「剝き出しの本心」
名を呼ばれた人物は無言で、じっと珂惟を見据えたまま距離を縮めてくる。珂惟はその視線を受け止めたまま、その場に立ち尽くした。
すると琅惺は、あと三歩というところで立ち止まる。そしてずいっと何かを握りしめた右手を珂惟の眼前に突き出し、
「これは俗人、それはまるで道士のなりだな。――こんな夜更けに、どこに行ってた」
今着ている白衣も、琅惺が固く握る、ゆうべ妓楼に着ていった麻の上衣も、出家信者が着れば即還俗ものの俗衣である。
無造作に握りつぶされている見慣れた衣から目を上げると、琅惺の鋭い眼光が珂惟を捉える。微塵も揺るがない眼差しは、思わず息を呑むほどだ。
「木の上で月見てただけ。もう遅いし、寝る」
珂惟は動揺を隠すようにのんびりとそう言い、欠伸混じりに琅惺の横を通り過ぎた。
だが。
「香の匂いがする。この衣からも微かに」
すれ違いざま投げ付けられた鋭い声に、自然と足が止まった。
あの家、腐敗臭がするって主が言い張ってガンガン香を焚きまくってたからな――そんな衣を脱ぎもせず、うかつに地上に下りてしまった自分の浅はかさに珂惟は心中で舌打ちしつつ、ゆっくりと琅惺に向き直った。
どうにかごまかせないかと必死に頭を巡らせたが、「これだ」という妙案が思い浮かばない。他の連中だったらどうとでも言いくるめられるのに、琅惺相手じゃ……。
かといってずっと黙っているわけにもいかない。どうしたものか――珂惟が言葉を必死に探していると、先に琅惺が口火を切った。
「いくらなんでもまさかと思っていたけれど、妓楼に出入りしているという噂は、やはり本当だったのか」
珂惟は思わず目を瞠ってしまった。
てっきり上座と噂になっているだけかと思っていたのに、そんなことまで……。ってか今、思いっきり顔に出たな――そこで不思議と自分が冷静なことに珂惟は気づいた。
それというのも、今、目の前にいるのは、自分とはあまりに対照的な、清廉潔白な沙弥。その彼が怖い目で、瞬きひとつせず自分を睨みつけている。立ち上る湯気まで見えてきそうだ。「とりあえず落ち着け。体に悪いよ?」と声をかけたくなってしまった。
思わず口元が緩む。そして口にした言葉は、
「だったら?」
「だったら!?」
珂惟の、やけに軽い問いかけを反復する琅惺の声は、「信じられない」とばかりに震えていた。彼は右手に握っていた衣を、思いっきり珂惟に投げつけると、
「それが修行に励む者の言葉か。ここをどこだと思ってるんだ!」
「何だよムキになって。何なら今度お前も行く? 連れてってやるよ。結構楽しいぜ」
予想通りすぎる反応がおかしくて、珂惟の言葉はますます軽いものになる。
伏せた顔を小首を傾げて覗き込むと、琅惺は切れるほどに唇を噛み締めていた。
「……け」
「え?」
「出て行け!」
断固とした、大きな声。
一緒に住んで六年になるが、一度たりとも琅惺が声を荒らげたのを見たことも聞いたこともない。珂惟は、「え?」と戸惑いの声をあげたまま硬直してしまう。
顔を上げた琅惺は、堰を切ったように言葉を吐き出した。
「今すぐここから出て行け。今日の所業がバレれば、君はもう僧になれない。今出て行けば、私は誰にも口外しない。京城以外のどこででも出家すればいい。君の実力なら、受けさえすれば度には合格するはずだ」
普段の落ち着きあるものとは異なった、感情を必死に押し殺した声が、微かに震える唇から早口に紡ぎ出される。
今までで一番、彼の気持ちが現れた「意味のある」言葉だと珂惟は思った。これまでは挨拶程度、必要最低限の言葉した交わしたことがないのに。
それはつまり――。
「そんなに俺を追い出したいわけ?」
「そうだ」
きっぱりとした言葉が証す剥き出しの敵意に、珂惟は返す言葉が見つけられない。向けられる視線の鋭さは、いまだに消えることはない。ここまで? どうして?
――そういえば。
上座にここに連れてこられて初めて対峙したとき、すでに行者として生活していたこいつは、やはり、こんな目を俺に向けてきた。新参者は歓迎されないのが世の常だし、他の連中も似たようなものだったし、たいしたことじゃないと思っていたけれど――。
「何で?」
互いに双璧と呼ばれてはいるが、どちらが上かと問われれば、誰もがこの沙弥を指すだろう。「面白くない存在」だと思われているとは感じていたが、これほどまでに憎まれる覚えなど、全くない。
「何で?」
珂惟が重ねて問うのに、琅惺はしばし逡巡する様子を見せた。しかし意を決したように口を開いた。
言う。
「君がいると上座のためにならない」