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京城遊行記  作者: 天水しあ
巻の四『牡丹鑑賞』
23/48

「幼馴染」

 永安渠は、隋代に物資の運搬などを目的に開削された、崇賢坊内を流れる運河である。

 そこに辿り着いた時、すでに街鼓は絶え、辺りに人影はなかった。

 水面は夕日の朱と、穏やかに立つ小波の黒が綾なしている。日が真面に当たる場所は、まるで磨き上げられた鏡面のように、光り輝いていた。

 温い風が、二人の衣をなびかせている。

「気持ちいいな」

 琅惺ろうせいが両手を眼前に翳しながら、誰とはなしに呟くのを、隣に並んだ珂惟かいは、

「そうだな」

 と同意してみせる。

 水のさざなむ音、葉のゆらぐ音が絶え間無く流れるのを、二人は静かに聞いていた。

 それから、しばらく。

「――いつから、出入りしてるんだ」

 徐に口を開いたのは、琅惺だった。

「ああ『春華楼』のことか。二年くらいかな、あいつと再会してからだから」

 問いかけに、あっけらかんと応える珂惟。

 その横で、琅惺は何事か悩むように眉を寄せていたが、

「彼女、まだ笄礼(女子の成人式)を上げてないみたいだけど、やっぱり、十五になったら、つまり……」

 言葉を選ぶように、しかしなかなか意志を伝えられないように口ごもりながら、言葉を繋ぐ。対する珂惟は変わらない様子で、

「まあ、そうだな。借金が返せない以上は、笄礼を上げたら客を取ることになるだろうな」

「借金? どうして」

「こっち来て三年って言ってたな。何でもお袋さんが身重なところに親父さんが病気になっちゃってって、ありがちな話なんだけど」

 琅惺は眉を顰め、痛ましげな表情を見せた。

「そうか……。でもまあ、あの仮母さん、いい人そうだったし……」

「そう見える?」

「えっ?」

 面白そうな声を上げる珂惟を、琅惺は思わず振り返った。珂惟は口角を上げたまま、

「いい人そうに見せて、あの仮母、なかなかの食わせモンだぜ。古い知り合いだった杏香の母親から相談を受けて、杏香きょうかを三年間、女童として働かせることにしたらしいけど、杏香を見て欲が出たらしい。あいつ、見てくれだけはいいからな」

「どういうこと?」

「最初から杏香を妓女にするつもりだったのさ。その証拠に、三年間の給金込みで三千文、前払いしたらしいからな」

「三千文!? 子供の奴隷が一人買えるじゃないか」

「詳しいな」

「いや……」

 ちなみにこの時代、千文あれば一家四人が一年間つつましく生活していけたという。

「で、だよ。杏香の家は今は茶店なんだけど、あいつはそこの看板娘。親父さんの病気も幸い軽かったし、子供が無事生まれてお袋さんも元気になったし、周りから金を借りまくって、親父さんはどうにか三千文を用意した。それを持って正月早々長安にやってきた」

「それで?」

「ところがだよ、応対に出た仮母は『今、忙しいから、とりあえず休んでいてくれ』とか言って、近所の旅館を案内した。で、そこで三千文は盗まれた。親父さんが青くなっているところにやってきた仮母は『金がないなら、娘を妓女にして返してもらうしかないね』ときたもんだ。『まあ事情が事情だから、春いっぱいは待ちましょう。それまでに給金とは別の二千文、用意できなければ、それ以降は待てません。うちも商売ですからね』とか抜かしやがった。親父さんは有り金はたいたばかりだし、杏香も多少は溜めていたけど全然足りない。まったく、『長安は生き馬の目を抜くところ』とは、よく言ったもんだ」

「そんな……」

 吐き捨てるような珂惟の言葉に、琅惺は絶句する。

 二人の間を、ただ川音だけが流れていく。

「それで――」

 先に口を開いたのは、琅惺である。

「再会っていったよね。つまり、あの彼女を、君は寺に入る前から知ってたってこと?」

「ああ。幼馴染だからな」

「幼馴染……」

「偶然、西市で会った時はそりゃあ驚いた。洛陽に居るとばかり思ってたから。あいつとは、母親同士が同僚だったから、ガキの頃から知ってる。ついでに俺が生まれ育ったのもああいうトコ」

「ああいうところ?」

「妓楼、母さん、妓女だったから」

 琅惺の顔が強ばるのは、見なくても分かる。

「妓女のくせに、足を挫いたトコを助けてくれた坊主好きになったって、これもありがちか。でもどうしても自分が妓女って言えなくて、邪魔したくなくて、多分還俗するとでも言ったんだろ、あのヒトのことだから。だから身を引いたって。俺がいるっての黙って」

 琅惺は身じろぎ一つしない。だが話を拒否するわけでもない。続けた。

「七ツで母さんが流行り病であっけなく死んで、他に身寄りなかった俺は、妓楼の雑用兼用心棒として仕込まれて……。まあ、それで四年経ったある日――六年前か、洛陽に説法に来たあの人に、これまた偶然会って、寺に引き取られたってわけ」

「――何が言いたい」

 呟くような声。琅惺は珂惟から目を逸らし、水面を見ていていた。

「さっきお前、俺があそこに行くの認めるって言ったろ? なら、ついでに認めてやってよ、上座のこと」

「それとこれとは――」

 琅惺の表情が強ばる。これ以上言ったら駄目だ、分かるのに、止められない。追いつめちゃいけないという思いとは裏腹に、口だけが勝手に動いてしまう。

「保身の為に黙ってたって言ってたけど、あの人が地位や名誉に固執したりなんかしないって、付き合い長いお前なら分かるだろ? 何度も嘘つくのは辛いっていうの、止めたのは俺なんだ。もしお前の気が済むなら、俺があの寺出たって――」

「帰ろう。もう日が落ちる」

 目を合わせる事なく、琅惺が身を翻した。珂惟は慌てて後を追い、

「でも思う。何だかんだ言ってあの人が嘘つく辛さに耐えてたのは、きっと俺の制止のせいじゃなくて、お前の気持ちを踏みにじりたくなかったからだって。お前凄く上座のこと敬愛してたろ? それが分かるから――」

「言われても!」

 突如立ち止まり、振り返った琅惺の目には強い光。

「ここが、そんなに浄い世界じゃないことも薄々分かってたし、今日それがもっとはっきり分かった。確かに人は弱い、自分の思ったままに綺麗ではいられない。でも――」

 そこまで言うと、ふいに次の言葉を呑み込んだ。そして俯く。

「――もう帰ろう」

 力無い声。その痛々しさに珂惟はかける言葉を見いだすことはできなかった。ただ一言を除いては。


「分かった」


 共に傾いた陽光を背に感じながら、永安渠を後にする。足元に長々と伸びる黒い影に目を落としながら、二人は人気のない小路を、黙って歩いた。






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