第48話 クマちゃん
エルドナの北門で開戦の音を上げた頃、ここ南門でも大きな戦闘が始まろうとしていた。
南から押し寄せるのはリグン・バルダットが率いるフランクア王国の軍隊である。
エルドナの南の森から続々と湧き出るように出てくる大群はあっと言う間に陣を築くと、迎え撃とうとしているエルドナ軍と睨み合いのような状態となっていた。
対するエルドナ軍は南門を中心に陣を築いている。エルドナを囲むようにそびえ立っている大きな壁の上には弓兵や魔法部隊が設置され壁を盾に戦う構えだ。
これは純粋に数ではフランクア王国の方が多いため単純に平地で戦ったとしても勝てる見込みは少ないからだ。
それにこの大壁は巨大な岩を積み上げて作られた特別製だ。剣武や魔法で壊すことなど不可能と言われ、盾にするにはこれ以上のものはない。
いくら数の多いフランクア王国軍とは言え闇雲に突っ込んで来ても、上からの矢と魔法の雨で多大な被害が出ることは目に見えている。現にそのスキのない守りにフランクア軍は攻め入ることができないでいた。
対するエルドナ軍もここを抜けられることだけは何としても避けなければならない。この門が破られればエルドナの被害は想像を絶するものになるだろう。
今まで何度もフランクア王国とエルドナ王国は対立し戦ってきたが最近は小競り合い程度であり、今回ほどの規模の戦闘はここ10数年起こっていなかった。そしてその戦いの火蓋も切って落とされようとしている――
フランクア軍の先頭に立った男が剣を大きく振り上げた。
「いくぞ! エルフ共に我らが軍の強さ見せてやるのだ!」
その声と共にフランクア王国軍総勢2万人の大軍が雄叫びを上げた。走り出したその大群が放つ足音は地鳴りと共にエルドナへとおしよせる。
目指すは南門の破壊と中への突入だ。先陣の部隊は敵に向かって一直線にかけていく――が――
彼等の前に現れたのは矢の雨でも強力な魔法でもなく一人の女性だった。人間だろうか? ローブを着ているがその場違いなほどの美しさと、あまりに予想外な出来事にフランクア軍は足を止める。
普通今回のような攻防戦ではエルドナ側としては乱戦にもつれ込む前に弓や魔法である程度の被害を与えたいと考えるものだ。敵味方が完全に分かれている段階でないと区別がつかなくなるからだ。
実際に最初の突撃が一番危険であり一番勇気がいると言っていいだろう。
しかし現実に目の前に居るのはか細い1人の女性である。女性はニッコリ微笑むと、
「我が主、魔王ディーク様の命により、この場所の脅威の排除を任されましたミクと申します」
ミクは丁寧な一礼をしながら、どういうわけか辺りに響き渡る声を出した。叫んでいる様子はなく声そのものを耳にまで運んでいるかのような感覚だ。
ミクの後ろにはエルドナの兵士が居るとはいうものの大軍を目の前に堂々とした姿にどこか不気味さがあった。
すると、ミクはどこからか分からないが大きさ30センチほどのクマのぬいぐるみをだしてきた。
どう見てもぬいぐるみである――
ミクなそのクマのぬいぐるみを両手で優しく抱きしめると頭をなでながら耳元でささやくように、
「クマちゃん、力をかして――あいつらをやっつけて」
そうとだけ言うとクマのぬいぐるみを地面に置く、何故かぬいぐるみは立っている。それどころか両手を可愛らしく振りながらフランクア軍に向かって歩きだした。
どう見ても何か魔法で動かしているのだろうが、戦場にあまりに場違いな美女とぬいぐるみにフランクア軍の注目はその2つに集まっている――
そして最初の異常に気づいたのはフランクア軍であった。
小さく歩みを続けるクマのぬいぐるみから徐々にドス黒い湯気のようなものが上がりはじめると、しだいにその強さを高めていく――
湯気はオーラとなりその余りにも凶悪でまがまがしいオーラは触れるだけでも人を殺しそうな程のパワーがあった。
やがてその異常な光景はエルドナの兵士にも伝わり始め、今この場にいる戦争に参加した全ての兵士はこの先なにが起こるのかをただ黙って見つめていた。
やがてクマは歩みを止め、まがまがしいオーラを体に吸収し始める。
戦おうとする者の姿はない。当たり前だ。目の前に立ちはだかるのは可愛いクマのぬいぐるみなのだから。
しかしフランクア軍はしだいに剣を構えだし戦闘の体制をとりはじめた。誰に命令されたわけでもない。ただ人の持つ直感、防衛本能が直接働きかけ兵士達に剣を抜かせたのだ。
クマの目がギラリと光る――
