その五
(五)
テーブルの上に置いてある灰皿に、タバコの吸い殻が山のように溜まっていた。
ムシャクシャして来ると、本数が増えてくるのが信二の悪い癖だ。景子がタバコの臭いを嫌がるので、いつもはあまり吸わなかったが、景子がいなくなったことで、精神的に落ち着かないのだ。
景子がアパートを飛び出してから、数時間が経とうとしていた。
信二は知っている限り、彼女が行きそうな所に電話を掛けまくった。近所も公園から路地裏、人の家の庭から、屋根の上(もちろん、そんなところにいるとは思わなかったが)まで探し回った。
しかし、どこにも景子が姿を見せた形跡は見当たらない。
信二は景子が絶対にアパートに帰って来るはずだ、と自分に言い聞かせ、作ったあった料理にも手をつけず、一人寂しくアパートで待つことにしたのである。
どこかにやけ酒でも飲みに行こうと思ってみたが、もし、景子が帰ってきた時、自分がいなかったら、それこそ大変なことになる。
信二は冷蔵庫から、缶ビールを一本取り出してきた。景子が今日のパーティーのために買って来たビールだ。
一口飲んだ信二は、テレビのスイッチを入れ、チャンネルをあちこちと変えてみた。しかし今の信二には、何を見ても面白くない。
「つまんない番組ばかりじゃんか。何か面白いのやってないのかな」
と一人、ふてくされていた。
テレビの下を見ると、例のDVDが転がっている。信二はおもむろにそれを拾い上げると、そのままデッキに差し込んだ。そしてリモコンのスタートボタンを押してみる。
画面には、いきなり女の子の裸体がどアップで映し出された。そしてなまめかしい声が、部屋中に広がった。
信二はそのシーンを見ながら、興奮するどころか、逆に怒りがこみ上げてきた。
「クソーッ、面白くねえ!」
信二は手に持っていたリモコンを放り投げた。その拍子に、テレビの電源が切れてしまった。
部屋の中は、静寂だけが重苦しいくらいに残っていた。
信二は缶ビールを摑むと、一気に飲み干した。外からは、雨の音が絶え間なく聞こえていた。
しばらく考え事をしていると、その雨音に混じって、アパートの階段を上がってくる足音がしていることに気がついた。その足音が、ゆっくりと信二の部屋に近づいて来るのが分かる。
「まさか……」
信二が廊下の方に耳を傾けると、部屋の前で足音が止まった。
そして部屋のドアが、二度ノックされたのである。
信二の顔がほころんだ。
「景子……景子か!」
信二は駆け出すと、勢いに任せて思いっきりドアを開けた。
鈍い衝撃音がした。ドアが何かに当たったらしい。信二は心配そうにドアの外を覗いてみた。
「――痛えな! いきなり開けるなよ……」
男が額を押さえて、しゃがみこんでいた。
「何だ、賢介か。どうしたんだよ」
「どうしたんだじゃないだろ。お前がいきなりドアを開けるから……。痛ってぇ」
ドアに頭をぶつけたのは、信二の会社の同僚である、斉藤賢介だった。会社内でも一番の仲良しで、今ではお互いに親友と認め合うほどの仲である。
賢介は体格ががっしりとしているスポーツマン。いや、武道家というべきか。空手、柔道、ボクシングもやっていたらしい。どちらかといえば軟弱なタイプの信二には、理想的な相棒でもある。
「いやぁ、ごめんごめん。ちょっと訳ありでさ。ま、そんなとこ突っ立ってないで中に入れよ」
「言われなくたって入るさ」
賢介は信二に促され、痛い思いで部屋に入ることになった。
「あれ、一人か。彼女はどうしたんだ? 今日は一緒にいるんじゃなかったっけ」
「それが分かってて、どうしてここに来たんだよ」
「何だよ、その冷たい言い方。今日はお前の誕生日なんだろ。彼女と一緒だって言うから、差し入れを持って来てやったんだよ。プレゼントを兼ねて。もちろんすぐ帰るさ」
賢介は、頭をぶつけた拍子に落としてしまったビニール袋を拾い上げた。中には缶ビールとウイスキーが入っている。
「ほい、プレゼント。ビールはまだ開けない方がいいな。部屋中泡だらけになる」
信二はプレゼントに貰ったビールを冷蔵庫に入れると、景子が買って来たビールを二本出して来て、一本を賢介に渡した。
「さ、これで乾杯だ」
「あれ、彼女は?」
「いないよ……」
「何で? だってこの料理、彼女が作ったんだろ。どこか出かけてるのか」
賢介はそう訊くと、缶ビールのふたを開け、喉を鳴らしてうまそうに飲んだ。
「それがさ、ちょっとケンカになっちまって、出て行ったっきりどこに行ったか分からないんだよ」
信二もビールを飲みながら言った。
「自分の家に帰ったんじゃないのか」
「それが家にも帰ってないらしい。友達のところも電話してみたんだけど、行方不明なんだ」
「そりゃ心配だな。――ところで、何でケンカしたんだよ。浮気がバレたのか」
賢介はニヤッと横目で見ると、からかうように言った。
「何言ってんだよ。俺が浮気する男だと思ってんのか」
「あれ、しないのか?」
「当たり前じゃないか。俺がそんなことする度胸がないってこと、お前が一番よく知ってるだろ。――これだよ、これ」
信二は例のDVDを、賢介の前に差し出した。そしてタバコを一本取り出すと、百円ライターで火をつけた。
「何だ、こんなことでケンカか。くだらねえな、このくらいで。これがここにあったから怒っちゃったわけ?」
「その通り。俺も隠しとけばよかったんだよな。忘れてたんだよ」
