トンボという名のバー
ここは、死のうとしている人や疲れた人が癒されに来る店、トンボ。今日はまたどんな“お客様”がいらっしゃるのでしょうか…?
俺は普通のサラリーマン……な、はずだった。俺が入社した会社はいわゆるブラック企業で残業なんて当たり前だった。俺の他にも配属が同じの新入社員が3人いたが二人は一週間も経たないうちにやめ後の一人はうつ病になり辞めていった。入社してから一年。ここまで続けたのも褒めて欲しいくらいなのだが俺の先輩はどれぐらい耐えたのだろうか。いつも目にはクマがあり食事をしているところもほとんど見ていない。俺が気になりだしてから一週間。先輩はすっきりした顔をして出勤した。前日、先輩は久しぶりの有給を取っていた。まさかの2年ぶりだとか…。先輩にどうしてそんなにすっきりとした顔なのかを聞くとトンボという名のバーに行ったかららしい。そんなにいいところなのかと思いどこにあるのかとさりげなく聞いてみた。先輩は笑いながら霧の中にあってよくわからないんだと笑って言った。びっくりした顔をしていると先輩はいつものように席に座り仕事を始めた。それから定時になりいつものことながら残業をしぎりぎり終電に間に合ったので家に帰った。家にはとくに何もないが今日の店のことが気になったので調べてみた。店の情報はよくわからなかったが行ったことがあるという人がたくさんいた。それも俺と同じような境遇の人や自殺をしようとしていた人だった。俺もいつか行けるのだろうか…こんなぼやきをしながら今日は寝た。
朝起きるといつもの時間。急いで準備をするとラッシュが嫌いな俺は慌てて電車に乗る。家から会社まで1時間ほど。それでも行きたくないという気持ちがあり30分ほどで着いたという感覚だ。会社では何時からきているのかもう先輩がいた。いつものことながら毎回驚いてしまう。今日もまた昨日と同じように定時になり残業をして会社をでた。珍しいことに2日連続で家に帰れるとすこしだけ浮き足立った。でも、明日のことを考えると憂鬱な気持ちになっていた。ふと目の前に廃墟のビルがあることに気がついた。俺は何のためらいもなくビルの中へと入った。屋上まで上がり下を見るとここから飛び降りるのも悪くはないと思い始める。どうしてだろうビルの屋上から見える町の景色は俺をちっぽけな気持ちにさせた。小さなこと、とは言えないけれどすこしだけ軽い気持ちになれた。俺はビルを降りると今日はまっすぐ家へと帰った。
また同じ日が始まる、そう思いながら俺は会社に向かった。会社にはクマをもっと濃くした先輩が寝ていた。この時間はいつも座って仕事をしているのだが今日は疲れすぎてダウン中だ。この会社ならよく見る光景なのだが見慣れていることにびっくりもする。まあ、そんなことは置いておいて。仕事をしなければならない。そう思い仕事をしていると部長が来た。いつもは絶対来ないのに今日に限ってくるものだから先輩はこっぴどく怒られていた。俺もそのとばっちりなのかよくわからないが怒られた。叱られたというべきか…。部長はなぜかすっきりとした顔をするとこの部署を出て行った。つるっパゲがと心の中で悪口を言いながらもまた仕事に戻った。残業が終わり家に帰ろうとするといつもの道より一本脇の道が目に入った。俺は吸い込まれるようにその脇道に入っていた。気づくと周りは霧で囲まれ前もよく見えない状態だった。その時、俺は先輩の話を思い出した。調べた時も霧の中でよくわからなかったというのが共通点だった。前も後ろもよくわからないまま進むと目の前にトンボの看板が見えた。先輩が言っていたあの“トンボ”だと思った。中に入るといかにもなバーテンダーが立っていた。バーテンダーは俺が入ったことに気がつくとニコッと笑って酒を出した。俺はまだ飲むとは言っていないのに。
「いらっしゃい。見たところ君は…ブラック企業にでも務めているのかな?」
バーテンダーはそういうと目の前まで歩いてきて酒が置いてある席へと案内した。従業員は彼だけのようだ。
「ここは…バー?」
俺が恐る恐る聞くとバーテンダーの男は笑顔で言った。
「そうだよ、俺はスティンガー。よろしくね。」
バーテンダーはほかのテーブルを拭いていた。
俺はキョロキョロしながらもそのスティンガーという男に話しかけた。
「スティンガーさん…この酒は…?」
スティンガーは作業を止めると目の前のカウンターに立った。とくに何も言わなかったがたぶん大丈夫だろうとおもった。根拠はもちろんない。俺は目の前に出された酒を一口だけ飲んだ。すこしだけ辛く感じたがちょうど良い刺激だった。スティンガーはすこしだけこちらを見ると口を開いた。
「君は何にお困りなのかな?」
俺は特に話さない理由もないと思い働いている会社がブラックなことを話した。それと会社を辞めることができないということ。もちろん、申請すればいいのだがこの歳で退職したら普通ではないと思っていること。スティンガーは何も言わずに酒を作り始めた。俺は次の酒か…と思いながら今、目の前にある酒を飲み干した。それと同時に作っていた酒が出てくる。
「この酒はジントニックって名前。」
俺は酒を一気に飲んだ。ジントニックは俺にとっては飲みやすい酒だった。ハーとため息をついて飲んでいるとスティンガーがおもむろに口を開いた。
「そんなに普通が気になりますか?普通に縛られていると人生棒にふりますよ。」
スティンガーはコップを拭きながら聞いてきた。確かに普通に囚われすぎているのかもしれない。それでも気にしてしまう。世の中、普通という根拠のない言葉の元動いている。普通から外れているものは普通じゃないと断定されてしまう。
「……普通は自分の中のルールと思えばいい。だから、会社を辞めたって君の中じゃ普通だ。周りはそんなこと思わないかもしれないけれどそれはその人の普通。気にすることなんて何もない。」
スティンガーは笑いながら言った。スティンガーの後ろの時計を見ると11時を回っていた。気に入ったお酒も飲んだし勇気付けられるような言葉ももらった。明日、辞表を出そう。
「俺はそろそろ行くよ。お代はいくら?」
スティンガーは伝票を差し出した。よく見るとそこには“お代はお話です”と書かれていた。あのときの愚痴のような話でいいのかと思いスティンガーの方を向くとスティンガーはコップを片付けていた。
「君、会社辞めるんだろう?じゃあ、ここで働いてみないか?これを持って路地に入ればここにこれるから。あとは君が決めなさい。」
気がつくと家の天井が見えた。まさかの夢オチだと思ったがあのときスティンガーがくれた招待状と書かれた紙を握っていた。会社に直行した俺は辞表をだし会社を辞めた。先輩はびっくりした顔をしていたが笑顔でお疲れ様と言ってくれた。それから俺はトンボに行くことも考えたがあんなに世話になったのにまだ世話になるわけにはいかないし俺には俺にできることをしようと思った。
それからバイトをし正社員となった。あの時貰った招待状と書かれた紙は何処かに行ってしまった。スティンガーが回収したのかあの日しか使えなかったのかわからない。でも、それでいいとも思った。
それから俺が働いていたブラック企業は倒産したらしい。俺にはもう関係ないことだが元先輩が教えてくれた。
トンボは今日もどこかで扉が開くのを待っているのかもしれない。