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その八


         (八)


 いつの間にか雨は上がっていた。いつ止んだのか誰も気が付かなかった。

 国道を走る車はワイパーを作動させずに済んだが、スピードが出ているタイヤからは、まだ水しぶきが上がっていた。今の時間、走る車の数は少ないが、それでも夜中にドライブを楽しむ若者や、荷物を運ぶ運送会社のトラックと時折すれ違っていた。

「もっとスピード出ないのか」

「そんな無茶言わないでよ」

 由美は両手でしっかりとハンドルを握り、視線を正面から離さないようにして言った。

「ここで事故ったら元も子もないからな。無理に飛ばさなくていいから、慌てないで急いでくれ」

 と、賢介が無茶苦茶なことを言った。

「その場所分かるのかい」

「大丈夫よ。何度か行ったことあるもん。といっても、もう一年以上前のことになるんだけどね」

 由美は自分が飲酒運転だということを、全く意識していなかった。というより、これくらいの量であれば大丈夫だという自信を持っていた。

「でも本当にその別荘にいるのかな」

 助手席に座っている信二が、心配そうに訊いた。

「大丈夫、間違いないわ。――海の近くって言ってたし、弘ちゃんは何かあるといつもあの別荘に一人でいるの。よく別荘からだって電話があったわ」

 由美は自信に満ちた顔で言った。

 別荘というより、住宅街に立つ一軒家のような造りだ。ただ住宅と違うのは、建物の中にほとんど備品が置いてないところだろうか。一般的な電化製品とちょっとした調度品が置いてるだけで、広い空間を自由奔放に使える贅沢極まりない別荘だった。

 裏手に廻れば砂浜の海岸が広がり、夏になれば家族連れや若者たちの恰好の行楽地と様変わりする。都会に近い別天地ともいえる場所だった。

 その砂浜でキャンプを張り、みんなでバーベキューをしていた時のことを由美は思い出していた。

 肉や野菜をたくさん買い込み、クーラーに缶ビールをたっぷりと冷やし、暗くなってからの炭焼きバーベキューだ。

 網の上で焼き上がる肉からは肉汁がこぼれ、辺りに香ばしい匂いを漂わせる。乾杯の後のギンギンに冷えたビールは最高に旨かった。網焼きの肉を啄みながら、仲間たちと語り合う。みんなの顔がほころんでいる。楽園の中の微笑みだった。

