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第3話 過去のカタチと日替わりメニュー

閉店の看板を裏返し、片桐は最後にゴミ袋を裏口の外へ出した。

夜十一時。裏路地には人気がない。街灯だけが、生ぬるい光を落としている。


「おっといけねぇ……忘れものだ」


ドアの入り口に立てていた日替わりメニュー用の看板を思い出し、

急いで看板を閉じて店内に仕舞う。


(そう言えばジョウ達が賄に唐揚げが食べたいって言ってたな……)


明日の日替わり、若鶏唐揚げの香味ソースにするか。

そう、従業員二人の顔を思い浮かべながらメニューを考えていた片桐が異変に気づいたのは、裏口に戻った帰り際だった。

――空気が、違う。

長年離れていても、この感覚だけは身体が忘れない。

皮膚の表面がざわつくような、音のない重さ。

かつて何百回と浴びた、封印空間の特有な気配。

片桐は片づけていたゴミ袋を置いたまま、動きを止めた。

振り返らない。振り返らなくても分かる。

裏路地の奥、店の勝手口からほんの十数メートル。そこに、何かが立っている。


「……お客さんは表からどうぞ」


軽口のつもりで言った声は、しかし自分でも驚くほど低く、硬かった。


「随分と察しがいいですね」


聞き覚えのない、しかし種類は知っている声だった。

丁寧で、底の見えない笑みを含んだ声。片桐はゆっくりと振り返った。

黒い外套を纏った男が一人、路地の暗がりに立っていた。顔の輪郭がやけに曖昧で、視線が焦点を結びにくい。ただの人間ではない。


「あんたら、まだこの街に残党がいたのか」

「残党、とは心外ですね。私はただ――香りに誘われてきただけですよ」


男の視線が、片桐の背後、店の灯りが落ちた窓へと動いた。

「あの店の常連に、少々面白い坊やがいるそうで。声を、少しだけ味見してみようかと」


片桐の中で、何かが音を立てて据わった。


「――帰れ」


短く言った。もう軽口ではなかった。


「帰らなければ?」

「帰らなければ、お前がここで灰になる」


男が、微かに笑みを深めた。値踏みするような目。だが、それも一瞬だった。


「……面白い。ただの飲食店主にしては、良い喉をしている」


片桐は答えず、エプロンの紐をほどいて足元に落とした。

営業許可証の裏に何十年も隠してきたものを、今夜だけは取り出す。

古い癖で、右手が自然と喉元へと動いた。もう何年も、この動作をしていない。

指先が微かに震えたのは、緊張ではなく、懐かしさだった。

声を出す。高く、短く。かつて誰かの隣で、何百回と重ねてきた音域。

喉の奥から、灰色に近い、くすんだ銀の光が滲み出た。かつての鮮やかさはない。

錆びついた鍵の輪郭が、夜の空気の中にぼんやりと浮かび上がる。


「……ほう」


男の目つきが変わった。愉悦から、わずかな警戒へ。


「その音域――トレブルですか。しかし、随分と鈍っている」

「悪いな。長いこと、フライパンしか振ってなかったもんでね」


軽口はそこで一度だけ戻った。だが構えは崩さない。

男が動いた。輪郭のない影のような足取りで、一足で間合いを詰めてくる。速い。

片桐は半歩下がりながら、錆びた銀の鍵でそれを受けた。

金属音は鳴らなかった。ただ、重さだけが腕を伝う。


「――っ」


押し込まれる。三十年近い空白は、身体の感覚を確実に鈍らせていた。

それでも、足の運び方だけは覚えている。誰かに教わったのではなく、

隣で何百回と見てきた足捌き。低く、地を這うように、相手の軸を崩す。

かつて誰かがそうしていたように。

片桐は半身を沈め、相手の突きを受け流した。完璧ではない。

だが、完全に外れてもいない。


「……なるほど。昔取った杵柄、というやつですか」


男が距離を取り、面白そうに片桐を眺めた。


「あなた、解放派の――いや、それにしては型が違う。まさか」

「詮索は無用だ」


片桐は鍵を構え直した。息が上がっている。若い頃なら何でもなかった一撃が、

もう肺の奥を焼くように痛い。


(歳を取ったもんだな、俺も)


自嘲する余裕はあった。それだけは、まだ手放していない。


「もう一度言う。帰れ。俺が居る間、この店の連中には、指一本触れさせない」

「あの坊やのためにですか? ただの常連客のために、ここまでするとは」

「常連じゃない」


片桐は、静かに、しかしはっきりと言った。


「うちの従業員だ」


その一言に、何の力が宿っていたのか――片桐自身にも分からなかった。

ただ、銀の光が、一瞬だけ、若い頃の鮮やかさを取り戻した気がした。

踏み込む。鈍った身体が悲鳴を上げるのを無視して、地を蹴った。

男の輪郭がぶれる。躱されたと分かった瞬間、片桐は鍵を返し、逆袈裟に薙いだ。

当たらない。それでも構わなかった。三度、四度と繰り返すうちに、

身体が思い出していく。忘れていたのではない。ただ、眠らせていただけだ。


「……面倒な狸ですね」


男が、初めて明確に苛立ちの色を見せた。


「今夜のところは、退きましょう。ですが――」

男の視線が、また店の窓へと流れた。

「あの声、いずれいただきます。今夜のことは、忘れておいてあげますよ」

「忘れるのはお前だ」


片桐が短く唱えた。かつて聞き飽きるほど見てきた、単純な封印の型。

錆びついてはいたが、意味を失ってはいなかった。

男が一瞬、動きを止めた。舌打ちのような音とも取れる掠れた呼気を残し、

その姿は夜の闇へと溶けて消えた。


*


静寂が戻った路地に、片桐は一人立っていた。

喉の奥の光は、すでに消えている。

肩で息をしながら、片桐は店の裏口の壁に背を預けた。


「……三十年、伊達に鈍ったわけじゃないんだな」


誰に言うでもない呟きが、静かな夜に溶けていく。

エプロンを拾い上げ、身につけ直しながら、片桐はふと苦笑した。


「あいつらが見たら、笑うだろうな。こんな腑抜けた動き」


言いながら、目の奥が少しだけ熱くなった。

創業したての店に来た、あの懐かしい声が聞こえた気がした。

店の窓を見上げる。明日もいつも通り、ジョウが遅刻気味にやって来て、

空に文句を言われながら伝票を整理するのだろう。何も知らないまま。

それでいい、と片桐は思った。


「……もう少しだけ、遠くから見ててやるか」


前に一度だけ呟いたその言葉を、今夜もう一度、静かに零すと、

片桐は店の中へと戻っていった。


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