その六
(六)
波が岩場に打ち寄せる音が間歇的に聞こえている。大きな波ではない。小さな波が、優しく岩肌を撫でるように打ち寄せていた。
他に聞こえるものは何もない。
ここがどこか海岸沿いの家の一室らしいことは分かる。しかしその部屋は、真っ暗闇で何も見えなかった。
部屋のどこかに寝せられている。ベッドだろうか、ソファーだろうか。柔らかい感触が全身に伝わっていた。
「ここはどこなんだろう……」
景子の頭と身体には、何となく痛みを伴う痺れが走っていた。
今まで眠っていたのだろうか。どこから記憶がなくなっているのか全く分からない。自分が置かれた状況が把握できないのだ。
部屋の窓には分厚いカーテンが引かれ、明かりはどこからも入っていなかった。ただ闇の中に、景子の吐く息と波の音が繰り返し流れているだけだ。
景子は起き上がろうとした。しかし体が言うことをきかない。全身が痺れているせいだろうか。景子は手足を少し動かしてみた。
しかし手足は、景子の命令に従わなかった。手首と足首を、何かロープのようなもので縛られていたのである。
景子は身動きができなかった。
「何で私がこんな目に遭うんだろう……」
どうしても景子には理解できない。
とにかく今までの状況を思い出してみよう。
「そうだ、信ちゃんのアパートを飛び出して、公園の前で誰かに……」
暗い部屋の一点を見据えて、回顧していた。
――ワゴン車に押し込まれた景子は、抵抗むなしく拉致されてしまった。
急発進した車の中から信二の姿を見つけたとき、景子は信二と目が合ったような気がした。しかし外からでは雨も降っていたし、車のライトを浴びた信二の目に、車内の様子など分かるはずがなかったのだろう。
「私をどうするつもりなの」
景子は身体を縮め、震える声で言った。
「どうもしやしねえよ。余計なことは訊くな」
左にいる目つきの悪い男が、窓の外を見ながら言った。
「どうもしないって……どこに連れて行く気なの」
「さあね、俺は知らねえよ」
「あなたたちは一体何者なの? 何の目的があるの? ねえ、教えてよ」
景子の声が次第に大きくなっていった。
両隣にいる男二人は、まったく面識がない人間だ。景子の目が、運転席の男の後頭部を見ていた。
「あなたは誰? 顔を見せてよ」
景子はそう言うと、運転手の肩に手をかけようとした。
「おっと待ちな。そんなことしちゃ危ねえじゃねえか。事故って死ぬのはごめんだぜ」
両隣にいる二人の男に、景子の身体は引き寄せられた。
「おとなしくしてないと痛い目に遭うよ。そうなってもいいのかい、景子ちゃん」
左の男が優しい口調の中にも、威圧するような声でそう言った。
「――どうして私の名前を知ってるの? なぜ私を……」
景子の顔に戸惑いの色が浮かんだ。なぜ自分の名前を知っているのだろうか。
車は繁華街に差しかかろうとしていた。今日は土曜日だというのに、繁華街を歩く人は少なかった。急に降り出した雨のせいかもしれない。
景子は虚ろな目で外を見ていた。逃げる隙はないのだろうか。
車が繁華街のメインストリートの信号で止まった。赤信号である。車の横を数人の若者が歩いていた。景子の両隣にいる男たちは、それぞれに窓の外を眺めていた。
景子は男の虚をついて車のドアを開けようとした。ドアが半分ほど開いたのだ。
「助けて! 助けてください! 誰か助け――」
景子は大声で助けを求めた。
横を歩いていた若者たちが振り向いた。そしてその中の一人がワゴン車の方に一歩踏み出したとき、車は急発進した。信号はまだ赤だった。
「バカヤロー! 何しやがるんだ。てめぇ殺されたいのか!」 景子の身体は再び二人の男に押さえつけられていた。
「やめて! お願いだから助けて下さい!」
景子は発狂寸前だった。大きく身体をゆすりながら、車の中でわめき散らしていた。とにかくこの場から開放されたい、自由にしてほしい、早く信二のアパートに帰りたい。ただそれだけを願っていた。
「おい、どうする。やっちまうか、あれ――」
左の男が運転席の男に訊いた。景子の身体を押さえながらだ。
「そのほうが手っ取り早いんじゃないか」
右の男も同調していた。
運転席の男はしばらく黙っていたが、景子の状態をバックミラーで確かめると、
「――やれ」
と、一言だけ言った。
左の男がカバンの中をかき回していた。そして中から何やら怪しげなものを取り出す。
異臭がしていた。車の中に薬品の臭いが漂いだした。
男はその薬品をハンカチに含ませると、いきなり景子の顔に押し当てた。
ツーンとした臭いが鼻腔を貫く。
「やめて! やめてくださ……」
口と鼻の上に強く押し当てられたハンカチのせいで、それ以上言葉が出せなかった。
景子は懸命にもがいてみたが、手足の先から力が抜けていく。男の服を摑んでいた手も、少しずつずり落ちていった。そして次第に意識が薄らいでいくことが、景子には分かった。
全身の力が抜けた。目を開けることもできなかった。
男たちが何かを話している声が、かすかに聞こえるだけだった……。
「――薬が効いたようだぞ」
「眠ったか」
「ああ、もう大丈夫だ。しばらく目を覚ますことはないだろう」
「少し窓を開けろよ。こっちまで眠くなったら大変だ」
「それよりさっきこの女の声を聞いた奴ら、何か気がついたんじゃないかな。こっちを見てたぞ」
「車のナンバー、憶えられてないかな」
「大丈夫だよ。そんな暇なかったさ」
「それよりこれからどうするんだよ」
