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その二

       (二)


 「もしもし、今晩は、竹中ですが……」

「あら、信ちゃん。久しぶりね、元気にしてるの?」

「どうもご無沙汰して。――あの、景子ちゃん、帰ってますか?」

 景子が部屋を飛び出してから、一時間近く経とうとしていた。

 すぐ気を取り直して帰って来るだろうと思って待っていたが、一向に帰って来る気配がない。

 信二は携帯電話に登録してある景子の自宅に電話してみることにしたのだ。

「今日は帰って来てないわよ」

 と、景子の母が言った。「何でも友達の由美ちゃんが今日誕生日なんだって。それで泊りがけで、みんなでお祝いするって言ってたわ」

「由美ちゃんちですか」

「そうなのよ。信ちゃん、聞いてなかったの?」

 母が心配そうに訊いた。

 景子の両親には公認のお付き合いをさせてもらっている信二だが、さすがに一泊二日でデートとは言えない。景子は由美の協力を得て、信二のアパートに泊まる手はずだったのである。

「あっ、思い出しました。確かそう言ってたみたいです。僕忘れてました」

「信ちゃんは行かないの?」

「もう夜遅いですから。それに女の子たちで楽しんでいるところを、邪魔できませんからね。後で電話でもしてみます。じゃあ、また」

 信二は、景子の完全犯罪を何とか遂行させようと必死だった。もしかしたら景子がアパートに帰って来てそのまま泊まることになれば、ここで景子のアリバイを崩すわけには行かなかったのである。

 信二は電話を切ると、そのままポケットにねじ込んだ。

 しばらく考えた信二は、また携帯を取り出すと、アドレスから由美の番号を探し出し、発信のボタンを押した。

 数回の呼び出し音が鳴ったあと、元気の良さそうな明るい由美の声が聞こえた。

「もしもし、信二さん? どうしたの?」

「いつ聞いても元気良さそうだね。何か良いことでもあったのかい」

「そんなことないわよ。私はいつでも、何があっても元気がいいの。明るく楽しく美しく、というのが私のモットーなの」

「美しくねえ……」

「何よ、何か文句があんの? それよりどうしたの。信二さんの方が元気がないじゃない。何かあったの?」

 由美が心配そうに訊いて来た。

「景子の奴、そっちに行ってないかな」

「あれ、今日は二人で一緒にいるんじゃなかったの? 信二さん、今日誕生日なんでしょ、おめでとう」

「おめでとうじゃないよ。おめでたくないんだよ、それが」

「どうしたの?」

「実は……」

 信二は今日のアパートでの出来事を話し始めた。

 景子が怒ってアパートを飛び出したところまで話をしたが、さすがにその原因となったビデオの話はできない。

「それで、ちょっとしたことでケンカになっちゃって、出て行ったっきりどこにいったか分からないんだよ。由美ちゃん、どこか心当たりないかな」

「さあ、私も分かんないわ。何かあったらうちに来ると思うんだけど。――ねえ、ちょっとした事って、何があったの? どうしてケンカになったのよ」

「いや、大したことじゃないんだ。怒るようなことじゃないと思うんだけどね」

 信二は鼻の頭をかきながら、ボソボソと呟くように言った。

「でも景子が怒るなんて滅多にないことでしょ。あの温厚な景子が怒るなんて、よっぽど腹が立ったはずよ。何があったの?」

 由美はその手の話になると、身を乗り出すように訊いてくる。テレビのワイドショーはよく見るし、そこらへんのスキャンダルは何でも知っていた。一種の情報塔とも言えるべき存在なのだ。

 その時、外は、小粒の雨が降り出していた。

「とにかく、一度アパートに戻ってみるよ。もしかしたら帰って来てるかもしれないし」

「分かったわ。じゃ、どっちにしてもまた連絡してね。心配だから」

「後でまた電話するよ。もし景子がそっちに行ったら、引き止めてくれないかな。――じゃ、ごめんな」

 信二は電話を切ると、真っ暗な空を見上げた。まだ小雨だが、しだいに雨足が強くなりそうな気配が感じ取られた。もう梅雨は明けたはずだが、今ごろの雨は気まぐれである。いつ降り出して、いつ晴れるのか、見当がつかない。信二はこの雨を、女心と同じだ、と思いながら、小走りでアパートへ向かった。

 勢いよくアパートの階段を駆け上がると、自分の部屋まで一直線に走った。廊下の床が、今にも抜け落ちそうな音を立てていた。

 もしかしたら帰ってるかも、と思いながらドアを開けてみる。しかし、景子が帰っている様子は見当たらなかった。

「ちくしょう、どこ行ったんだよ」

 信二はその場に座ろうとした。その時、外から大きな雨音が聞こえてきた。

 雨が本格的に降り出した音だった。

「もしかしたら、近くで濡れてるかも……」

 信二は二本の傘を手に持つと、慌てて外に飛び出して行ったのである。


 

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