↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
5/10

第5話 何食わぬ顔のナニカ

その夜、空はいつもより少し遅い時間に「ミチクサ」を出た。

「お疲れー、また明日」

片桐に軽く手を振り、路地を歩き出す。夜風はもう秋の匂いを含んでいて、

頬に触れると少しひんやりした。空はポケットに手を突っ込み、

鼻歌交じりに歩調を緩める。

大学裏の細い通りに差し掛かったところで、

ふと背後に何かの気配を感じた気がした。


「……気のせいかな」


振り返っても、街灯に照らされた誰もいない道があるだけ。空は肩をすくめて、

また前を向いた。

その「気のせい」は、しかし気のせいではなかった。

塀の陰、街路樹の根元の暗がり――そこに、輪郭のはっきりしない、

大型犬ほどの影がじっと蹲っていた。空の後ろ姿を、じっと見つめている。

息遣いのようなものはない。ただ、じわりじわりと、空との距離を詰めようとする、明確な意志だけがそこにあった。


空は、気づかなかった。影が、じりじりと距離を詰める。あと数メートル。

その時。

塀の上から、何かがひらりと降りてきた。

音はしなかった。ただ、空気がほんの少し、揺れただけ。

小さくて丸い、耳のような突起のあるそれが、影と空の間に、

まるで最初からそこにいたかのように、すとんと降り立った。

影が、動きを止めた。丸い塊――モチに向かって、明確な敵意を放つ。

だが、次の瞬間には、その影は、もう存在していなかった。

一瞬だった。モチが、ふよりと一度だけ大きく揺れた――それだけで、

影は輪郭ごと、音もなく霧散した。跡形も残らない。悲鳴すらなかった。


空は、何も気づかなかった。イヤホンから流れる曲のサビに合わせて、

小さく口ずさみながら、変わらぬ足取りで歩き続けている。

モチは、その後ろ姿をしばらく見つめていた。

それから、何事もなかったかのように、ふよふよと宙を漂いながら、

空の隣に並んだ。


「――あ、モチじゃん」


ようやく気づいた空が、嬉しそうに声を上げた。


「珍しいね、外で会うの。いつも店の裏でしか会わないのに」


モチは、答える代わりに、くるんと一回転した。まるで、何事もなかったような、

いつも通りの仕草で。


「明日もお店寄ってく? 賄い、また分けてあげる」


空は当然のようにそう誘い、モチは当然のようにその場を回りながら付いて行く。

空の足取りに、緊張も恐怖もなかった。ただ、いつも通りの夜だった。


*


「あ、もしかしてモチ来てる?」

翌日。裏口の扉を開けたジョウが、空に招かれるまま出てきたモチを見て、

思わず声を上げた。

相変わらず、ジョウの目にはその輪郭がぼんやりとしか見えない。

喉の奥も、鳴らない。異型のはずなのに、明確な脅威として認識されない、

不思議な存在。


「今日はミチクサまで一緒に来たんだよ。珍しいでしょ」

「へー……」


ジョウはモチをじっと見つめた。理屈では説明できない、

なんとも言えない懐かしさが、胸の奥にじんわりと滲む。


(なんだろ、この感じ……)


モチが、ジョウの視線に気づいたのか、くるん、とまた回った。

心なしか、機嫌が良さそうに見えた。


「鍵城くんにも懐いてきたんじゃない?」

「そ、そうかな」


ジョウは苦笑いしながら、なんとなく手を伸ばしてみた。

指先が、ひんやりとした、でもどこか温かい何かに触れる。

感触があるということは、確かにそこに存在している証拠だった。

その瞬間、ジョウの喉の奥が、ほんの微かに――

これまで一度も感じたことのない種類の振動で、小さく震えた。

言葉にならない、けれど確かな何か。

懐かしさとも呼べる、もっと深い場所からの共鳴。


「……ん?」


ジョウは首を傾げた。モチはすでに手を離れ、いつも通り空の足元へと戻っている。空は不思議そうにジョウを見た。


「どうしたの、鍵城くん」

「いや……なんでもない」


ジョウはそれ以上、うまく言葉にできなかった。ただ、モチの正体について、

これまで感じていた「危険かもしれない」という漠然とした不安が、

今この瞬間、静かに――別の何かに変わっていくのを感じていた。


*


その夜遅く、片桐は店じまいをしながら、

裏口の外に佇むモチの姿をそっと見つめていた。


「……お前、やっぱりそうか」


呟きに、モチが答えることはなかった。ただ、片桐の方をゆっくりと向いて、

ほんの一瞬だけ、動きを止めた。


「随分と、腕を上げたんだな」


片桐は苦笑した。三十年前、まだ小さかったその丸い塊が、

以前の仲間の足元でくるくると転がっていたのを覚えている。

あの頃はまだ、大した力もない、ただの愛らしい塊でしかなかった。

今は違う。


「あいつを、ずっと見守ってたのか?一体どうして?」


モチは答えない。ただ、いつものように、ふよりと一度揺れただけだった。

片桐はそれを、肯定と受け取ることにした。


「……そうか」


それ以上、片桐は何も聞かなかった。ただ、静かに頷き、

エプロンの紐をほどきながら、店の奥へと戻っていった。

モチは、しばらくその場に留まっていた。それから、何事もなかったかのように、

暗がりへと、ふわりと溶けるように消えていった。

明日もまた、空の元へ。そして、ジョウの傍へ。

誰にも気づかれないまま、静かに、確かに。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。