「商売敵」
「もういいよ、これ取って」
部屋に入るなり奪われた笠に、琅惺は驚愕のあまり固まってしまった。それを見て、杏香は驚きの声を上げる。
「まあ、すごい汗。待って、今拭くものを」
慌てて隣の部屋(寝室)へと走ると、すぐさま取って返し、
「はい」
笑顔で布を差し出した。
「あっ、ありがとうございます」
声が裏返っている。琅惺は慌てて咳払いをし、受け取った布で頭を拭った。
「待ってて、今何か飲み物を持って来るわ。何がいいかしら、いつもみたく、お酒?」
「おい、そんなん飲んでねえだろ! こいつが本気にするじゃねえか、いつも通り茶でいい茶で!」
「はいはい」
慌てて怒る珂惟に、杏香は笑いながら応え部屋を出て行った。
「信じてねえだろうな。俺絶対、般若湯なんか飲んでねえから」
杏香が姿を消した途端、向けられ続けた厳しい視線に、珂惟は慌てて反論する。だが、
「それ以前の問題だろ」
冷たく切り捨てられ、珂惟はへ? という表情だ。そこへ、
「お待たせー」
杏香が盆に茶を乗せて戻って来た。
「あら、どうかした?」
妙な雰囲気を感じ取ったか、杏香が小首を傾げてそう尋ねてくる。
そして――。
「なあんだ、そんなこと気にしてたのー」
お茶が運ばれてしばらく、杏香の鈴を鳴らしたような軽やかな笑い声が室内に響いた。
「珂惟が連れて来たからひょっとして、と思ったけど、態度見て確信しちゃった。それに私驚かなかったでしょ? 何でか分かる?」
向けられる杏香の視線を躱しながら、眉を寄せる琅惺。
「慣れてるってことよ。よく来るわよーお坊さん。守秘義務あるから誰とは言えないけど、上座さんとか寺主さんとかも珍しくないよ。どこの寺の、ってのも内緒だけど」
にっこり笑う杏香の言葉に、琅惺は凍りついた。珂惟は慌てて、
「おい、だからお前はどうして平気でそういうことを――」
「マズかった? そう言えば、名前聞いてなかったけど、ひょっとして――琅惺さん?」
その言葉に、琅惺は思わず杏香を見る。「どうして私の名を?」
「やっぱり! だと思ったんだ。感激だわ。街で噂のすごーい頭いい人に会えるなんて。それに、珂惟が寺の中のことを話すとき、唯一上げる名前だったから……」
「あーもういいお前、黙ってろ」
「何でよー」
「うるさい黙ってろ」
そんな二人の様子を、琅惺は不思議そうな表情をして見ている。すると、
「あ、そうそう」
杏香が思いついたように手を叩いた。
「あのね珂惟。前、言ってたでしょ依頼が減ったって。それが何でか分かったのよ」
「イライ?」
琅惺がおうむ返しに繰り返す。杏香は琅惺の方を向き、笑いかけると、
「そう、依頼。悪鬼祓いの」
「お前――また」
慌てる珂惟に、杏香は不思議そうに、
「あら、いけなかった?」
「悪鬼祓いって――じゃ、この前まるで道士みたいな格好で帰ってきたのは――」
琅惺の咎めるような視線を、珂惟は困惑を隠し切れないままに逸らした。ご想像通りと答えたようなものである。
珂惟は大きくため息をつき茶碗を持つと、
「で、どう分かったわけ?」
一口啜り、開き直ったように、そう聞いた。
問いかけに、杏香は身を乗り出すと、「大事だ」といわんばかりに、一言。
「なんと、商売敵がいたのよ!」
「商売敵?」
「そう。茉莉女兄さんのお馴染みさんが言ってたんだけど、最近、街東(朱雀大路で京城を二分したうちの東半分)中心に悪鬼祓いをする人がいるらしいの」
大覚寺のある崇賢坊もここ西市も街西にあたる。そして一般的に街東には官僚や貴人宅が多く、街西には庶民が多いとされていた。
「街東に? 道理であっち方面の依頼が全然ないわけだ。くっそ金持ち揃いの街東を取るとは汚ぇヤツだ。どんなヤツよ?」
