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京城遊行記  作者: 天水しあ
巻の四『襲撃』
27/48

「視線」

「それにしても」

 珂惟かい院子にわに向かって開かれた扉にもたれかかり、外に目を遣っていた。

 月が、見事なまでの輝きで院子の砂礫を青白く照らしている。向こうの闇には、普段よりずっと多い炎が行き来していた。流れる火を目に映しながら、呟く。


「明らかに上座かみざを狙ってた。一体……」

「少なくとも仏教関係者じゃない。今日はどこも灌仏祭で忙しい、そんな中を抜け出してこんなことをすれば、自分が犯人だと言うようなものだ。何より大衆の面前で危険を冒さずとも、もっと他の機会を狙える」

 声は部屋の奥から。

 そこでは琅惺ろうせいが上座の休む隣室へと続く閉ざされた扉の前で端座し、真っすぐ院子を見据えていた。

「それを言ったら誰だってそうじゃないか? 基本的に寺へは誰でも入れるんだから」

 珂惟は背後の琅惺を振り返って、聞いた。

「気安く入れない者もいるだろう」

 琅惺はおもむろに立ち上がり、開け放たれた扉に歩み寄った。そして珂惟の隣で足を止め、

「まあ、ただの目立ちたがりかもしれないな。――とりあえず坊内の小路は衛士が回っているし、寺内は見回りがいる。君は戻って休め」

 珂惟を向くと、そんなことを言う。

「それを言うならお前が、だろ。今日は大活躍だったしな。お疲れじゃない?」

「ご心配どうも。でも医師から緊急の処置を聞いているし、私が残った方がいい。――下卑た噂も立たないしな」

 琅惺は薄笑いを浮かべながらそんなことを言う。珂惟は口を尖らせ、

「俺は医術の心得があるんだぜ」

 やり返すが、

「はは、笑える冗談だ」

 軽く返されてしまった。

「――分かった。じゃ、そうする」

 そう言うと、琅惺は眉を上げ、

「珍しく聞き分けがいい」

「何それ」

 二人は揃って院子に目を遣った。並んだ二つの影が、青白い室内に長く伸びる。


「――多謝」


「別に。当然のことをしたまでだし」

 珂惟の謝辞に、琅惺はさらりと応える。そして、

「よかったな」

 そう向けられた眼差しは、月明かりの中、随分と柔らかだった。

「うん」

 珂惟は目を細め、素直に頷く。そして、

「俺行くわ。でもそうしたらお前、この部屋から当分出れないだろ? 今のうち用あるなら行っといたら?」

 その申し出に、琅惺は暫し思案顔だったが、

「じゃ、そうさせて貰おう」

 そう言うと珂惟の脇を抜けて部屋を出て、廊下を進んでいった。


 ――「和上わじょう」って、呼ばなかったな。


 上座を和上と呼べるのは、選ばれたごく少数だけ。対処は流石だったが、やはりわだかまりは残っているのか。その琅惺が渡っていく回廊の向こう、相も変わらず揺れ動く赤が、行き交うのが見える。


 ほどなく。


「じゃ、あとは頼むな」

 戻った琅惺と入れ替わって、珂惟は部屋を出た。そして振り返り、

「中から鍵下ろしとけよ。念の為」

「分かってる」

 かけられた言葉に、頷く琅惺。そして、

「奥も、な」

 口早に告げられた言葉に琅惺は無言で、また一つ頷いた。

 それを見、珂惟は軽く右手を上げて部屋を出た。数歩進むうち、背後で軋んだ音が鳴り始め、やがて扉が閉まったのがその重々しい音と、足に伝わる振動で分かった。


 やがて――。


 琅惺の居る部屋に真っすぐ射し込んでいた月光が、いつしか部屋前の回廊に斜めに射すだけになっていた。

 内院には樹木がいくつもの影を落としている。忙しく巡っていた松明の数も減り、いつも通りの静かな夜が、ようやく大覚寺に訪れた。


 ふいに風が吹く。


 廊下に落ちる一つの影。

 柱の陰を潜り、音も無く歩みを進めるそれは、やがてある一室で止まった。


 キィ……。


 僅かな音と共に扉が開く。

 室内、月明かりに少し緩んだ闇に、人影はない。

 影は真っすぐ、部屋の奥、隣室への扉を目指す。

 再び僅かな音。

 開いた扉の向こう、片隅に一つ置かれた燭台が、闇に仄かな朱を色付けている。そしてその中に、ぼうと浮かぶ白色。それは人型に盛り上がっていた。

 朱に照らされた口元が、微かに上がる。


 その時。


「やっぱ見てたんだ」


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