その四
(四)
繁華街に近い町の一角に、瀟洒な佇まいの五階建てのワンルームマンションが建っている。豪華、とまではいかないが、アパートとマンションの中間ぐらいという程度の造りだ。学生にはちょっと贅沢だが、大金持ちの社長さんが住むようなマンションではない。
独身桃のサラリーマンやOLが、一人で住むのにちょうどいい、近代的なマンションである。
最上階の一番隅の部屋に、田辺由美は住んでいた。
田辺由美、二十二歳。景子とは高校生の時からの友人で、お互い何でも話せる無二の親友だと認め合っていた。高校の時のクラスも三年間一緒だし、大学も同じキャンバスで学んだ。
由美の性格は、明るく活発で、おしゃべりが大好きである。いろんな人とすぐ打ち解けるし、話しもよくできる。だからといって、うるさがられることはなかった。
由美の周りにはいつも多くの人が集まり、老若男女を問わず気に入られた。
どこか一部がいいというわけではないが、一種のカリスマ性みたいなものがあるのではないか、とよく人に言われていた。しかしそんなことは自分では分からなかったし、気にもならなかった。
でも、いつも楽しいはずなのに、一人になるとふっと寂しくなることがあった。悩みもあれば、泣きたいことだっていっぱいある。だが決してそれを人前で出すことはなかった。それが由美の魅力でもあった。
情報塔とよく言われるが、多くの人と話をすれば、否応なく何らかの情報は入ってくるものである。自分の方から訊くのではなく、人が自分に話してくるのだから仕方ない。
「私だって訊きたくて聞いてるんじゃないわよ」
由美はよくそんな風に呟いていた。由美だって本当はセンチメンタルな女の子なのだ。
今日も仕事が終わり、会社の同僚に誘われて、喫茶店でのお茶会に参加した。
若いOLばかりのお茶会は、上司には聞くに耐えない話が多い。会社や上司への不満や、セクハラに関する話題が多くを占めている。
本来はOLたちの仕事の未熟さや、おしゃべりなど、上司からも言いたいことは山ほどあるのだが、逆セクハラだって無きにしも非ず、というところだろう。
二時間程度のお茶会の後、マンションに帰り着いたとき、タイミングよく信二から電話があったのだった。
信二からの電話の後、由美は知っている限りの友人の家や携帯に電話をかけてみた。しかし、どこにも景子が寄ったという情報は得られなかった。そしてコンビニで買って来たお弁当で食事を済ませた由美は、信二からの二度目の電話を待っていたのである。
シャワーでも浴びようか、と由美が立ち上がりかけたとき、携帯の着信音が鳴った。
相手を確認せずに、由美は電話を取ると、前置きもなしに言った。
「信二さん、待ってたのよ。どうだった?」
由美は相手の返事を待ったが、しばらくの沈黙があった。「もしもし……誰?」
「信二さんじゃなくて悪かったな」
野太い男の声がした。「俺だよ、俺。――俺の声、忘れちまったのか?」
「弘……ちゃん?」
由美は不安げに訊いた。
「そうだよ、俺だよ。コーちゃん」
「何だ、びっくりしちゃった。どうしたの、突然電話かけてきたりして」
「何ではないだろ。別に何でもないよちょっと声が聞きたくなっただけさ」
電話の相手は片瀬弘一だった。由美の大学時代の先輩で、二歳年上である。年上の先輩といっても、ほとんど友達状態に近く、何でも話せる仲間、という感じだった。景子のことも少しは知っているが、由美ほど仲良くしていたわけではなかった。
「それより何だよ、いきなり信二さんだなんて。お前、信二さんとよろしくやってんのか」
弘一はぶっきらぼうに言った。
「何言ってんのよ。そんなことあるわけないでしょ。景子の彼なんだから」
「でも、信二さんからの電話、待ってたんだろ」
「うん、それはそうなんだけど……」
「何かあったのか」
弘一は心配そうに訊いて来た。
由美は携帯を片手に冷蔵庫から缶コーヒーを取り出し、部屋の三分の一を占めるベッド兼ソファーに座り直した。
「それがさ、今日は信二さんの誕生日なんだけど、アパートでケンカしちゃったらしいのよ。それで景子が飛び出して、どこに行った分からないの。――まさか弘ちゃん、知ってるはずないよね」
缶コーヒーで喉を潤した由美は、一気にそう話した。
「俺が知ってるわけないだろ。どこか別の男の所にでも行ったんじゃないのか」
「何よその言い方。景子がそんなことするわけないでしょ。あの子はそんな浮気者じゃないし、あの二人は愛し合ってるのよ。私から見ても分かるもん」
「だったら心配することないじゃないか。愛し合ってるんだったらすぐ帰るはずだよ。もう今ごろ帰ってるんじゃないのか」
「まだ分からないよ。だから信二さんからの電話、待ってるのよ」
