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その十一


(十一)

 

 背後から人が近づいてくる気配が感じられた。

 誰かが近寄って来る。男だ。男が一人、小走りに近づいていた。

 景子はその男の顔を見たとき、突然形相が変わった。

「あの男よ。私を無理やり車に押し込んだのは、あの男だわ!」

「何だって。じゃ、こいつが弘一のグルか」

 賢介が男を睨みながら言った。「おい、ちょっと待て! お前か、この子をここまで連れ込んだのは」

  と、今にも殴りかかろうという構えになる。

「ちょっと待ってくれ。悪かった、謝る。でも俺は何も知らなかったんだ」

「何も知らないでこんなことができるか!」

「弘一はどこだ。まさか、あいつ……」

 竜二は煙が出ている別荘を見上げた。

「なぜ弘一は死のうとしているんだ。どうして景子ちゃんを巻き添えにしようとしたんだ。白状しろ、この野郎!」

 賢介は竜二の体を地面に叩き付け、馬乗りになって殴りかかった。

「本当によく分からないんだよ。俺じゃなくて敏夫が全部知っているはずだ。ついさっき、俺もこの話を敏夫から聞いたばかりなんだ」

「敏夫って誰だ」

「今日彼女を拉致した時、もう一人仲間がいたんだ。そいつの策略だったんだよ」

 竜二の声はいつしか涙声になっていた。

「敏夫って、畑野敏夫のこと?」

 由美が近づいて訊いた。

「そいつのこと知ってるの?」

 信二が由美の顔をのぞきながら訊いた。

「何度か会ったことあるわ。あの人ならやりかねないわよ。ひどい人なの、畑野敏夫って」

「――誰か俺のこと呼んだか」

 突然林の中から声が聞こえた。畑野敏夫である。竜二とはほとんど同時に着いたのだが、一瞬先に竜二の方が、景子たちと合流していた。そして林の中で、竜二が詰問されているのを聞いていたのだ。

「弘一はどこにいるんだ。もしかしたらあの中か」

 敏夫は別荘を顎でしゃくりながら訊いた。

「お前が畑野敏夫か!」

 賢介は殴りかかろうとした。しかしその動作は否応なく止めざるを得なかった。敏夫が上着のポケットから拳銃を引き抜いたのだ。

「いいじゃないか。あいつは死にたがってるんだから、勝手にさせとけよ。しかも自分が惚れている由美のために、景子を殺して信二だけ残そうってんだ。感謝しろよ、お前ら」

「何言ってんのよ。私が信二さんのこと好きだと思ってるんだろうけど、全く違うわよ。――なぜ弘ちゃんが死のうとしてるのか、あなたには分かってるの?」

「そんなこと俺の知ったことじゃねえよ。何か悩みでもあったんだろ」

 敏夫は薄ら笑いさえ浮かべていた。

「あなた、弘ちゃんに借金があるわね。それも数百万円も。最初っから返すつもりなかったんでしょ」

「そんなこともあったかな」

「それだけじゃないわ。あなた弘ちゃんのお父さんの会社のお金も使い込んでるわ、弘ちゃんに内緒でね」

「な、何でそんなことまで知ってるんだ」

「弘ちゃんだって知ってるわよ。あの人バカなくらいお人よしだから、気づかないふりしてただけよ。『敏夫が困ってるんだから』ってね、自分で責任かぶっちゃったのよ」

「何だ、バレてたのか。でもあいつが死んでしまえば何もかも終わりだ。弘一に感謝しねえとな」

 敏夫は高笑いを始めた。

「貴様、お前がそんな奴だったとは!」

 突然竜二が立ち上がり、足下に落ちている木材をつかみあげて、憎らしく嘲り笑う敏夫に殴りかかった。

 しかし勢いよく振り下ろされた木材は、虚しく空を切った。その横腹に敏夫が撃ち放った弾丸が命中したのだ。

 竜二はバッタリと倒れ、少しの痙攣の後、そのまま動かなくなった。ほとんど即死だった。弾丸は横腹から心臓に達していたのである。

「なんて人なの……。血も涙もないって、あなたのことをいうのね」

 由美は腹の底から憎しみを込めて言った。

「お前らも覚悟しな。こうなったら、みんな消えてしまうしかないんだよ。――弘一は拳銃を持っている。別荘の二階からお前らを皆殺しにする。そしてあいつは自分でズドン。そのまま焼け死ぬ。最後に俺のこの拳銃から指紋をふき取って二階に投げ込むんだ。どうだ、完全犯罪だろ。すべて弘一が殺ったことになるんだ」