「年は三十近くで、すっごい能力のある道士らしいわ。身の丈がゆうに六尺はあって、足長くって細面で、しかも、しかも二重で、切れ長な眼差しが目を引くいい男らしいのよー」
まるで見てきたかのように目を輝かせる杏香。ちなみにそれだけ背が高く、二重というのは、この時代では珍しいことである。
嬉々とした様子の杏香に、珂惟は苦虫を噛み潰したような顔をして、
「道士かどうかは分からんな。俺も違うし」
そう言って一息に茶を飲み干すと、
「ったく俺の専売特許を勝手に取りやがって、見つけたらただじゃおかん」
忌々し気に吐き捨てる。とはいえ道士崩れがあちこちで似たようなことをしており、悪鬼祓いは珂惟の専売でもなければ商売敵も一人とは限らないのだが。
そこへ鼓の連打される音が隆々と、微かながら確かに聞こえて来た。暮鼓である。
「おい、そろそろ行くぞ」
それを聞き、珂惟は徐に立ち上がると、おとなしく座って茶碗を持っている琅惺を見下ろし、言った。
「あっ、うん。ごっごちそうさまでした」
それに押されたように慌てて立ち上がる琅惺。
「え、もう? いつもより早いじゃない」
「仕方ねえだろ、こいつトロいんだから。坊越えなんかさせらんねえよ」
琅惺は言い返すのも忘れて立ち尽くしている。妓楼だ、悪鬼祓いだ、坊越えだのと優等生には全く馴染みない言葉を一度に聞かされ、それを理解するので精一杯なようだ。
杏香は、さもありなん、とばかりに頷き、
「そうよね、それが普通よね。じゃあ商売敵のこと、もう少し詳しく聞いておくわ。今度は昼間に来てよ、抜けやすいから。琅惺さんもまた来てね。きっとよ」
そして笑顔で琅惺に笠を渡す。
「はっ、はい」
それに琅惺は笑顔で頷いたばかりか、
「約束ね」
と言われ、小指を絡めたりなんかしてる。
「おいおい」
その様子を、珂惟は呆れて眺めていた。
そして二人は裏口からこっそり送り出してもらう。
二人は人目を避けて元の格好に戻ると、
「な、なかなかいい牡丹だったろ」
暮鼓が鳴り始めてから、相当の時間が経っている。閉門時刻が迫るため、早足で崇賢坊を目指しつつ珂惟は隣の琅惺を振り返った。
「まあ……」
琅惺はその視線を避けながら、曖昧に答える。その様がおかしくて忍び笑いをしていると、それに気づいたか琅惺は、いきなり珂惟を振り返り、睨みつけると、
「そういえば何だ悪鬼祓いって、坊越えって。寺に身を寄せている身でありながら、平気で金を稼いだり、俗法を破ったりしていいと思ってるのか!」
怒ったように、だが人とすれ違う際には幾分小声になってそんなことを言う。
「そりゃお前はマズいけど、俺まだ在家だから。金を稼ぐなってのは十戒にはあっても五戒にはないからな。――でも言っとくけど、もうお前も共犯だから」
「何だそれ」
琅惺が驚いて問い返すのを、
「だって俗衣着て妓楼に行ったって、バラされたらマズいっしょ」
「お前――それで私を連れていったのか、汚いぞ! それに、別に私は何も――」
「何もしてないってんだろ? じゃ俺もそうだから、認めてよ。あそこに行くの」
琅惺の足が止まった。驚いた顔で、同じく立ち止まった珂惟を見る。
「そうなの?」
「そうだよ、安心した?」
「――誰が」
琅惺は顔を背けると、足を早めた。
眼前には、差し込む夕日に朱と黒のコントラストに染まった崇賢坊の西坊門。耳には相変わらず続く鼓声。ほどなく街鼓が鳴り終わり坊門が閉じてしまった後、街を歩く者は厳罰に処されるというわけだ。
「ねえ、認めろってば」
珂惟は慌てて琅惺の後を追う。並ぶと、
「認めろって」
「うるさいな、もう。分かったよ」
執拗にそう言われ、渋々琅惺は頷いた。そして二人は揃って坊門をくぐる。
「なあもう坊越えの心配しなくていいし、ちょっと水でも見に行かない?」
「水?」
訝る琅惺。珂惟は琅惺の背後を指さし、一言。
「永安渠」




