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京城遊行記  作者: 天水しあ
巻の四『襲撃』
28/48

「襲撃犯」

 声は、横たわった人型からだった。

 上げられた手が、空で躊躇する。間髪入れず投げつけられたふすまが人影を襲った。

「俺がこっちに上座を移すの見てたんだろ? でも残念だったな、ここは隣と隠し扉で続いてんだ。もう上座は、こっちにいねえよ」

 そう、今まで横たわっていた牀台ベッドを背に立ったのは、珂惟かいである。

「お前は、さっきの小僧だな」

 目の前に立っていたのは、黒衣、長身の男。細身だが、それが鍛えられた締まったものであることは一目で知れた。一見書生風の端正な面に、異様な光を放っている両の眼。

「多少は使えるようだが、まだガキだ。俺の相手じゃない」

 そう言う男は、珂惟よりゆうに一回りは年長の様子。口調は平然としているが、すでに身構えている。一分の隙もない。

「逃がさねえよ」

 珂惟は男を睨みあげ、少しずつ距離を詰める。男は口の端を上げ、

「殺るのか?」

 小馬鹿にしたように訊く。

「ここは仏寺だ」

 珂惟は油断無く目配りをしている。

「殺生はご法度なんでね。取っ捕まえて、小路をうろついてる衛士に突き出してやる」

「ならばやってみろ!」

 言うなり、男は瞬時に後ろに大きく飛んだ。その姿が、隣室の闇に溶ける。続けざま。

 バンッ! 

 扉が大きく開く音。珂惟もすぐさま隣室を抜け、回廊へと飛び出した。

 男は廂廊の欄干を越え、今まさに、院子にわの白砂に下り立ったところ。

「逃がさねえって言ったろ!」

 口中に呟き、欄干に手をかけ院子に飛び下りようとした。


 その時。


 背後の軋んだ音が、珂惟の足を止める。振り返ると、今しがた出てきた部屋の隣で扉が少しずつ開いていく。

 ――あ!

「何――?」

 目をしばたかせながら、開いた扉から不審げに現れたのは、琅惺ろうせい

 一気に血の気が引いた。その時、

「臨」

 突然届いた声、慌てて向き直ると、男が覚えのある印を結んでいた。体から月明かりとは違う、色濃い青白さが立ちのぼっている。

「兵・闘・者・皆……」

 ――九字の呪法!

 肩越し、珂惟は琅惺を振り返り、

「聞くな!」

「無駄だな」

 その声に視線を戻す。目の前で男は右手の刀形を前に突き出していた。


「縛!」

 聞いた瞬間、身動き一つできなくなった。声すら出ない。

 ――金縛りか!

 腕に力を込める。だが力は腕を震えさせるだけで、小指一本すら動かしてくれない。

 歯噛みする眼前で、院子に立つ男は、黙って珂惟を見上げていた。細められた眼差しが、勝ち誇ったように笑っている。

 そこへ騒ぎを聞き付けたのか、いくつもの足音が乱れ近づくさまが耳に届いた。

「やっと来たか」

 男はそちらにゆっくり目を投げた。そして再び目を戻し、珂惟と琅惺を交互に見やると、

男はうっすら笑みを浮かべたまま踵を返す。

「じゃあな」

 軽々と木に乗り塀に乗り、そこで珂惟たちを振り返った男は、指をパチンと鳴らした。そして、闇に姿を消す。

「珂惟!」

 力を入れ続けても全く動けないほど強靭だった力をいきなり解かれ、珂惟はまるで吊られた糸をきられたかのように、その場に膝をついた。

「大丈夫か」

 かくいう琅惺もまともに歩くことができず、よろめきながら珂惟の隣に寄った。

「珂惟――?」

 動くことができるようになったのに、いまだ自分の体を自由にできなかった。立つことができないばかりか、呼吸整わず、体の震えがとまらない。こんなことは初めてだ――何をやっているんだと自分を叱咤しても、どうにもできない。回廊の床についた両手をただただ睨んでいたが、大きく息をつきながら瞑目する。落ち着け、落ち着くんだと自らに言い聞かせながら。

「珂惟、どうした?」

 呼びかける琅惺の声が困惑から、次第に心配へと変わった。右に膝をついた琅惺は、左手をその肩に乗せながら珂惟を覗き込んで何度も声をかけてくる。ああ、なんだってこんな醜態。

 だけど肩から伝わる熱が、逸る心臓をたちまち鎮めていくのが分かった。

 その手が突然離れた。勢いよく立ち上がった琅惺が、よろめきながらも踵を返す。珂惟が振り返ると、琅惺の後ろ姿が上座のいる部屋の闇に沈んでいった。そしてほどなく―。

「大丈夫、上座は無事だ」

 今度はいつも通りの足取りで再び横に座った琅惺が、この目を捉えながら、笑顔を見せた。その言葉がどれだけ呼吸を楽にしてくれたことか。背中を押す掌が、どれだけ心強いことか。

「ごめん、立たせて」

「え?」

「他の奴らが来る。こんな無様な格好は見せられねえよ」

「分かった」

 琅惺に抱えられるようにして、珂惟は腰を引き上げる。少しだけ琅惺に体の重さを預け、背中半ばほどの高さのある欄干に寄って立ち上がった。

「くそっ、逃がした」

 欄干に両手をのせながら、珂惟は何度も首を振った。

「あれは何者だ」

 同じく半身を欄干に預けた琅惺が、隣の珂惟に目を向けて、訊く。

「あいつが襲撃犯だ。俺は見た、あの時、あいつが本堂の上から姿を消すのを」

「ええっ」


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