 そう言って高笑いした敏夫の目は、不気味に座っていた。そしてじりじりと近づいて来る。

「弘ちゃん! あなたは何も悪くないのよ。すべてこの男が悪いのよ。弘ちゃん!」

 由美は別荘に向かって絶叫した。銃口が自分を狙っていても怖くなかった。

 敏夫がいやらしくニヤリと嗤った。自分の唇を一度舐めると、両手で拳銃を握り直した。

 その腕がピンと伸びたとき、大きな銃声がこだました。耳をつんざくばかりの音である。信二はその場に伏せた。賢介も耳をふさいでしゃがみ込む。

 しかし由美だけは動ずることもなく、そのまま毅然として直立していた。

 由美の目の前で、敏夫が崩れるように倒れた。誰にも訳が分からない。一体何が起こったのか、冷静に判断する余裕がなかった。 敏夫は後頭部から血を流していた。

 信二は直立している由美を見上げた。由美の目からは涙がこぼれていた。その濡れた瞳は別荘の二階を見上げていた。そこには拳銃を手に持った弘一の姿があった。その目は優しく由美を見ている。

 弘一が拳銃で、敏夫の後頭部を狙い撃ったのであった。

「弘ちゃん……」

 弘一と由美は、今この時、初めて心が通じ合ったのかもしれない。

 突然由美は、別荘に向かって走り出した。

「待て! 由美ちゃん、危ないよ。もう手遅れだよ。行くな!」

 賢介は慌てて追いかけた。

「由美! 行っちゃダメ!」

 景子も絶叫していた。「お願い、弘一さん。由美を助けて!」

「そこからじゃ入れないよ。中はもう火の海だ。戻れ!」

 信二も立ち上がり、由美を追いかけた。

 しかしその声は、由美には届かなかった。すでに玄関の中に入ってしまったのだ。

 部屋の中では熱風が渦巻いていた。柱が燃えている。壁は焼けただれ、家具やベッド、カーテンから電化製品まで燃え移っていた。

 由美は足下にあったセーターをつかみ、降り注ぐ火の粉を振り払いながら二階へと上がって行った。

「由美ちゃん、やめろ!」

 賢介が玄関の中に入ったとき、目の前の壁が崩れ落ちた。その瓦礫の山で、行く手を阻まれてしまったのだ。

「信二、あっちだ!」

 部屋の中に入る道を失った二人は、別荘の裏手に回ってみた。しかしどこも火柱が吹き上げ、中に入るすべがない。

「くそっ、何とかならないのか」

「ダメだよ。これじゃどうすることもできない。――危ない!」

 中で何かが爆発した。カセットコンロのボンベが置いてあったのだ。窓ガラスが割れ、破片が弾け飛んでくる。

 二人は仕方なく、別荘から離れるしかなかった。

「由美は? 由美はどこに行ったの?」

 景子が走り寄って来た。

「二階に上がってしまったんだ。俺たちも助けに行きたいけど、この状態じゃ入れないよ」

「私が行って来る」

 と、景子は言った。

「何言ってるんだ。ダメだよ、、もう遅いよ。出口はもうないんだ……」

「由美! 弘一さん! 逃げて、逃げてよ!」

 景子は力の限り叫んだ。中に入ろうとするその身体を、信二と賢介が抱き止めている。

 景子の瞳から、大粒の涙が溢れていた。その涙に、別荘を焼き尽くそうとしている炎が反射し、まるで赤い涙を流しているかのようだった。



 「どうして上がって来たんだよ。死ぬのは俺だけで充分なのに」

「弘ちゃんだけ死なせたりしないわ。だって死んじゃう前に、言っとかなきゃならないことがあるんだもん」

 弘一と由美は、二階の洋室で、向かい合って座っていた。由美が弘一の膝の上に両手を乗せる。自慢の長い髪は、少しちぢれていた。

「熱かっただろう。大丈夫か?」

 弘一は由美の髪をやさしくかき分けながら言った。

「このくらい平気よ。私の心の方がもっと熱くなってるわ。だって、弘ちゃんと一緒にいられるんだもん」

「由美……」

「私が好きなのは、信二さんじゃない。私が好きなのは、弘ちゃん、あなただけ。最初に会った時から好きだったの。私、素直に言えなくて……」

「俺だってそうさ。一目惚れだったんだ。でも、言えなかったんだ。仕事もふらふらしてるし、スポーツマンでもないし、友達だってたくさんいるわけじゃない。そんな半端な俺に、由美が『うん』って言ってくれる自信がなかったんだ」

