きっとここは、現実
朝の光が差している。
でも、目を開けても、世界はどこかよそよそしい。
真白は、自分の手を見つめた。
皮膚の上に浮いているような感覚。
触れているのに、何かを通して触っているような、遠い距離。
いつからだったかは、もう思い出せない。
誰かと話しているとき、自分がそこにいない気がした。
笑っている自分の顔が、鏡の奥からこちらを見ているようで怖くなった。
誰にも言えなかった。
変だと思われるのが怖くて、でも一番怖かったのは、自分がもう戻れないんじゃないかという予感だった。
***
病院で「解離性障害」と診断された。
「心が、壊れないための方法として、現実を遮断してしまうことがあるんです」
担当医は、穏やかな口調でそう言った。
現実を遮断……。
それはまるで、世界の窓ガラスが曇ってしまったような感覚だった。
***
ある日、真白は近くの公園へ出かけた。
リハビリの一環として、外に出てみようと言われたからだ。
風が吹いていた。
小さな子どもがシャボン玉を飛ばしている。
一瞬、光がまぶしくて目を細めた。
そこでふと、違う感覚が降りてきた。
「ここにいるのは、今の私だ」
どこか知らない世界に落ちたような感覚もまだある。
でも、それでも――たしかに自分は、ここに立っている。
そう思えたのは、ほんの一瞬だったかもしれない。
けれど、真白は小さくうなずいた。
「大丈夫。わたしは、生きてる」
ゆっくり、呼吸をした。
肺がふくらむ感じ。
喉を通る空気の冷たさ。
草の匂い。
シャボン玉のはじける音。
全部が、ほんの少しだけ「今ここ」に引き戻してくれた。
***
それからの日々は、行きつ戻りつだった。
抜け落ちるような時間がある。
自分が誰かの演じる役のように感じることもある。
でも、真白は手帳を持つようになった。
今日見た空の色。食べたパンの味。人の声。
現実に触れたと感じられた瞬間を、記録する。
ページが少しずつ埋まるにつれて、彼女は確かめていた。
私は、この世界に、少しずつ帰ってきている。
そしてある日、その手帳にこう書いた。
「この人生は、わたしがもう一度選び直している人生」
***
世界はまだ、遠く感じる日もある。
でもそれは、「違う世界に迷い込んだ」のではなく、
「自分の世界をもう一度、つくっている途中」なのかもしれない。
そう信じて、真白は今日も一歩を踏み出す。
きっとここは、現実。
そして――生きているのは、私だ。