第三十一話 妹の変化
ある日の休日、俺は部屋のベッドで寝転がり、美優の小説に目を通していた。誤字脱字はない。地の文とセリフのバランスもそれなりに取れている。問題はないな。
勉強でもしようかと起き上がったところでドアが開き、萌絵が部屋に入って来た。手にはノートと筆記用具がある。
「萌絵、入ってくるならノックぐらいしろ」
「ごめんなさい」
あれ? 素直に謝られた。いつもは「ごめ~ん」とかふざけてくるのに。
「……で、用件はなんだ。勉強か?」
「うん、国語を教えてもらいにきた」
いつもは数学なのに国語とは珍しい。まあ、そういうときもあるか。
俺は萌絵から教科書を借り、要点をまとめて一つ一つ丁寧に教えた。萌絵は熱心に耳を傾ける。いいことではあるのだが、やけに大人しいのが引っかかる。
一時間ほど経ち、萌絵は柔和な笑みを浮かべて言った。
「ありがとう。明日小テストがあるから助かったよ」
萌絵は腰を上げると颯爽と部屋を出て行く。俺は愕然とした。
一度もボケなかった……だと……!?
おかしい。いつもの萌絵なら必ず一回はボケをかましてくるのに、それが一切なかった。どういう風の吹き回しだ。
萌絵は人見知りだから他人の前ではあまり感情を出さない。だが、俺の前であそこまで大人しいのはごく稀だ。
「……考えすぎか」
夕方、リビングに行くと姉貴が夕食の準備をしていた。萌絵は椅子に座ってそれを眺めている。
「お姉ちゃん、私に手伝えることある?」
姉貴は「え」と素っ頓狂な声を出して萌絵に振り向いた。
「いいわよ。私が全部するから」
「でも、洗濯とかお皿洗いもお姉ちゃん一人でやってるし、少しは貢献したいなぁって」
「萌絵……急にどうしたの?」
姉貴は俺に気付くと、右手で手招きしてきた。俺は萌絵を一瞥して姉貴の元まで向かう。
「萌絵に何かした?」
「してない」
「明らかにおかしいわ。別人みたいじゃない」
「俺にも原因が分からん」
萌絵の方を見ると、ノートを開いて書き込みをしていた。俺と姉貴は顔を見合わせる。
「萌絵って自主的に勉強するタイプだったっけ」
「そんな子じゃなかったと思うけど……」
本来は喜ぶべきことなのだが、姉貴の言う通り別人と化したようで違和感がある。
「二人ともどうしたの? 私の顔に何かついてる?」
顔には何もついてないが、背後に何者かが取り憑りついてるようで怖い。
その後も萌絵は積極的に家事を手伝い、勉強にも熱を入れるようになった。妹の劇的な変化には美優も驚いていた。
「萌絵ちゃん、だいぶ変わったよね。言葉遣いも丁寧になったし」
学校でも萌絵の変化に驚く生徒は多かった。昼休みに教室へ来るのは相変わらずだったが、適度な距離を空けて食事をしてくれるようになった。
「ごちそうさまでした。そうだ! お兄ちゃん、少しだけ勉強教えてくれる?」
「いいぞ。何でも訊いてくれ」
なんか清々しい気分だ。鼻が高いとはまさにこのことだな。
放課後、俺は萌絵と学校を後にした。通学路に人はほとんどいなかった。萌絵は前を歩いており表情は窺えない。
ふと、萌絵が足を止めた。拳を強く握り、何かを堪えているように見える。
「どうした萌絵」
「……もう」
「もう?」
「もう耐えられない!!!」
耳をつんざくような声で萌絵が叫んだ。思わず後ろに倒れそうになったが、どうにか踏ん張った。というか、耐えられないって何だよ。
「こんなの私じゃない。お兄ちゃんの気を引こうとして演技してたけど、もう無理」
「演技!?」
いや、最初から怪しいとは思っていたが、本当に演じていたのか。
「つーか、なんで俺の気を引こうと思ったんだよ。構ってほしいなら素直に言えばいいだろ」
「だって、部誌の邪魔しちゃいけないと思ったから」
俺に気ぃ使ってたのか。そういや、美優と小説作ってたとき、ずっとほったからしだったような……。
「いいもん! どーせ、私なんかモブですよ!」
「そこまで言ってねぇよ」
完全に拗ねてしまった。すぐに特効薬を探さねば。
「悪かった。今度何か奢ってやる」
「物で私を釣ろうとしたって無駄だよ」
「俺の腿に座らせてやる」
「……ホント?」
「本当だ。だから怒るな」
俺がそう言うと、萌絵はニッと笑った。単純な奴だな。
「はぁ、演技するって疲れるね。もうこんなキャラやーめた!」
「明日からはどうすんだよ」
「今の私に戻る。お兄ちゃんはどっちがいい? 昼休みの私と今の私」
「……今かな」
なんだかんだ言って、萌絵はふざけてる方が合ってる。少しぐらいは世話を焼かせてくれ。