その七
(七)
「どうしよう……。やっぱり警察に知らせたほうがいいのかしら」
「いや、もう少し待ってみよう」
「それにしても遅いわ。何かあったのかしら」
由美のワンルームマンションの部屋に、重苦しい空気が漂っていた。信二のアパートから大急ぎで由美のマンションにたどり着いた三人は、犯人からの電話を待っていた。
しかし一向に犯人からの電話はなく、ただ緊張感とも悲壮感ともいえる雰囲気の中で、まんじりともせず電話が鳴るのを待っていたのである。
「ビールでもないかな」
賢介が呟くように言った。
「何言ってんだよ、こんな時に」
「こんなときだから言ってるんだよ。素面でいるより少しアルコールが入っている方が、勇気も度胸も湧いて来るんだよ、俺」
「ビールならあるわよ。いつも冷蔵庫の中にストックしてあるの。私も付き合うわ」
由美はそう言うと、冷えた缶ビールを三本出してきた。
「信二さんも少し飲んだ方がいいんじゃないの」
「俺はいいよ。今日は景子と二人で飲みたかったんだ」
信二は下を向いたまま、両手を頭の上に乗せて考え込んでいた。
由美と賢介は一気にビールを呷った。二人ともザルと言われるほどアルコールは強い方なのだ。
時折三人は電話機を凝視していた。
「最初に犯人から電話があったのは何時ごろ?」
賢介が由美に訊いた。
「そうね、十時過ぎくらいだったかしら。もう二時間以上は過ぎてるわね」
「しかし逆算してみると、誘拐されたのは信二のアパートを出てすぐだろ」
「たぶんそうだと思う」
信二は相変わらず頭をかきむしっている。
「ということは、八時過ぎ。もう四時間以上は経っていることになる。――知らない者の行きずりの犯行かな」
「そうじゃないと思うわ。私や信二さんのこと、景子に訊いたとは考えられないの。彼女、そんなおしゃべりじゃないもの」
「じゃ、知ってる者の犯行か。待ち伏せしてたのかな」
「そうとしか考えられないいよ」
信二が頭から手を離して言った。
「一体誰が……」
「それが分かれば苦労はしないわよ」
「電話の声は聞いた事なかったのかい」
「電話じゃ分からないわ。私も突然でびっくりするし、相手の声を分析するなんて……」
由美は立ち上がってカーテンを開き、窓を開けて下を覗いてみた。もしかしたら電話ではなく、ここに来るのではないか、と思ったからだ。
「雨……まだ降ってるわ」
由美は考えていることとは違うことを言った。
「他に電話とかなかった?」
と、賢介が訊く。
「他には……。弘ちゃんから電話があっただけよ」
「弘ちゃん?」
「信二さん知らないかな、片瀬弘一さん。私の大学の先輩なの。景子も何度か会ったことがあるわ」
「由美ちゃんの彼氏?」
賢介が意地悪っぽくそう訊いた。信二は現在由美に恋人がいないことを知っていた。
「そんなんじゃないけど……。頼りにできる兄貴、ってとこかな。一応先輩なんだけど、仲のいい友達なの」
「景子も知ってんの?」
「少しは知っているはずよ。私ほど仲良くしてたわけじゃないけどね。さっきも景子のこと相談してみたの」
「何か知ってた?」
「彼は何も知るはずがないわ。彼と景子は個人的な付き合いがあるわけでもないし。でも彼は体力もあるしケンカも強そうだし、犯人と揉める時なんか役に立つんじゃないかな」
と、由美は誇らしげに言った。「一見冷たそうなタイプなんだけど、私が困っている時はいつも助けてくれるの」
「由美ちゃん、好きなんだ、その彼のこと」
「うーん、そんなんじゃないけど……。私も分かんない」
由美は何か考え込むように宙を見つめていた。
自分自身の気持ちも分からなかったが、由美から見た弘一の気持ちもはっきりしなかった。確かに由美には優しくするし、何でもよく協力してくれた。しかし二人の間では、恋愛じみた話など今までしたことがなかった。そして由美が弘一に対して口癖のように言っていた言葉が、「信二さんのことが好きなの」だった。まさか弘一がその言葉を信じているとは思っていなかったのである。
突然現実の世界に引き戻されるように、電話の着信音が鳴り出した。一瞬部屋全体の空気が凍りつき、三人の身体がピクリと動いて目が合った。
