーチャン。俺がちょっと冗談言ったら、スゲー怖い顔して睨みつけやがって、散々叱られてきたよ」
「その怒った女の顔が、また可愛いんだよな」
竜二が横で笑いながら言った。
「何とか勘弁してくれってお願いしたら、後ろから人相の悪いポリ公が近づいて来て、俺のこと睨んでたよ。あれはきっとポリ公の制服を着たヤクザだぜ」
「さすがの敏夫さんも、警察にはかなわないみたいね」
「当たり前じゃないか。罰金とレッカー代でしめて一万二千円。ヤケ酒代も含めると約三万円の損だな。もったいねえなあ」
「もったいないのはヤケ酒の方でしょ。――でもまあ、そのおかげで私もおいしいお酒をいただいてるけどね」
悠子はグラスに残っている水割りを一気にあけると、二杯目の水割りを作り始めた。
また入口の鈴が鳴った。三人連れの客が入って来る。そして女の子たちの挨拶を受けながら、空いているボックス席に座った。
「悠子ちゃん、お客さんよ」
と、ママの声が聞こえて来た。どうやら悠子のなじみの客のようである。
悠子は温かいおしぼりを手に持って、ボックス席に近づいた。
「いらっしゃい。久しぶりじゃないですか」
と挨拶しながら、そのボックスに座り込んだ。
その様子をカウンターの隅で見ていた敏夫は、フッと小さな溜息をついて、空になったグラスに自分で水割りを作り始めた。
「あら、ごめんなさい、敏ちゃん」
と、ママが気を配った。
「俺たちも話があるから、こっちは構わなくていいよ」
敏夫はママに向かって言った。しばらくは誰も俺たちの前には来ないだろう、と周りを確認すると、竜二の方に向かって姿勢を直した。
カウンターの先客とは少し距離がある。ボックスの方にも、スペースは狭いが、敏夫たちとの間にアンティークな置物が置いてあり、どちらも座っていればお互いの姿は消えてしまう。
敏夫は何から話したものか、と思いながら水割りを飲んでいると、竜二の方から小声で話しかけてきた。
「あいつ本当に大丈夫だろうな。何かとんでもないことしでかすんじゃないかな」
「俺が話したかったのは、そのことなんだ」
「大雑把にしか話を聞いていなかったけど、お前は事情を知ってるんだろ」
二人は周りの目を気にしながら、ヒソヒソと話し続けた。
「知らない割には、お前の演技力も大したもんだよ。あの女、本当にビビってたもんな」
「そりゃビビるよ。知らない三人組の男たちに拉致されるんだ。普通ならションベンちびっちゃうぜ」
「実はそのことでお前に話がある。あのな――」
敏夫と竜二。この二人、景子を拉致した時の、片瀬弘一に加担した二人組である。
最初に景子の腕をつかんで話しかけたのが竜二。あのスポーツマンタイプのがっしりとした体格である。そして後から出てきて景子に脅しをかけていた、あの目つきの悪い男が敏夫だったのだ。 弘一とこの二人の出会いは、まだ最近のことだった。
弘一は金持ち社長の一人息子だが、父親の会社には入らず、勝手気ままに転職を繰り返していた。しかしどこに行っても長続きせず、昼の仕事や夜の仕事、植木屋に行ったかと思えばショットバーのバーテンをやってみたり。
夜はいつも町をふらつき、いろんな店へと出入りしていた。
そして弘一が出入りしていたミニクラブで、よく顔を合わせる客同士ということで、約半年前に知り合ったのがこの二人だった。特に弘一と敏夫は、それから二人で飲み歩く機会が多かった。どちらも物静かで、やたらと騒ぐようなタイプではない。どことなく一匹狼タイプなのだが、二人でいると、なぜか二匹オオカミという言葉さえぴったりくるような雰囲気があった。ただこの二人は、お互い何を考えているのか分からない、怖い雰囲気さえ持っていた。
竜二は敏夫の学生の頃からの友人である。お人好しで、何でも頼まれるといやとは言えない性格だ。今回の拉致事件にしても、大変なことにはならないから、ということで、この肉体に景子の拉致を委ねられていたのである。
そしてわけが分からないまま、今この店で敏夫から話を聞こうと思っていたところだった。
「あいつ、死ぬぜ」
「――誰が?」
「弘一だよ。片瀬弘一」
敏夫の意外な言葉に、竜二は声を失った。
「あいつ、最初っから死ぬ気だったんじゃないかな」
「ちょっと待てよ。それじゃ話が違うじゃないか。誰も傷つけることはないって、最後は丸く治まるって……。そうじゃなかったのか」
「すべて丸く治まるさ。すべてね」
「あの女は? あの景子っていう女。あの子はどうなるんだよ」
竜二はそんな事情があるとは知らず、人助けのつもりで加担していたのだ。それがこんなことになろうとは、詳しく聞かずに加わったことを後悔していた。
「残念だが、あの女も道連れだ。でもそれでいいんだよ。すべて丸く治まるんだから」
「どういうことだか説明してくれないか。俺は殺人に手を貸すつもりはないぞ」