「そんなこと言ってみなきゃ分からないじゃない」

「でも、由美を失うのが怖かったんだ。せめて友達でもいいから、って」

「バカね、弘ちゃんって。でも、私だってバカよね。自分から言ってもよかったのに」

 二人は優しく微笑み合った。今までにない、至福の微笑みだった。

 一階から爆発音が轟いた。爆風が階段を駆け上がって来る。弘一は、突き上げてくる熱風から由美を庇うように、その身体を抱いて床に転がった。

 壁が砕け、破片が弘一の身体に舞い落ちた。

「これが私たちのスタートラインってわけね」

「ごめんな由美。こんな目に遭わせちまって。スタートがすぐ終わりになっちまうな」

「違うわ。このスタートはゴールがないの。永遠に二人で一緒にいられるのよ。私、幸せよ」

 弘一は泣いていた。由美も涙を流す。しかしその表情は、誰にも負けないくらい、満面の微笑みだった。

 弘一の唇と由美の唇が重なった。由美も、弘一も、初めて味わう甘い口づけだった。

 お互いの身体を力強く抱きしめた。永遠に離れない、離さない、そんな思いが、さらに二人を結びつけようとしていた……。



 景子たちは、別荘から離れることを余儀なくされた。もうこれ以上、近づくことはできない。

 三人は無言のまま別荘を見つめていた。信二は景子の肩を抱き、景子も信二のセーターを握りしめている。

 自分たちが何もできないことに、それぞれが情けなさを感じていた。

 その時、別荘の中から銃声が聞こえた。一瞬の間をおいての、二発の銃声だった。

 景子の体がピクリと動いた。同時に信二は両腕で景子の体を抱きしめた。後ろで賢介がうなだれる。

 その銃声が何を意味するのか、すぐに理解できた。しかしそれを口にすることは、誰にもできなかった。

 景子が声を上げて泣き出した。信二の胸に埋もれながら、まるで三歳の子供のように、声を張り上げて泣いていた。何年ぶりだろう。今まで何度も泣いたことはあった。でもこんなふうに泣いたことはなかった。

 いつも我慢してたんだ。泣きたいのに、無理して笑顔を作ってたんだ……。

 でも今は泣くしかなかった。泣くことしかできなかった。

 別荘を焼き尽くす炎は、一段と大きくなっていた。二階まで炎は回っているようだ。

 部屋の窓から出ていた煙は、いつの間にか赤い火柱に変わっていた。

 別荘だけではない。由美や弘一の思いも一緒に焼きつくし、二人を天まで昇らせようとでもするかのようだ。

 遠くからサイレンの音が聞こえている。誰か近所の人が通報したのだろう。けたたましく数台の消防車やパトカーの音が鳴り響き、近づいて来るのが分かる。

 しかし、信二と景子には聞こえていなかった。何も聞こえなかった。サイレンの音も、別荘が焼け落ちる音も。

 ただ目に映る紅蓮の炎と、海岸に打ち寄せる潮騒の音だけしか聞こえていなかった……。



       (十二)