由美は緊張のあまり、すぐには携帯電話を取り上げられない。賢介に促されて、ようやくその手に取った。
開いてみると、画面に表示された、片瀬弘一の名前がそこにあった。
安堵のため息と共に、由美は通話ボタンを押す。
「何してんだよ。俺だよ」
「もう、弘ちゃん、びっくりさせないでよ」
「驚くことないだろ。どうしたんだよ」
弘一は笑うように言った。
「弘ちゃんの話しをしてたとこなの。噂をすれば影ってとこね」
「誰か来てるのかい」
「今、信二さんが来てるの。ほら、さっき景子のこと話したでしょ、行方不明だって。あの後景子を誘拐したって脅迫電話があったの」
由美が信二に視線を送った。信二は電話の相手が犯人じゃないと分かると、ため息と共にまた両手を頭の上に乗せた。
「それで、犯人は何だって?」
「景子のことは何も言わないんだけど、信二さんのことばかり訊いて、信二さんを私の部屋に連れて来いって。ただそれだけだった」
「それで信二さんが来てるのか。それから?」
「また後で電話するって言ってたけど、まだないの。三人でずっと待ってるんだけど」
「三人で? 他に誰かいるのか?」
弘一は意外そうな言い方で訊いた。
「そうよ、ボディーガード。タイミングよく信二さんのアパートに友達が来てたの。とても逞しくて頼りがいがあるから一緒に来てもらった。助かるわ」
由美は賢介の肩をポンと叩きながらそう言った。
「何だよ、てっきり二人でいるのかと……」
弘一は呟くように言った。
「何よそれ、どういうこと? ――弘ちゃん、信二さんが来てること知ってたの?
「いや、そういうわけじゃ……。あのさ、実は俺も景子ちゃんのこと気になってて、一緒に捜そうかな、なんて思って――」
その時、電話の向こうで、ガシャンという大きな物音がした。そして弘一の話も途切れた。
「もしもし、どうしたの。弘ちゃん……」
由美は不穏な雰囲気を気にしながら、何度も電話の相手に呼びかけた。
「もしもし、弘ちゃん? もしもし……」
手の痺れは少しは良くなっていたが、両手のロープから解放されても、しばらくは腕に力が入らなかった。何とか足のロープも解いておかなければ、いざというときに逃げられない。
両手を振って少し感覚が戻ってきたところで、足のロープも自分で解いた。かなりきつめに縛ってあったようで、ロープの痕を手でさすってみると、でこぼこに痕が残っていた。
三十分ほど経っただろうか。暗い部屋の中に一人でいる景子は、ベッドの上に座り、考え事をしていた。これからの作戦である。
このままここにいても、どうしようもない。何とかこの家の中を調べたかったが、物音を立てて見つかれば、何をされるか分かったものではない。
景子はおもむろに立ち上がり、ドアに近づいた。そして音がしないようにドアのノブをしっかり摑み、静かにドアを少しだけ開けてみた。廊下の眩い明かりが部屋の中に差し込んだ。目の痛みに耐え、瞼に力を入れる。そして細く目を開けて部屋の中を見回した。
さっき男が入って来たときにはよく分からなかった部屋の様子が、今度ははっきりと確認することができた。
部屋の広さは六畳くらいだろうか。ドアとは逆の方にある壁に窓がある。もちろんカーテンは引かれていた。その下にベッド。横には小さなドレッサーが置かれ、部屋の真ん中に丸型のガラスのテーブルがあった。
部屋の中はきちんと整理されている。景子のハンドバッグはテーブルの上に置いてあった。
景子は改めて自分の姿をドレッサーの鏡で確認した。正面から、横から、そして後姿を振り返りながら自分の姿を見た。乱暴されたような形跡はなかった。服もちゃんと着ている。裸にでもされていたら大変なことだ。
景子は自分の身体が犯されていないと分かると、ひとまず安堵感で胸をなでおろした。
「とにかく、ここでじっとしてても始まらない。どこか逃げる場所は……」
景子はまずカーテンを開けてみた。窓を少し開けて下を覗いてみたが、やはりここは二階で、窓の下には足をかける場所もない。もちろん飛び降りる勇気などあるはずがない。骨折だけではすまないだろう。
