『双璧』
「おいおい、抱き合ってるぞ」
本堂の真北、背を向けて立つ二人からは死角になってる食堂の片隅に身を潜めていた先程の沙弥たちが、微かに届く嬌声(と、彼らは思ってる)に顔を見合わせていた。
「本当だ。じゃ、噂は本当だったんだ」
「うそー、ショックだよ俺」
「いつからだよ?」
「かなり長そうだよ。あいつ確か寺に住んで六年になるし、それにあの二人何か似てない?」
「雰囲気そうかも。長年連れ添った夫婦は似るっていうもんなあ」
「――なあ、どっちが誘ったんだと思う?」
「そりゃ立場的に……、上座だろ」
「でも珂惟も妙に色気あるというか……だって知ってる? 法珍さん、あいつ本命らしいよ」
「えっ! あの超厳格で強面の法珍さんが?」
「それ俺も聞いた。しかもあいつ、妓楼に入り浸ってるらしいぜ」
「ええっ本当かよ! いやでもそれは、いくらなんでも。第一、いつ行くんだよ」
「夜、抜け出してるらしいぜ。確かに、夜中に起きたら姿がないことが何回もあった」
「そういや、たまにいい匂いがすることもあったな。昼間花の世話をしたから、とか言ってたけど……。なるほど、それなら納得」
「でもさ、寺を抜け出したって坊門閉まってるだろ。この坊内には妓楼なんかないぞ。他の坊に行くにしたって城内をくまなく歩き回ってる衛士の目を盗んで、どうやって行くんだ」
京城は、皇帝のおわす宮城と、官庁街である皇城を最北に、東西十四、南北十一の大路で碁盤状に区画されていた。大路の幅や長さはまちまちであったが、京城随一のメインストリートであり、城内を東西に二分する形で南北に走る朱雀大路は、幅百五十メートル、長さは約五キロという規模であったという。
そして碁盤の目にあたるのが、高さ一丈の「坊」牆(土壁)で形成される、面積一平方キロメートルほどの「坊」である。東西南北には「坊」門が設けられており、小路で区画されたその「坊」内で、人々は生活をしていた。坊門は夕暮れとともに打たれる「暮鼓」が止んだ後は全て閉じられる。その後、坊を勝手に出る者は、城内を警邏する衛士に見つかり次第、厳罰に処されるしくみだ。
「ああ見えてヤツは不思議と身軽だからなあ。年末の煤払いの時にさ、鐘楼の二階の手すりが折れたじゃん? あそこからヤツ落ちたんだけど、ちゃんと受け身取ってたし」
「えっ? あれって落ちてきた手すりに当たったんじゃなかったのかよ。だってあそこからって、軽く二丈はあるだろうが。死ぬぞ普通」
「かすり傷程度だったぜ。運がよかったって本人は言ってたけど」
「それにしても妓楼って――本当なら僧になる資格ないじゃん」
「と言うより、なる気ないだろ。普段あれだけピンピンしてるのに、度の前になると頭痛だ腹痛だって。自由でいたいんだろ」
「何だよふざけやがって。そんな奴いると寺の風紀が乱れるよなー。やる気なくなるっていうか。ちょっと賢くて大覚寺の双璧とか呼ばれてるからって調子乗ってねえ? 品行方正を絵で描いた片割れもいけ好かねえけど、ああいう人生なめきった奴はもっとムカつく。なら出てけっての」
「――すみません」
「うっ・わーっ!」
盛り上がっている時に背後からいきなり掛けられた声に、彼らは驚きのあまり大声を出してしまった。慌てて口を押さえるが、時既に遅し。
「なんだ騒々しい」
突如上がった声に、梅林の二人はともに食堂の方を向いた。
「あっ、あいつら」
見れば、追い払われたはずの沙弥たちである。彼らは向けられた視線に気づくと、大慌てで走り出し、姿を消した。
「聞かれたかな?」
「この距離じゃ、内容までは無理だろう」
「ならいいけど。――でもあれ絶対誤解したな。ただでさえつまらん噂が立ってるってのに、また恰好のネタを提供しちまった。あーあ」
珂惟は一つため息をつくと、再び箒を拾い、枝葉の小山を築き始めた。だが上座は、目の上に手を翳したまま、尚も食堂の方を見ている。
「まだ誰かいるぞ。こっちに来る」
その声に珂惟は振り返り、再びそちらに目を遣った。そして軽い声を上げる。
「ああ。双璧の片割れ」
「双璧の? 琅惺か」
手を止め、面白そうに琅惺を見ている珂惟に、上座は大仰にため息をつき、
「同じ双璧でも片や度を最年少で度に合格し、片やしがない行者のまま。いくら修行期間が半年違うといっても、お前は一つ年上なんだぞ。情けないとは思わないのか」
「行者」とは寺に住み、雑務をこなしながら仏門修行をする者のこと。度に合格しない限りは在家信者扱いのため、髪を下ろすことは許されていない。ちなみに度は、十五歳から受けることができる。
「へえ、やっぱりよかったじゃん。俺が受けてたら今頃あいつ、あんな涼しい顔と頭してられないだろ。あー、いいことした」
言いながら珂惟は、箒を胸前で止めたまま動かさず、肩越しに近づいて来る琅惺を、待ち構えるように見ていた。
「どうした」
上座は琅惺に近づきながら声をかける。
「和上。そろそろ張様がお見えになります」
「和上」とは沙弥の指導者たる比丘のことで、僧団内の父親と言ってもいい。沙弥は和上の身の回りの世話をしつつ、和上より様々な教えを賜わる。上座が和上ということ自体から、琅惺の将来が約束されていることが知れるというもの。
「ああそうだった。では急ぐか」
上座は珂惟に一瞥を投げると梅林を抜け、琅惺の前を横切る。
琅惺は軽く頭を下げたまま、上座が行き過ぎるのを待った。そしてその後に続こうとして――ふと踵を返す。
珂惟もゆっくりと向き直った。
二人の目が合う。
「おおっ、双璧の対決」
逃げたと見せかけて、沙弥たちは今度は本堂と食堂の間にある講堂の陰からその様子を窺っていた。
「というより上座の取り合いじゃん?」
「そういや両方とも上座が拾って来たんだよな」
一瞬後、琅惺は再び珂惟に背を向け、上座の後に従う。
「おお、怖っ」
珂惟は笑みさえ浮かべながらそう呟くと、二人が建物の陰に消えるのを見ていた。
風が吹く。
すると梅の香りが鼻を擽り、舞い散る花片が、なびく髪にまとわり付くように散っていく。