「でも、お前も悪いよ。今日は二人っきりのパーティーだったんだろ。こんなもんがあったら彼女だって怒るよ。今どき珍しい純情な娘なんだから。少しは彼女のことも考えなきゃ」
賢介は空になったビールの缶を右手で振りながら、信二におかわりの催促をしていた。
「しかし景子が出て行ってからかなり時間が経つし、そこまで怒るような奴じゃないんだけどな。たぶん由美ちゃんの所には連絡が行くと思うんだけど、後でまた電話してみようと思ってるんだ」
信二の声は、次第に小さくなっていった。
「ま、いいじゃないか。今日は俺たち二人だけでバースディパーティーやろうぜ。男だけってのもたまにはいいもんだぜ。なんなら俺が彼女になってやるよ。ネェ、シンチャン」
賢介は横座りになると、信二の肩をチョンチョンと突いて来た。
「やめろよ、気色悪い! とにかく、しばらくここにいていいから、景子が戻ってきたらすぐ帰るんだぞ」
「分かってるよ。とにかく飲もうぜ。――これ、食ってもいいのか?」
と、賢介が、景子が作った手料理に手を伸ばそうとした。
「やめろ! だめだよ、景子のお手製なんだから。お前はそこのあるエビせんでも食ってろ」
信二は賢介の手をぴしゃりと叩くと、語気を強めて言った。信二もまだ手をつけられずにいたし、景子が帰って来てから二人で一緒に食べるつもりだったのだ。
――エビせんをつまみながら、賢介に今日の出来事を話していた。と、信二はサクサクというエビせんが砕ける音の中に、またアパートの階段を上がってくる足音を聞いたのである。その足音は、やはり信二の部屋に向かっていた。
「ほら、聞こえるか。やっぱり帰って来たんだ。今度は間違いないぞ」
信二の目が輝いた。
コンコン、とドアがノックされる音。と同時に、信二は駆け出していた。
「景子か!」
信二はまた、勢いに任せてドアを思いっきり開けたのだった。
また衝撃音がした。
「イターイ!」
再び信二がドアの外を覗くと、今度は由美が額を押さえてしゃがみ込んでいた。
「由美ちゃん……どうしたんだよ」
「どうしたじゃないわよ。信二さんがいきなりドアを開けるから……。イターイ!」
再び同じ言葉が繰り返されたのだった……。
「何だって! 誘拐?」
信二は叫ぶように言った。「だ……誰に……」
「そんなこと分かんないわよ。犯人は自分のこと何も言わないんだもん。ただ一方的に脅迫されて……」
「何て脅迫されたんだ」
「それがさ……」
信二の部屋では豪華な料理を横目にして、部屋の隅で三社鼎談が始められていた。
額に冷たいタオルを当てている由美。缶ビールを右手から離さない賢介。そして、顔面蒼白となった信二の、合同ミーティングとなった。
「景子がどこかに連れて行かれたのは間違いないのよ。ただ、信二さんを私の部屋に連れて来いって。景子と信二さんと、それから私の命が懸かってるんだって。ただそれだけなの」
由美は顔を強張らせながら、信二に向かって言った。
「何で俺を由美ちゃんの部屋に呼ぶんだろう。だって俺のこと知らなかったんだろ」
信二は怪訝な顔つきで言った。自分が何者かに脅かされるようなことがあるとは、夢にも思っていなかったのだ。
「知らない振りをしているだけだと思うわ。だって景子を誘拐して、私のことも知ってて、景子の男っていえば信二さんしか考えられないし。――きっと何か魂胆があるはずよ」
「でも信二が由美ちゃんのマンションに行ってどうなるんだよ」
賢介が二人の間に割って入った。
「そんなこと分からないわよ。でもまた後で電話するって言ってたわ。そこで信二さんに何か要求でもするのかしら」
「要求だって? 俺、金持ってないよ」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ。しっかりしてよ、もう」
由美が信二の肩をパチンと叩く。
「警察に電話した方がいいんじゃないか」
と、賢介は言った。
「待って、早まらない方がいいと思う。私のところにまた電話があるから、それからでも遅くはないと思うの。相手の出方を見てからよ」
由美はそう言うと、両腕を組み深く考えていた。「でも何の目的があるんだろう。本当にお金だったら景子の家に電話するはずよね。どうしてお金持ってない信二さんなんだろ」
「もってなくて悪かったね」
信二は憮然として言った。
「今はそんなの問題じゃないだろ。たぶん誰かに関係してるんじゃないのかな」
「誰かって?」
「たとえば景子ちゃんの前の彼氏とか、今、景子ちゃんに惚れてる男とか。まさか信二に惚れてる女はいないと思うけど、その女に頼まれたとかさ」
賢介は二人を交互に見ながら言った。
「それはどうかな。景子は信二さんと付き合う前は、長い間恋人なんていなかったわ。それに最近だって、景子に近づく男なんて……」
「じゃあ俺か。そんな女いたかなあ」
「それも考えられないよな」
賢介はあっさりと言った。
「余計なお世話。もっとましなこと考えられないのか」
信二は自分ではあまり考えられないのに、賢介だけを責めていた。もちろん信二の頭の中はパニックになっているのだから、仕方のないことではあるが。
「とにかくこんなところでクドクド言ってたって始まらないよ。早く由美ちゃんのマンションに行こうぜ。警察は犯人からの電話の後だ」
賢介が一番に立ち上がる。
「そうね、とにかく行きましょう。さ、信二さん、頑張るのよ」
由美の一言が、信二の勇気を奮い起こした。
そして三人は、由美の車で、マンションへと急いだのだった……。