その瞬間、体全体に恐ろしいまでに突き刺さる殺気を上げながら、クマの体は膨れ上がっていく。
筋骨隆々の巨大なクマはもはや先程の可愛らしい面影は全く無い。体長は10メートル以上はあるだろう。そしてその巨大な腕からは凶悪なオーラで形成された爪が伸びておりその爪の長さだけでも2メートルはありそうだ。
目は血走り体中から黒いオーラが吹き出すように体中を駆け巡っている。
「グオオオオオオオォ!」
突然大きな雄叫びを上げると、その凄まじい轟音に衝撃波が起こり周りの草木を揺らした。そして恐ろしい巨大な何かとなってフランクア軍に襲いかかった。
◇
目の前に立ちはだかった巨大なクマはバグベアーの比ではなかった。
ラーバン・グラレスは目の前に広がった凄惨な光景に立ち尽くす。
ここは地獄だ――
目の前の化物は、まるで次の獲物を品定めするかのように辺りを見回すと、体が自然と後ろに下る。
化物は凶悪さ極まりないが見た目は巨大なクマである。しかし最初はぬいぐるみであったことから恐らく自然界で生まれた生き物ではない。
そして殺した人間の死体を食ったりしないことから、明らかに人を殺すためだけに暴れている。
「隊長! アレは何なのですか!」
1人の兵士が悲鳴に近い声でさけんだ。召喚? 人工生物? 未知のモンスター? 様々な憶測が飛び交うも答えを出せるものなどいない。
アビス地下階層にすらこれほど凶悪な魔物はいないだろう。体から放たれるオーラと共に突き刺さる凶悪な殺気に一同は足を前に進めることが出来ないでいた。
しかし隊の隊長であるラーバンは勇気を振り絞って叫ぶ、
「恐れるな! 敵はたった1匹だ。落ち着いてやれば勝てる!」
いくら未知の魔物とはいえ数では圧倒的に有利な状況なのはかわらない。
どの道、アレを倒さなければ命はないのだから――
「グオオオオ!」
凄まじい雄叫びを、上げながらすごいスピードでこちらに走ってくると、まるで人が風に吹かれた木の葉のように吹っ飛んでいく。
巨大な化け物の前では盾など意味をなしていなかった。4本の足が地面を叩きながら走るその姿はまさに巨大な黒い塊である。
クマがその巨大な爪を振るうたびフルプレートを着た兵士がボロ雑巾のように引き裂かれ血の雨をふらせた。
一振りで一体何人の人間がバラバラになっているのかわからないほどに……
一気に辺りには生臭い血の匂いが立ち込め戦場は凄惨なものへとかわっていく――
「隊長! 何か作戦はないのでしょうか!? このままでは我が軍の被害は――」
部下がすがるような声を上げ叫ぶ。戦闘が始まってから聞こえる音は、部下の悲痛な断末魔か、今まで一度も聞いたことのない気持ちの悪い何かが潰れる音だけだった。
フランクア軍は数の力を持って犠牲を払いながらも斬りかかるが並の攻撃では化物に傷1つつけることはできていない。
その間にも休むことなく動き続け化物は、正に殺戮マシーンと化している。そのマシーンの前では隊長も一般兵も関係がなく誰もが平等に死を与えられていた。
「ギュルルルル!」
後ずさる兵士を前に化物は二本の足で立つと大きく手を広げた。その姿は正に鉄壁の壁……いや、死神のといっていい。
すると化物は大きく息を吸い込み背中を反らせると、その大きな口から大きな炎の玉を吐き出した。
轟々と燃え盛る火の玉を次々に吐き出すと、悲鳴を上げる時間もないほど一瞬にして数十人の部下達は消し炭となり人の焼けた嫌な臭いが漂う。
「ば、馬鹿な……」
ラーバンは悪い夢でも見ているような感覚におちいった。
あれはどう見ても魔法の類だ。普通、モンスターは魔法を使わない――魔法を持たない分、体は大きく人よりも力が強い。これは常識である。
魔法とは人類のみに許された叡智の結晶であり知能が発達していないモンスターが魔法を使いこなすのは難しいとされているからだ。
一部ドラゴンなどの知能に長けるモンスターは魔法を使いこなすがそんなモンスターはアビス地下階層などの一部にしか生息しないはずだった――
だが目の前の化物はなんだ? 人間を細切れにする力を持ち、魔法すらも使いこなす知能を持つ――
「ひやあああああああ!」
一人の兵士が恐怖に耐えかねついに背中を向けて走り出した。
敵前逃亡は死罪となるが、この化物に殺されるくらいならその方がマシと思えたのだろう。それによって皆のギリギリに張り詰めていた緊張の糸が切れるかに思えた時――
黒い化物は一瞬にして逃げた兵士を、その大きな手で鷲掴みにすると上半身と下半身を掴みゆっくりと引っ張り出す。
