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京城遊行記  作者: 天水しあ
巻の三『暴夜』
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「妖夜」

 翌夜。


「ぎゃああっ」


 闇の静寂を破るかん高い叫声と共に、建物を飛び出す異物があった。それを追うように、白い衾を投げ捨て院子にわに降りる、人影。

 月明かりの下、「異物」は黒く蠢いていた。人声とは程遠い、まるで地鳴りのように不気味で低い呻き声を垂れ流しながら。

 それに砂を踏み締めジリジリと近づくのは、全身白づくめ、垂らした髪の隙間から鋭い眼光が覗く男――珂惟かいであった。

 首にかけた数珠を左手で捻り、立てた右の人差し指と中指を口元にあてながら、低い声でなにごとかを唱え続けている。そうして黒い塊の周囲をまわりながら距離を詰め、吸い込まれそうな暗黒の中に一瞬、キラリッと光る何かを見たとき、ようやく足を止めた。

「苦しかったろ? 今、楽にしてやるよ」

 目を和らげると、まるで幼子に言い含めるかのように優しい声をかける。

 しかし一瞬後、珂惟は再び眼前の塊を睨み据えると、胸前で人差し指を立てて両手を組み、印を結ぶ。じゃらりと胸元の数珠が鳴った。


「臨」


 声が、夜の帳に走り抜ける。

 するとわずかな葉擦れの音さえ聞こえない無風の院子で、彼の白衣の裾がふわりと舞い上がった。


「兵・闘・者・皆・陣・列・前」


 指で結ぶ印形を変えながら一字を唱えるたび、黒い塊の苦悶が激しくなっていった。形が歪に伸び縮みし、漏れる声には苦痛があふれ出している。


「行!」


 印が解かれた。

 直後に成した右手の刀形で、珂惟は黒塊の目前で横に四、縦に五つ印を切った。

 一層激しくなる苦悶の声に、院子を囲む回廊の片隅で身を寄せる人々が恐怖の悲鳴を上げる。そんな中、暗黒の塊が色を無くしながら、徐々に何かをかたどっていった。

 珂惟は突き出した右手を、眼前の塊に向け勢いよく振り下ろす。


「邪魂消滅、急急如律令!」


 声が放たれたとほぼ同時、雲一つない月夜の空ににわかに雷光が閃き、光の矢が夜色の異物に深々と突き刺さった。

 地面に縫い取られたように動かなくなったそれは、急速に色を失くし、だが確かな形を成し始める。


 一瞬後――それは閃光となって霧散した。


 にわかに落ちる闇――再び夜。

 ただ鉤月の細い光だけが院子を穏やかに包む。


 珂惟は一つ息をつくと振り返り、回廊の片隅に固まる影に近づいていった。

「終わりました」

 伏し目がち、ぶっきらぼうに言う。

「あっ、ありがとうございます」

 二人の女に支えられやっと立ちあがった貧弱な風体の男は、ガタガタ震えながら、どうにか絞り出した声でそう言った。

「で、何だったんですか」

 父を支えながら気丈にも尋ねてきたのは、まだあどけなさの残る娘である。夫の倍もの幅を持つ妻は、細身の夫をへし折らんばかりにしがみついているだけだ。

 珂惟は小さく息をつくと、

「この地に思いを残した鬼、幽霊です。たまたま、ここに邸宅を構えるお宅に現れた――ということでしょう。ですが、もう姿を見せることはないと思います」

 珂惟の言葉に、少女は心から安堵の表情を見せた。父親から身を放すと、深々と頭を下げ、

「道士様、本当にありがとうございました!」

 ずいぶん時間が経ってから上げられた顔には、満面の笑みが広がっていた。珂惟は、つられたように笑顔で頷き返し、

「では私はこれで」

 しかし家の主を見上げた目は一転、悪鬼に向けたものより鋭い光を放っていた。

 その眼差しに、主は心底脅えたように顔を引きつらせながら、

「でっ、では。門までお送り致します」

 妻からどうにか身体を引き剥がし、転がるように院子に下りて来た。

大爺だんなさま、お見送りは私が」

「いや、いい」

 使用人を遮り、早足で主は進んでいく。珂惟は家人たちに一礼を残して、主の後を追った。


「癖毛の若い女」


 人気のないところまで来ると、珂惟が呟いた。

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