「警察には捕まりたくないからな」
「今から海岸沿いの別荘に運ぶ。お前らはそこまででいいよ。悪かったな、協力してもらって」
「この女、どうするんだ」
「お前らは気にしなくていい。別に殺したりはしないし。この女が目を覚ましたら話をしたいだけだ。彼女も分かってくれると思う」
「これだけでも犯罪なんだぞ。誘拐罪。分かってるのか」
「結果的にはそうはならない。いや、ならなくなるんだ」
「どういうことだよ。俺たちも片足突っ込んでるんだぞ。知る権利があるんじゃないか」
「だから……明日になればすべてが終わる。話はそれからだ」
「俺は知らねえぞ。とにかく別荘までだ」
「ああ、心配するな。へんなことにはならないさ」
ワゴン車は海岸沿いの国道を走っていた。繁華街から一時間もかからないところだ。海が街から近いこともあるが、ワゴン車もかなりのスピードを出していたので、割と早く海岸沿いに来たのである。
景子の耳に男たちの話し声が聞こえていた。しかし意識が切れ掛かる寸前である。どの男がどの台詞を話しているのか、全く分からなかった。話の内容を整理する力もなくなっていたのだ。
景子の消えかかる意識の中に、一本のキャンドルが浮かんでいた。そのキャンドルを挟んで、信二と景子が見つめ合っている。二人とも笑顔だった。幸せそうな微笑だった。
信二の誕生日を二人で祝っている光景であった。
景子は至福の笑みを浮かべながら、なぜか目から涙がこぼれていた。
幸せな光景が霞んで来たのは、自分の涙のせいなんだ。私はこんなに幸せなのに、どうして泣いているんだろう。そんな不思議な涙を流しながら、景子は深い闇へと落ちて行ったのだった……。
足音が聞こえて来た。階段を上がる足音のようである。
ということは、ここは二階なのだろうか。
廊下を歩く音に変わった。そしてその足音が近くなって来たとき、ピタリと音が止んだ。
景子の身体が一瞬ピクリと動くと、恐怖感が膨らんでくる。身体中の筋肉が、少しずつ硬直していくのが自分でも分かった。
足音が聞こえていた方向に神経を集中させると、突然ドアが開いた。
眩い明かりが景子の目を刺激した。長い時間暗闇の中にいたせいで、廊下の電灯の明かりもまぶしく感じられる。
目を閉じると、その刺激が脳まで走り、微かな鈍痛を覚えた。
景子はそこに人の気配を感じた。ドアのところに誰かが立っているのだ。
少しずつ瞼を開けてみた。しだいに光に慣れていく。そして、ドアのノブを摑んだまま立っている男の姿を見た。
しかし男の後ろにあるライトのせいで、その姿はシルエットになっていた。男は動こうとしない。ただじっと景子の姿を見下ろしていた。
顔が分からないその男に、景子は小声で問いかけた。
「あなたは誰? ここはどこなの……」
男は返事をしなかった。ただじっと景子を見ているだけだ。
「私をどうするの。お願いだから返事をして下さい」
「心配することはない。しばらくここにいてくれればいいんだ」
男は小さな声で言った。
「あなたは誰なの。私のこと、知ってるんでしょ」
「――君は綺麗だ。とても素直で優しくて、僕の恋人にしたいくらいだ」
男の声は、哀しげな口調だった。
「話をはぐらかさないで。そんなことを訊いているんじゃないわ」
「君の恋人が羨ましい。できれば代わりたいものだ」
「――彼を知ってるの? 信二さんのこと、知ってるの?」
「彼は幸せ者だ。でも一人だけ幸せになったら不公平なんだよ」
「一人だけじゃない。私だって幸せよ」
「そうじゃない。世の中不幸な人がたくさんいる」
「私たちに関係ないじゃない。それになぜ私をこんな目に……」
しばらくの沈黙が続いた。男は中に入ろうとせず、下を向いたまま動かなかった。
「手足は痛くないか」
「痛いわよ。早く解いてくれないかしら」
「それはできない。もう少しの辛抱だ。我慢してくれ」
「もう少しって何があるの。それに何の目的があるの」
「もう少しの辛抱だ」
「私、あなたの声、聞いたことあるような気がする。あなたは、もしかしたら……」
景子がそう言うと、男は一瞬ギクリとした表情を見せた。そしてクルリと背を向けると、ドアを閉めて出て行ってしまった。
景子の耳に、男が階段を降りて行く音が聞こえていた。そして部屋にはまた暗闇が戻った。
「やっぱり私が知ってる人だ。あの驚きよう、普通じゃない。でも、どうして……」
景子はそう考えながら、自分の記憶を辿っていった。
確かに声には聞き覚えがあった。そして体つき……。あの男に間違いない。しかしなぜあの男が自分を誘拐したのか、見当もつかない。
景子はベッドから、縛られている両足を下ろすことができた。そしてその反動で上半身を起こした。頭から血が下がって行くのが分かる。一瞬立ち眩みのような感覚が頭の中で渦巻いた。
手足のロープが解けないか、自分で身を振り、両腕を互いに動かしてロープを解こうとした。かなりきつめに縛ってあるようだが、景子の若くて柔らかい四肢は何とかそのロープから逃れることが出来るような気がしていた。
懸命にもがく両腕。手足に食い込むロープ。今にも手首がちぎれそうな痛みがしていたが、次第にロープが緩んで来た。もう少しだ、と勢いを込めて右手を引き抜いた。
痺れるような衝撃と同時に、両腕がロープから解放されたのだ。
景子の両手は痺れていた。その痺れた両手に勢いよく血が駆け巡っていて、痛いほどだった。
大きくため息をつくと、両手の感覚が甦るのを静かに待ったのである。