「ぎやあああ! だじけてください! だじげてください!」
聞くに耐えない叫び声が響く中、化物に引っ張られた体は色々な所が壊れるおぞましい音を上げていく。
「い、い、いだい……おかあさん……」
体はついに引っ張られる力に耐えられず真っ二つに引き裂かれ臓物を空へと撒き散らしながら化物は半分に分かれた胴体を地面に投げつけた。
その光景を目にした者達は直感した。もう逃げる道はないと――
この化物を仕留めなければ生き延びることはできない。
ラーバンは化物の後ろに見える大きな門に視線を送る。ここでラーバンはある決断をする。
「少しでいい! あの化物を抑えろ! お前たちは俺に続け!」
剣を振り上げラーバンは一直線に走る先にはミクがいた。
こうなったら術者であるこの女を先に倒すしかない――
しかし普通は召喚主が自分より強い魔物を使役することはないのが常識である。だがすでに常識はずれの化物を出したこの女に一般常識があてはまるとは思えない。
化物の使役に全能力を振り本人自体は弱い可能性だってある。これはラーバンの最後の希望に近いと言っていいだろう。
ラーバン達はミクを囲むと剣を突き立てジリジリとにじみよる。
ミクはまるで緊張感のない態度で頬に手を当てながら、
「ゴミとは言えこれだけ数が多いと、いくら可愛いクマちゃんとはいえ大変そうね」
あの化物のどこに可愛さがあるというのだ。ラーバンは顔をしかめるもミクは更に続け、
「ワンちゃんとネコちゃんにも手伝ってもらおうかしら」
軽く放たれたその言葉にラーバンは耳を疑った。
「なん……だと……?」
次の瞬間ミクの腕の中には可愛らしい猫と犬のぬいぐるみが現れる。
「ひゃあぁ!」
部下達は奇声を上げながら尻餅をつきガタガタと震え出す。知らない人がみれば大の大人がぬいぐるみを怖がる姿は滑稽にみえるだろう。だが今なら本当に普通のぬいぐるみであったとしても怖がらない者などいない。
ラーバンの望みは絶たれ、闘志は完全に砕かれた。剣は手から滑り落ち、クマ同様におぞましい姿へと変わる二匹の化物をただ呆然と見つめることしか出来なかった。
そしてミクの最初の言葉を思い出す。
正に魔王だ……
こんなもの人のなせる技ではない。こんなことあっていいはずはない。
そして化物が真の姿をさらけ出した瞬間――
ラーバンの意識は消えその人生の幕をとじた。
◇
エルドナ軍は目の前で起こっている恐ろしい風景に息を呑む。
凶悪な化物3匹が暴れまわるその姿は地獄絵図であった。いつもはのどかに広がる草原も今は見る影もなく誰のものか分からない体の一部と血で真っ赤に染まっている。
力ではフランクア軍には負けないと思っているが、彼等だって軍隊であり同じような訓練は受けている。
フランクア軍と個々の技術ではそこまでの大差はないだろう。そんなフランクア軍がおもちゃのように吹き飛ばされ蹂躙されている様は恐怖を覚えるに十分であった。
これはフランクア王国とエルドナ王国の戦争である。しかし南門ではエルドナ軍は誰一人戦っていなかった。
一体誰がこの地獄の中に入っていけるというのであろうか? 一体何なのかすら分からない凶暴極まりない化物が暴れている中へ入っていくなど自殺するに等しいと言えるだろう。
その化物に敵味方の判断がつくかどうかも分からない。いや、つくと考える者などいないと言っていい。
それどころかそのあまりに圧倒的な力の前に着々とフランクア軍の死体を積み上げ、その必要すらないと思えるほどだ。
戦闘が始まってから誰一人話すものはいない。だがその沈黙も一人の兵士によって破られる。
「お、おい! あれを見ろ!」
兵士が指したその先は森の入口付近である。大きな魔法陣が現れその中から新たな増援部隊が現れた。その中には最高指揮官であるリグン・バルダットの姿も見える。
増援部隊は5千はいるだろう。だがその部隊は明らかに今戦っている部隊とは違っている。
あれこそがエリートだけを集めた本隊であり、リグンはこれで勝負を決めようとしている。
するとミクの前にいつの間にか一人の男が立っていた。黒髪で目が隠れている低身長な男は面倒くさそうに頭をかきながら、
「あーあ、ただの応援のつもりが、ハズレ引いちゃったなー」
その言葉にミクは坦々と口を開く、
「貴方も邪魔するなら殺すけど。死にたくないなら止めときなさい」
男は深く頭を下げながら、
「僕は黒翼兵団のライナー・ロズエル、せっかく来たんだ。僕と少しは遊んでよ」