 しかしそんな中、隅の方で、一人でビールを飲んでいる男がいることに、由美は気が付いた。由美は新しい缶ビールを二本、クーラーから出して男に近づいた。

「どうしたの、暗い顔して。何か悩みでもあるの?」

「そんなことないよ。俺はいつもこうなんだ。心配してくれてありがとう。十分楽しんでるよ」

「そのビール無くなるころでしょ。新しいビール持って来たわ。一緒に飲みましょ、弘ちゃん」

 二人は乾杯をして缶ビールに口をつけた。そしてまた仲間とともに談笑を始めた。

「そうだ、忘れ物しちゃったな。ちょっと行って来るから待っててくれないか。すぐ戻るから」

「行って来るって、どこまで行くの?」

「すぐ近くにうちの別荘があるんだよ」

「へえ、凄いんだ。弘ちゃんの家ってお金持ちなんだね。いいなぁ」

「親父が道楽で持ってるだけだよ。俺には関係ないさ」

「私も一緒に行ってあげようか。一人じゃ怖いでしょ、本当は」

 由美が悪戯っぽくそう言うと、弘一は微笑んで肯いた。

 満月の明かりで白く輝いた砂浜の上を歩いている二人の後ろ姿は、いかにも仲のいい恋人同士に見えたことだろう。

 別荘の外で由美は待っていた。しばらくして弘一が出て来る。手に持っているのはカメラだった。

「せっかく仲間が集まっているのに、誰もカメラ持ってきてないだろ。記念写真、撮っておかないと」

 弘一はカメラを目線まで上げて、笑顔でそう言った。

「さすが弘ちゃん、気が利くぅ」

 由美も相好をくずし、弘一の肩をポンと叩いた。

 よく考えてみれば、本当に誰もカメラを持って来ていなかった。普通キャンプともなれば、誰かが持って来てもよさそうなのだが、今まで誰も気が付かなかったのだ。

「まず一枚撮ってやるよ」

「私を?」

「これ新品のカメラなんだ。前から欲しくてね、最近やっと買ったんだよ」

「まだ使ってないの?」

「今日が初めて。このカメラの中に収めるのは、由美が第一号ってことになるな」

「私でいいのかな。カメラ壊れないかしら。あまりに美しすぎる被写体だから」

 と、由美はおどけて見せた。

「そうだな、このカメラ、ぶったまげるかもしれないな。カメラのフラッシュより、由美の方が明るいかもな」

「どういう意味よ、それ」

 ちょっぴりのふくれっ面にあどけない笑顔。弘一を叩こうと軽く手を上げたところで、明るいフラッシュの閃光が由美の体を包み込んだ。

「第一号、撮ったぞ」

「もう、ブスに写ってたって知らないからね」

「大丈夫だよ。きっとかわいく写ってるさ」

 弘一はカメラを肩に下げると、由美を促して歩き出した。

 林の中を通り抜け、砂浜に出た辺りで弘一が立ち止った。一歩後ろを歩いていた由美は、危うく弘一の背中にぶつかるところだった。

「どうしたの、急に立ち止まって」

「由美……あのさ……」

 弘一は声を詰まらせて下を向いた。

「どうしたの?」

 由美は弘一の前に回ると、心配そうにのぞき込んだ。

「――いや、いいよ。何でもない」

「何よそれ。何か言いたいことがあるんでしょ。ちゃんと言ってよ」

「お前さ、誰か好きな男はいるのか」

「私に? どうして?」

「いるの? いないの?」

「さあ、どうかな。いるような、いないような。――どうしてそんなこと訊くの?」

「誰なんだよ、その男」

「誰って……。ナイショ」

 人差し指を唇にあててそう言うと、「弘ちゃんは誰か好きな人いるの?」

「俺か。――いるよ。スッゲー可愛いんだよ。あれは天使だな」

「へぇー、誰? 私が知ってる人?」

「由美が一番よく知ってるよ」

「誰だろう。佐代子かな、夢香かな。――もしかしたら景子じゃない」

「さあ、誰かな……」

 弘一は視線をそらし、黒い海を見ていた。

「景子はだめよ。あの子は純情で真面目なんだから」

「由美は純情で真面目じゃないのか?」

「私? 私が一番純情じゃないの。まだ男の人の手も握ったことないんだから。小学校のフォークダンスは別として」

「ホントかよ。信じる奴は誰もいないと思うぞ」

「本当よ。ほら、見てよ。この可愛いモミジのような手。全然擦れてないでしょ」

 由美は両手を広げて弘一の前に突き出した。

「じゃ、これも俺が第一号だな」

 弘一はそう言うと、由美の手をやさしく握る。

 由美の体に一瞬熱い血が駆け巡った。もちろん男の手を握るのが初めてではないことは分かってはいるが、いつもおとなしい弘一の突然の行動に驚いたのだ。

 由美の口から言葉が出なかった。ただびっくりして、そのまま弘一の顔を凝視していた。弘一も何も言わない。時間が止まったのではないか、と由美は思っていた。

 普通のラブストーリーであれば、二人はこの後目を閉じて、自然と唇が重なり合う。そしてそのまま二人は倒れこみ……となるのであろうが、そうは問屋が卸さない。

 弘一はさっと手を引くと、くるりと後ろを向いてしまった。

「さ、行くぞ。みんな待ってるよ。それとも飲みすぎて出来上がってるかな」

 弘一はそう言うと、ゆっくりと歩きだした。しかし由美は両手を握りしめたまま、動くことができなかった。まるでロウ人形の状態だ。

「どうしたんだよ。おいて行くぞ」

「うん……。ねえ、弘ちゃん。私の好きな人のこと訊いて、どうするつもりだったの」

「別にどうもしないよ。ちょっと訊いてみただけさ」

「それだけ?」

「由美に話したいことがあったけど、もういいや」

「何よ、そんな中途半端な言い方はやめて。言いたいことがあるんだったら、はっきり言ってよ」

 由美は真剣な顔で語気を強めて言った。

 弘一はゆっくりと背中を向けた。そしてしばらくの間をおいて、

「その、お前が惚れた男とうまくいけばいいな。俺も何とか力になってやるよ」

 と、優しい口調で言った。

「――弘ちゃん、私は……」

 由美は静かに話しかけようとした。しかしその声は小さく、たまたま打ち寄せた波の音にかき消され、弘一の耳には聞こえていなかった。

「頑張れよ。――さ、行くぞ」

 弘一はそう言うと、一人で先に歩き始めた。今度は後ろを振り返ることもせず、そのまま歩き続けた。

 少し間隔をおいて歩いていた由美は、友人たちのグループの近くまで来ると、その輪の中でカメラのフラッシュが瞬いているのが目に映った。

「もう……」

 由美は砂浜に落ちている石ころを蹴飛ばしながら、「つまんない……」

 そう呟いて、グループの輪の中に戻って行ったのだった……。


 


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