第一話 ―バンソウコウの言い訳とナポリタン
喫茶店「ミチクサ」は、芸術大学から歩いて十五分ほどの路地裏にある、
年季の入った店だった。ドアに貼られた透明なステッカーには30年以上だろうか。
創業当時の年数が一緒に球体風にデザインされていた。
カウンター席と小さなテーブルが数卓。夜遅くまで灯りをつけている、
隠れ家のような店。この店の看板メニューであるナポリタンは、
ケチャップの甘味と酸味がしっかり絡んだ、モチモチな太麺。
やや大ぶりの厚切りベーコンも多めに乗っていて密かに評判だった。
「鍵城くん、3番テーブル、オーダー通ってないよ」
「あ、やべ……ごめん、今行きます!」
カウンターの奥から飛んできた声に、鍵城ジョウは弾かれたように顔を上げた。
「鍵城くんさぁ、最近ぼーっとしてる時間長くない? 大丈夫?」
伝票を握りしめて駆け出すジョウの背中に、呆れたような溜息が追いかけてくる。
声の主は、同じ大学の一つ上の先輩――野中 空。
バイト歴が半年ほど長いというだけで、常に先輩面をしてくる女性同僚だった。
「だ、大丈夫大丈夫。ちょっと寝不足なだけで」
「さっき、また『ワシ』って言ってたし」
「え、言ってた!?」
大学生であるジョウの年齢とは違和感がある「ワシ」は幼い頃、
ジョウの育親……に近い存在の人の口癖で、ジョウもその口癖がいつの間にか付いていた。
「言ってた。言ってた。お客さんキョトンとしてたから」
そうからかうように笑う空に、ジョウは耳の先まで赤くなる。
でも寝不足なのは事実で、ジョウには秘密があった。
夜遅くまで大学の裏手をうろついていることも、
時々怪我をして帰ってくることも、絶対……空には言えるはずがない。
ただの一人暮らしの大学生――そういうことに、いつもしておく必要があった。
とはいえ、実際に裏でヒーローみたいなことをしているなんて正直に話したところで、誰が信じてくれるというのか。
「はいはい、集中集中。3番、アイスコーヒーとナポリタンね」
「わ、分かってる」
厨房の奥からひょいと顔を出したのは、この店のオーナー――片桐さんだ。
還暦手前だというのに動きは若い店員より機敏で、口も達者だ。
「鍵城、お前また手に絆創膏増えてないか」
中低音のしゃがれ気味だがガラガラではなく、使い込んだ革のような滑らかさのある嗄れ声。
そんな不意打ちのような声に指摘され、ジョウの肩がビクリと跳ねた。とっさに左手を後ろに隠す。
「あ、ああ……これは、その、階段でちょっとすっ転んで」
「先週も似たようなこと言ってたな」
「そ、そうでしたっけ?」
「言ってた。バイト先で骨折でもされたら困るんだよ、うちは」
片桐さんの目は疑わしげに細められていたが、それ以上は追及してこなかった。
昼のピークが過ぎ、店内が落ち着きを取り戻した頃。片桐さんがふと、洗い物をする手を止めて、ジョウの左手にちらりと視線をやった。
「……ちょっと、その手見せてみろ」
有無を言わさぬ調子に、ジョウは反射的に手を後ろに隠しかけたが、片桐さんの目がそれを許さなかった。渋々、絆創膏の貼られた左手を差し出す。
片桐さんはそれをそっと剥がし、傷口を無言で観察した。浅い、けれど妙に治りの遅い切り傷。皮膚の縁が、微かに変色している。
「……これ、普通の刃物じゃないな」
ジョウの心臓が、ドクンと跳ねた。
「え、な、なんでそんな……」
「治り方だよ。普通の傷は縁からまっすぐ塞がる。これは――外側から内側に、なんか妙な捻れ方をして治ろうとしてる」
片桐さんは棚から救急箱を取り出し、慣れた手つきで新しい消毒液を傷口に塗った。指の動きに一切の迷いがない。まるで、こういう傷を何百回も見てきたかのような手つきだった。
「……片桐さん、詳しいんですね」
「昔、ちょっとな」
それ以上、片桐さんは深掘りする隙を与えなかった。
新しい絆創膏を丁寧に貼り直すと、ジョウの手を離す。
「痛かったら言え。我慢するのが偉いわけじゃない」
「……はい」
厨房に戻っていく背中を、ジョウはしばらく見つめていた。
*
片桐は、換気扇の下でジョウの左手の感触をまだ指先に残したまま、しばらく動けずにいた。
若い、少し不器用な手。それは人に隠れて何かと戦っている人間の手だ。
それは間違いない。だが今、片桐の胸に静かに広がっているのは確信よりも――あの手の甲を差し出す時の、まっすぐな目。
言い訳を並べながらも、決して目を逸らさない、あの真っ直ぐさ。
知人に似ている、と思った。誰に、とまでは言葉にしなかった。
言葉にしてしまえば、もう戻れない場所に踏み込んでしまう気がした。
昔、同じようにこの店のカウンターで、怪我の言い訳を並べながら笑っていた誰かがいた。理由も聞かずに、ただ黙って傷の手当てをしてやった夜が、何度もあった。
片桐は小さく首を振り、その記憶を胸の奥に押し戻した。
今は、ただの雇い主でいい。ただの、口うるさい店主でいい。
「鍵城くん、また片桐さんに怒られてたの?」
いつの間にか隣にいた空が、興味なさそうにグラスを拭きながら言った。
「怒られてはない、けど……」
「けど?」
「いや、なんでもない」
それ以上、空は何も聞こうとしなかった。
厨房の奥、換気扇の下で、片桐は火のついていない煙草を一本、灰皿にそっと置いた。もう何年も、火をつけたことはない。
「……もう少しだけ、遠くから見ててやるか」
呟いた声は、誰にも届かない低さで。
明日もまた、いつも通りの顔で、いつも通りに「鍵城、ぼーっとするな」と言うだけだ。
今はまだそのままで良い。