「だから、まだ連絡ないんだろ。まだ帰ってないんだよな。――それよりお前も信二のことが、好きなんじゃないのか」
弘一はわざと話題を変えようとする言い方で話した。
「――そうよ、好きよ。初めて会った時から好きだったけど……でも、今は景子の彼だし、横恋慕はダメなの」
と、自分に言い聞かせるように由美は言った。
「かまうこたねえよ。友達より男だよ。本当に好きだったら、横取りしてでも自分のものにしたいんじゃないのか」
弘一はあっさりとそう言った。
「何てこと言うのよ。ひどい人ね、あなたって。弘ちゃんがいつもそんなこと言うから、私は……」
由美はそこまで言うと、言葉に詰まった。本当は弘一にもっと言いたいことがあったのだが、言葉に出せなかったのだ。
「分かったよ、冗談だよ。そんなに怒ることないだろ。俺もどこか心当たりを探してみるよ。――後でまた連絡するから」
「お願いよ。何か分かったらすぐ電話してね。じゃ、待ってるわよ」
由美は電話を切ると、ため息をついた。そして残っている缶コーヒーを一気に飲み干すと、
「何で弘ちゃんたら、分かってくれないんだろう……」
と、一人呟いていた。
由美が時計を見ると、午後十時を少し過ぎている。信二から電話があってから、一時間以上が過ぎていた。
外はまだ雨が降り続いていた。まさか事故にでも遭ったんじゃないか、とも心配してみたが、調べる方法がない。景子の実家に電話してみようかとも思ったが、信二も帰っていないと言っていたし、今日は自分のマンションに泊まることになっている。従って、由美が電話をすると、却ってまずいことになってしまう。
ただ信二からの電話を待つしかなかったのだ。
由美は何となくテレビを見ていた。
バラエティ番組で面白そうな内容だったが、頭の中には全く入っていなかった。テレビを観るのではなく、見ているだけである。
由美はテレビを見ながら、景子のこと、信二のこと、そして弘一のことを考えていた。
弘一からの電話があってから、三十分近く経ったとき、また電話の着信音がなった。非通知だ。
由美はボタンを押すと、今度はちゃんと前置きを言った。
「もしもし、田辺ですが……」
今度こそ信二からだと思ったが、電話の向こうはまた沈黙があった。
「もしもし……誰? 信二さん? 弘ちゃん?」
由美は不安げに言った。
「安田景子って女、知ってるか」
突然、男の低い声がした。
「はい、知ってますけど……。あなた、誰ですか?」
「安田景子に男がいるだろう。彼氏だよ、彼氏」
相手の男は由美の問いに答えず、一方的に話を続けた。「その男のことで、ちょっと訊きたい事があるんだが」
「ちょっと待ってよ。自分の名前も言わないで失礼じゃないの。誰よあんた」
由美はこの電話がただ事じゃないと分かったが、相手のペースに乗せられないように気をつけた。
「フッ、元気のいいお嬢さんだ。俺のことはあまり聞かないほうがいいんじゃねえか。人の命が懸かってるんだ。言うことに素直に答えたほうが身のためだ」
男の声はドスが効いていた。
「人の命って誰のことですか。何のことだかさっぱり分かんないわ」
「安田景子とその男。場合によれば、お前の命だって保障できねえな。――その男の名前、何て言うんだ」
「知らないわ」
「どこに住んでいる」
「知らないわよ」
由美は気丈な女である。酔っ払いや暴走族などにからかわれても、常に毅然と対処できる強さを持っていた。
しかし景子の命が懸かるとなれば、そうはいかなかった。
「景子はどこにいるの?」
「さあ、どこかな。それよりお前が景子の男を知らないはずがない。調べはついているんだ」
「知っていればどうなのよ」
「今すぐその男をそこに連れてくるんだ。お前が住んでいるマンションだよ。いいな、今からすぐだぞ」
男は威圧するように言った。
「ちょっと待ってよ。私は……」
「景子が殺されてもいいのか。人の命は大事にした方がいいんじゃねえか」
「何言ってるのよ。それはこっちの台詞でしょ」
「また後で電話する。いいな、すぐに連れて来るんだぞ。分かったな」
男は低く唸るような声でそう言うと、突然電話を切ってしまったのである。
由美はしばらく、静かになった携帯電話を見つめていた。
「何なの、今の……。間違い電話じゃないわよね」
ということは、「景子が誘拐された……」
由美は一人で呟きながら、頭の中を整理しようとしていた。しかし突然の出来事に、頭の中は錯乱状態である。
携帯を閉じた由美は、慌てて服を着替え始めた。パジャマ姿なのだ。
とにかく信二さんに知らせなきゃ……。
由美はジーパンとTシャツだけの、楽な格好でマンションを飛び出すと、最近買ったばかりの軽自動車に乗り込んだ。車で飛ばせば、信二のアパートまで十分くらいでいける距離であろう。
雨はまだ降り続いていた。