窓とカーテンを閉めてドアまで歩くと、顔を少し廊下の方に出してみた。
二階の一番奥の部屋だった。景子がいる部屋から廊下の突き当たりにある階段までの間に、別に二つの部屋があった。両方の部屋のドアは開け放たれ、人がいる気配はなかった。
景子は足音を忍ばせて歩き、その二つの部屋を覗いてみた。しかし何も置いてなく、ただ空間が広がっていた。
ここがどこなのか、そしてあの男が誰なのか、少しでも探ってみたかったが、明らかになるような物は何も無かった。
景子は階段の降り口まで来ると、下を窺ってみた。階下は廊下になっていて、階段の前に和室らしい障子の引き戸があった。その障子がほんの少し開いている。明かりは灯っていたが、人がいるかは分からない。
しばらくその場に立ち竦み、じっと階下の様子を窺っていた。すると、その障子に人影が映ったのである。まさかこっちに来るのでは、と景子は慌てて部屋に戻った。
しかし誰も上がってくる気配はない。しばらくして、景子はまた、階段の降り口の所まで来た。そして再び下の様子を窺った。
景子の額から冷や汗が流れ始めていた。相変わらず障子は少し開いたままだ。
景子は一か八かの賭けに出ようと思った。階段を降りてみることにしたのである。 足音をしのばせ、恐る恐るゆっくりと階段を降りていく。途中まで来たところで、身体を前傾姿勢にして、頭を低く下げて和室の中を覗こうと試みた。
やはり誰かいるようである。何か酒でも飲んでいるのか、時折カランという氷がグラスに当たる音が聞こえていた。
景子は思い切って下まで降りてみた。しかし右側は壁で行き止まりになっているし、左はどこかの部屋のドアがあるだけだ。外に出るには、この和室を通らなければいけない構造になっているようだった。
緊迫した空気が景子の頬を撫でた。その時、和室の中から男の声が漏れて来た。
男の声は大きくなかった。優しく語りかけるような口調だ。
しかし今の状況に置かれている景子にとっては、口の中から心臓が飛び出しそうなほど大きく聞こえたのである。
口の中に詰まった心臓のおかげかどうか分からないが、驚いて出そうになった声も止まり、和室の中の男に気づかれずに済んだ。
景子は激しく動悸する胸を押さえ、男の声を聞いていた。
他に人がいるのではなく、電話で話をしているようだった。怖い男の声ではない。普通の男の、優しい語り口調だった。
景子は耳を凝らして聴く。そして……。
男が呼びかけている名前は、ユミ。――ユミ?
それに、この声、聞いたことある。確か……。
片瀬さんだ!
景子はこの男が同じ大学の、しかも由美と仲良しの片瀬弘一だということに気づいたのである。
その時、景子の身体は自分の意思とは裏腹に、咄嗟に動き出した。
障子の引き戸を思いっきり開け放つと、和室の中に飛び込んだ。しかし、たまたまそこに置いてあった食事の後の食器の山に足を取られてしまった。
ガシャンという大きな音と共に、弘一が振り向いた。
景子は転倒し、その場に転がった。弘一が自分を見ている。景子も弘一の顔を凝視していた。
弘一の手に、携帯電話が握られている。景子は俊敏に起き上がり、弘一の手から携帯を奪い取った。
弘一は突然のことで動きが鈍くなっていた。そして景子は電話機に向かって大声で叫んだのである。
「由美! 私よ、景子! 助けて!」
景子はその後どうなるか、考える余裕がなかった。ただ、この一本の電話に救いを求めるしか方法がなかったのだ。
「ここがどこだか分からないけど、海の近くの家にいるわ。別荘みたいなところ。片瀬さんが私を――」
弘一がにじり寄って来ると、いきなり携帯を取り上げた。そしてすぐスイッチを切ってしまった。
弘一は景子を見下ろしていた。景子も弘一を睨みつけている。しばらく二人の口から言葉は出なかった。
景子の中の恐怖心はもう消えていた。犯人が弘一だと分かったせいか、由美に助けを求めたからかは分からない。ただ開き直っただけかもしれない。
「あなた、片瀬さんよね。由美の――」
「何も言うな」
