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その三

       (三)


 通りを走る車の数は少なかった。時折客を乗せたタクシーが走り去っていく程度である。国道から少し入り込んだ住宅街は、仕事先から帰宅する車や、タクシーくらいしか走らない。

 今頃は、どこの家庭でも父親が帰宅し、一家団欒の楽しいひと時を過ごしている時間であろう。各家の明かりは灯り、賑やかな笑い声が漏れている家もあった。

「何よ、あんなもん。スケベなんだから」

 景子はアパートを飛び出し、ブツブツ呟きながら歩いていた。

 アパートを出て左に真っ直ぐ行くと、近くに公園があった。大きな公園ではないが、子供用のブランコと滑り台、そして石で作ってあるベンチが設けてあった。

 景子はブランコに腰をかけ、一人で考え事をしていた。

「帰る!」

 と信二に言ったものの、本気で帰るつもりはなかった。

「ちょっと言い過ぎたかな。私もバカよね、あんな事くらいで。やっぱりアパートに帰ろうかな」

 景子はそう考えながら、立ち上がろうとした。

「でも私のこと、探しに来てくれてもいいんじゃない。こんなに近くにいるんだから」

 景子はまた、ブランコに座り直した。

 そんなことを数回繰り返しているうち、雨がぽつぽつと降り出した。

 公園の中には雨宿りする場所はなかった。入り口の前にある商店の軒下まで景子は走ると、しばらくその場で雨をしのいでいた。信二がさっきまで歩いていた道とは逆の方向である。

 しだいに雨足は強くなってきた。

 景子は信二のアパートに帰ることを決心した。アパートに帰って信二にゴメンナサイと言えば、今日は楽しい夜になることも、景子にはよく分かっていた。この雨でも走って行けば、ずぶ濡れになるような距離ではなかった。

 ハンドバッグを頭に載せ、軒下を出ようとした時、突然誰かが景子の腕を摑んだ。

「キャッ!」

 景子が後ろを振り向くと、そこには二十代半ばくらいの男が、景子の腕を摑んで冷ややかに見下ろしていた。

「何するんですか! 放して下さい!」

 景子は真っ青になり、震える声で言った。

「静かにしろ。別に危害を加えるつもりはない。ちょっと一緒に来てくれないか」

 男は無理やり景子の腕を引っ張ろうとしていた。

 近くに黒いワゴン車が停まっていた。そのワゴン車の中からもう一人男が出て来ると、景子に近づいて来た。

「やめて下さい! 放してよ! 誰か……誰か助けて!」

 景子は大声で叫んでみたが、その辺りに人影はなかった。

 雨が地面に叩きつけるように降っていた。その音で景子の叫び声もかき消されていた。

「何ですか……あなたたち。私をどうしようというのよ」

「心配するな。俺たちは何もしねえよ。ちょっと人から頼まれただけだ」

「誰から!」

「それは今は言えねえな。とにかく黙ってついて来な」

 男は冷ややかに言った。

 ヤクザや暴走族風には見えなかったが、体格ががっしりとしているスポーツマンタイプの男だった。車から降りて来た男も、冷たい目つきで景子を威嚇していた。

 ワゴン車は十メートルほど離れたところに停めてある。エンジンは切ってあった。いつから停めてあったのか、景子には分からなかった。

 公園に来たときから停まっていたのか、ワゴン車がそこに停まるのに気づかなかっただけなのか。景子が座っていたブランコからは、あまり離れていなかったのだ。

 いつの間にか、二人の男に両脇を抱えられていた。

「ちょっと、やめて下さい。放して……放してよ!」

 景子は必死で抵抗した。

「静かにしろ。痛い目にあいてえのか」

 最初に声をかけてきた男が、低くドスの聞いた声で言った。

「いいからこのまま車の中に放り込もうぜ」

「その方が手っ取り早いか」

 景子は足をバタつかせ、懸命に抵抗した。しかし所詮は女の力だ。二人の男にかなうはずはなかった。

 ズルズルと引きずられるように、ワゴン車のドアの前まで連れて来られた。三人ともずぶ濡れだった。男が後部座席のドアを開け、強引に景子の身体を押し込む。

「痛い! 分かったわよ。分かったから乱暴にしないで。お願いします!」

 景子は半ば諦めかけていた。誰も助けに来る様子もない。

 車の中を見回すと、運転席にもう一人男がいた。全部で三人である。

 運転席の男は、帽子をかぶり黒っぽいサングラスをかけていた。その男がどういう人物か、景子には摑めない。

「おい、連れてきたぜ」

 スポーツマンタイプの男が言った。

「ああ……」

 運転席の男はその一言だけで、後は何も言わなかった。後ろを振り向こうともしない。

 景子は二人の男に挟まれる形で後部座席に座らせられた。

 目つきの悪い男がドアを閉める。

「これからどうするんだよ」

 景子の右にいる男が訊いたが、運転席の男は何も言わず、エンジンのスイッチを入れた。

「私をどうするの。私をどこに連れて行こうとしてるの」

 景子は哀願した。「お願いだから乱暴なことはやめて下さい」

「うるせえ! お前は静かにしてろ」

 目つきの悪い男が、更にその目を鋭くして低く唸った。

 その時、ワゴン車が急発進して走り始めたのである。

 景子には、何もなす術がなかった……。



 叩きつける雨の音を聞いた信二は、アパートを飛び出すと、公園の方へと向かっていた。左手で自分の傘を差し、右手に景子のための傘を持っていた。

 公園の方に目を向けた信二は、入り口に前に停まっている黒いワゴン車に気がついた。

 そのまま歩き出そうとした時、突然車のエンジンが始動する。そして車のライトが信二の視界を遮った。

 急発進した車の中にいた景子の瞳に、ライトに照らされた信二の姿が映し出された。

「信二さん!」

 景子は大声で叫んだ。「信二さん、助けて! ここよ!」

 身を乗り出して窓を開けようとしたが、二人に男に身体を押さえつけられ、動くことができない。

「無駄なことはやめな。どうせ聞こえねえよ」

 左の目つきの悪い男が、冷たく言い捨てた。

 一瞬目が眩み、立ち止まった信二の横を、猛スピードで黒いワゴン車が走り去った。

 その速さのせいか、信二の身体に、まるでシャワーのような水しぶきが浴びせられたのだ。

「バカヤロー!」

 信二はワゴン車に向かって大声で叫んだ。身体はびしょ濡れである。

 しかし信二が叫び終わる頃には、すでにワゴン車は遠くまで走り去っていた。

 そしてそのワゴン車に景子が乗っていたことなど、信二には知る由もなかった……。


 

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