「心配するな。俺たちは何もやっちゃいないんだから。すべて弘一が一人でやったことになっている。――あいつ、悩んでたんだ」
「何を。仕事か、金か、女か」
「全部。あいつは人生のすべてに行き詰ってたんだ。仕事も定職につけず、親からも見放されてる。女にもろくに話もできないし、友達だって少ないんじゃないかな」
「だったらお前と変わらないじゃないか」
「俺はいいんだよ。俺はいつだって能天気だし、楽天家だからな。でもあいつは違う。一人で悩んでどんどん落ち込んでいく。誰も助ける奴はいない。――ただ、惚れている女がいるんだが、あいつは指をくわえて見ているだけなんだ」
「誰だよ」
「さっき俺が電話してた由美って女さ」
「だからその由美と信二が弘一の別荘に行って、四人で話し合い、そして円満に解決。ということじゃなかったのか」
竜二は興奮気味にそう言うと、グラスをドンとカウンターに叩き付け、敏夫に詰め寄った。店の中にいた客やホステスたちが、一斉に振り向いた。
「あ、ごめんごめん。何でもないんだ。気にしないでくれ」
敏夫は周りにそう言うと、「でかい声出すんじゃないよ。お前も殺人犯になりたいのか」
そう言って、また水割りを飲み始めた。
「お前、そんな奴だったのか」
「由美は信二に惚れてるんだ。信二だって分かりゃしないよ。景子の友達だから言えないだけかもしれない。弘一は所詮片思いなんだよ。その弘一が最後にできることは、自分が惚れた女が幸せになることなんだ」
「だから?」
竜二の額に汗が浮かんでいた。敏夫の言うことが、まだ理解できないのだ。そして竜二の頭の中には、魔の手から逃れようとする景子の歪んだ顔が見え隠れしていた。
「どっちにしても弘一は自殺しようとしているんだ。そこで景子は道連れ。後に残った信二と由美が、もしかしたらうまくまとまるかもしれない」
「そんなにうまくいくもんか。なぜ二人が死んでしまったのか、分からないだろ」
「だから俺がいるんだよ。弘一と景子は、実はできてたんだ、と信二と由美に伝える。そうすれば二人とも騙されたと思い込むだろう。後は二人にお任せ。どうなったって俺の知ったことじゃない」
敏夫は冷淡な口調で言った。時には薄ら笑いさえ浮かべながら。
「知ったことじゃないって、お前、弘一を助けたいと思わなかったのか。友達じゃなかったのかよ」
「あいつは死んだ方がいいんだよ。それがあいつのためだ。生きていたってしょうがないんだよ」
「――俺、今から行ってくる」
竜二は立ち上がり、セカンドバッグを取り上げると、そのまま歩き出そうとした。敏夫は慌てて竜二の腕をつかむ。
「行って来るって、どこに行くんだよ」
「別荘に決まってるじゃないか。あいつらを助けに行くんだよ」
「やめろよ、もう遅いかもしれん。弘一は拳銃を持ってるんだ」
「拳銃? 何であいつがそんな物持ってるんだ」
「あいつは大企業の息子さ。親父のコネを使えば、何だって手に入るんだよ」
敏夫は数日前に、弘一から自殺をほのめかす話を聞いているとき、バッグの中から拳銃を取り出して見せていたのである。もちろん入手先は明らかにしなかったが、大企業ともなれば、暴力団と何らかの関係ができているらしい。自分が本当に欲しいものは手に入らないが、こういうものであれば何だって手に入るもんさ、と自慢していたのだ。
「まずその拳銃で景子をズドン。そして別荘に火をつける。最後に景子の横で自分の頭をズドン。――それですべておしまいさ」
「まだ終わったわけじゃないだろう。生きているかもしれん。――とにかく俺、行ってみる。お前との付き合いもこれで終わりだ。あばよ」
竜二の憤怒ぶりは尋常ではなかった。カウンターに置いてあった自分のグラスを敏夫の前で叩き割ると、あっという間に店を飛び出して行った。そして店の前に停まっている客待ちのタクシーに乗り込み、運転手に行き先を告げた。
タクシーが発進するのとほぼ同時に、店の中から敏夫が飛び出して来た。しかしタクシーを止めることはできず、車は走り去ってしまった。
「どうしたの、敏夫さん。何かあったの?」
店の中から悠子が飛び出して来て言った。
「くそう、あの野郎。あいつはあんな正義の味方じゃなかったはずだ。良い子ぶりやがって」
「ケンカしたの?」
「何でもないよ。今日の飲み代はつけといてくれ。ママによろしくな」
敏夫はそう言うと、近くの駐車場まで走った。自分の車で来ていたのだ。もちろん飲酒運転など関係ない。いつものことだ。
竜二に先に着かれては、面倒なことになる。まだ自分の話を最後までしていなかった。もし全員が助かることになると、自分の立場が不利になることは明白だった。早く行って竜二に追いつかなければならない。
敏夫は駐車場から車を出すと、猛スピードで竜二を追いかけたのだった……。