「でも私が知っている片瀬さんじゃない。私が知っている片瀬さんは、こんなことする人じゃない。もっと男らしくて優しくて、人を傷つける人じゃなかったわ」
景子は透き通るような真っすぐな声で言った。倒れていた身体を起こし、壁に背をつけて座る。
「どうしてこんなことするの?」
「一人でロープ解いたのか」
「そうよ。あんなもん簡単よ。――片瀬さん、一人? 他に誰かいるの?」
「見ての通り、俺一人さ」
「確か、最初三人でいなかったっけ」
「二人はもう帰した。あいつらには迷惑かけたよ。巻き込むつもりはなかったんだけど、どうしても一人じゃね」
「でも、共犯よね」
景子の言葉に、弘一は一瞬言葉を詰まらせた。
「どうして君を誘拐したのか、あいつらは知らないよ。あいつらを責めないでくれ」
「なんでこんなことするの?」
弘一はその場に座った。そしてテーブルの上に置いてある水割りの入ったグラスを掴むと、一気に飲み干した。
景子は弘一が何も言わないでその場に座っているのを、横から見ていた。そしてテーブルの上に視線を移した。
そこには水割りのグラス、携帯電話、そしてその横に、数枚の写真が置いてあった。
弘一はその写真に視線を落としている。ただ無表情にその写真を見つめていた。
「それ、誰の写真なの。何か……」
景子は背筋を伸ばし、写真を覗こうとした。
「見たいんだったら、見せてやるよ」
弘一は三枚の写真を手に取ると、景子の前に投げ出した。そして自分で水割りを作り始めた。
「この写真、由美じゃない。大学生の時の写真よね」
「君も写ってるだろう」
その中の一枚は集合写真だった。大学時代の遊び仲間で、十人くらいは写っている。一番右端に由美と景子が並んでいる。そして一番左端に弘一が写っていた。
そして一枚は由美のシングル写真。もう一枚は弘一と由美が笑顔で肩を組んでいる写真だった。その写真では二人とも屈託なく笑っている。何の不安も心配もない、明るい笑顔だった。
しかし今の弘一の顔には、明るい表情もなければ、精気さえ感じられなかった。
「どうしてこの写真を……」
景子は弘一の表情を窺いながら訊いた。
「三年前の写真だよ。みんなでキャンプに行ったじゃないか。憶えてるか」
「ああ、あの時の。――楽しかったわ、あの頃は」
その写真は、大学の遊び仲間と海でキャンプをした時の写真だった。由美の誘いに集まってきた仲間たちである。
「ここの近くのキャンプ村さ」
「ここの近く? じゃあ、ここは……」
「そう、俺んちの別荘さ。といっても俺のじゃなくて、親父の別荘だけどね」
弘一は鼻先で笑うように言った。
「どうしてこの写真を……。片瀬さん、もしかして由美のこと……」
「そうさ、初めて会った時から一目惚れだったんだ。このキャンプで本気で火が付いた。でも……言えなかったんだ。ずっと」
「どうして? アタックしてみればよかったじゃない。由美だって、もしかしたら――」
「知ってるんだよ。あいつには好きな男がいる」
「誰よ。私は知らないわ」
景子には思い当たる節はない。由美は心配事や相談事があれば、一番に景子に相談してくれていたのだ。
「片瀬さんの思い違いじゃないの。好きな人がいたら私に相談してくるはずよ」
「君には相談できないはずだ」
「どうして?」
「由美が惚れているのは、君の彼だ。信二さん、っていうのかな」
「――まさか!」
「本当だ。いつも言ってるよ」
「ハハハ、ばっかみたい。そんなの嘘よ。由美が信二さんを好きだなんて」
景子は呆れるように、笑いながら言った。
「あいつは俺には嘘は言わないよ」
「でも、それとこれとは関係ないでしょ。どうして私がこんな目に遭わなきゃならないの」
「すべて俺の計画はメチャクチャだ。君のロープは解けるし、電話には飛びつくし。由美の部屋には男が二人だ。――もう終わりだ」
弘一は両手で頭を抱え、テーブルにゴツンゴツンと打ち当てた。
「俺は、由美が……君が……」
弘一の声は言葉にならなかった。そして額が割れるのではないかと思うほど、テーブルに叩き付けていた。
景子はどうすることもできず、ただその様子を見ていることしかできなかった……。