 「えー、今日は遅ればせながら、私、竹中信二の誕生日を祝おうと、こんなに素敵なお客様が駆けつけてくれました!」

「今晩は、安田景子です。今日は信二さんの誕生日を、思いっきり祝いたいと思います。信二さん、おめでとう。カンパーイ!」

「ちょっと待てよ。少しぎこちないんじゃない? そんなに固くなるなって」

「固くなってるのは信ちゃんの方でしょ。普通で行こうよ。カメラ気にしないで」

 信二はビデオカメラのスイッチを切ると、再びセットしなおした。

「さあ、最初っからやり直し。――えー、今日は」

「挨拶はもういいわよ。私お腹すいてるんだからね。早くから準備してたのに、信ちゃんたら遅いんだから」

「じゃ、始めるぞ。カンパーイ!」

「信ちゃん、おめでとう!」

 二人の手に持ったグラスが、心地よい乾いた音を立てた。もちろん中身は景子が買ってきた缶ビール。テーブルには景子の手料理が並んでいる。

 二人は一気にビールを飲み干すと、早速、愛のこもった料理を口に運んだ。

 ――あの事件から数週間がたち、やっと落ち着きを取り戻した二人は、あの日、予定通り出来なかったバースディーパーティーをやり直していた。

 せっかくの思い出深いパーティーだから記念に撮っておこう、と信二が提案したのだった。

「でも、片瀬弘一って、本当に最初っから死ぬ気だったのかな。何だか納得いかないな」

 信二は二本目のビールを開けながら言った。

「それは間違いないと思う。弘一さんの部屋から遺書が見つかったって、警察の人が言ってたわ」

「何て書いてあったんだ?」

「会社のお金を使い込んだことと、社会の流れに順応できない自分を嘆く文面だったみたい」

「だって自分で使い込んだんじゃないじゃないか。悪いのは敏夫って男だろ」

「そうなんだけど、本当は他にも悩みがいっぱいあったみたい。もちろん由美のこともね」

「そこが腑に落ちないんだよな」

 そう言って首をかしげた信二は、フライドチキンをほおばった。

「でも由美ちゃんは会社の金のことも知ってたんだろ」

「それが由美だけじゃなかったの。弘一さんのお父さんも気が付いてたんだけど、犯人が分からないから調べたんだって。そしてあの事件の日に敏夫が犯人だって分かったから、警察と相談して探してたらしいのよ。弘一さんは知らなかったんだけどね」

「じゃ、もう少し早く分かってれば、あんなことにはならなかったかもしれないな。何だか気の毒だよな」

「由美の日記にも書いてあったわ。弘一さんは由美には何でも話してたらしいの、お金のことも。でも自分が好きでやってることだからって、口止めされてたのね」

「何でお互い自分の気持ちを打ち明けなかったのかな。仲よかったんだろ」

「弘一さんへの由美の気持ちは、日記にびっしり書いてあったわ。でも二人とも強情で意地っ張りだから、もう一歩、というところで言えなかったのね」

 景子は警察署で見せてもらった由美の日記を思い出していた。日記には涙でかすんだ文字がいくつかあった。

 信二と景子、そして賢介の三人は、警察での取り調べがもっと厳しくあるのでは、と思っていたが、弘一の遺書や手紙、由美の日記などから調べは簡単についた。もちろん弘一の父親が掴んだ事件の真相で、すべてのことが明らかになったのである。

「二人とももっと素直になればよかったのにな。最後の最後で一緒になれるなんて……」

「でも一緒に逝っちゃったのは、二人にとっては幸せだったのかも。――そう思わなくちゃね」

 景子は立ち上がり、冷蔵庫を開けてしばらく中を覗き込んでいた。何かを探すふりをしながら、眼頭にたまった涙を拭いた。

「ワインにしようか。おいしい白ワインがあるの。お父さんのを一本拝借してきちゃった」

「嬉しいね。明日は休みだし、思いっきり飲むか」

 信二が不器用にソムリエナイフでワインを開ける。

「でもね、そもそもこの事件は、信ちゃんがエッチな物を借りて来たからこうなったのよ。反省しなさい」

「ごめんなさい。反省します」

 信二は両手をついて、大げさに謝った。

 そしてちょっと舌を出して微笑むと、

「やっぱり他人のは見るもんじゃないな。せっかくここにビデオカメラがあるんだから、二人で共演のオリジナルビデオでも作るか。ははは」

「何言ってんのよ、バカ!」

 景子が父から拝借して来たワイングラスを取り出して、ゆっくりとワインを注いだ。

「何だかシャレてるね」

「うちのお父さんに感謝してね」

 二人の手に持ったワイングラスが、軽く触れ合う。そしてこれから、ワインよりも甘い夜が始まろうとしていた。

「他に何か言うことはないの。私にとって、大事なこと」

「やっぱり素直にならなきゃな。好きだよ、景子。愛してる」

「私もだーい好き。愛してる……へへ」

 二人はそっと口づけをした。ほんのりと甘いキスだった。

「他に言うことは?」

 景子がグッと信二を睨む。

「――ザ、ン、ゲ」

 二人はフフッと笑うと、そのままゆっくりと倒れ込んだ。甘い儀式の始まりである。

 しかし二人は大事なことを忘れていた。まだビデオカメラは録画状態のまま回っていたのだ。

 どんな作品が出来上がるのか、この二人にしか分からなかった……。



                おわり

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